昨日妻と「横浜開港資料館(横浜市中区日本大通3)」へ「濱ともカード」を利用して行ってみた。開港資料館の中庭には大樹が生い茂っている。同館発行の「ペリー来航と横浜」と題した小冊子によると、この樹木は「玉楠の木」と呼ばれているそうだ。
同館に「玉楠の木」が描かれた石版画がある。題名は「ペリーの横浜上陸」と題して1855年発刊されている。その版画の説明文は…
「1854年3月8日、ペリーは約500名の将兵を率いて横浜に上陸、絵の左手の応接所に入り、日米会談が開始された。ハイネの水彩画をもとにブラウンが大判の石版画(64×89.3メートル)を作成した日本遠征画集の1枚」とある。
この絵葉書の右側に一本の大木が描かれている。この大木こそが「玉楠の木」と呼ばれているものである。この「玉楠の木」は、大正12年(1923)9月1日、南関東地方を襲った大震災の結果、この玉楠の木は焼失してしまった。
ところが、翌年の春、根から新芽が出て昭和6年(1931)に絵葉書に描かれた位置から10メートル離れた場所に移植した。それが横浜開港資料館の中庭で逞しく生い茂っている絵葉書にある木なのである。
150年前外国人が描いた絵葉書の大木が今こうして現存している生き証人を眺めると歴史の重さを感じるとともに横浜開港際150年のイベントで大々的にPRして欲しかった。
いずれにしても、この歴史の生き証人と絵葉書に描かれた大木を見つめながら横浜開港資料館中庭に生い茂る「玉楠の木」を是非見ていただきたい。衆議院選挙で浮き足立っている国会議員のコメントを聞くにつけこの重厚な歴史を感じ取って欲しいと願うからである。
同館に「玉楠の木」が描かれた石版画がある。題名は「ペリーの横浜上陸」と題して1855年発刊されている。その版画の説明文は…
「1854年3月8日、ペリーは約500名の将兵を率いて横浜に上陸、絵の左手の応接所に入り、日米会談が開始された。ハイネの水彩画をもとにブラウンが大判の石版画(64×89.3メートル)を作成した日本遠征画集の1枚」とある。
この絵葉書の右側に一本の大木が描かれている。この大木こそが「玉楠の木」と呼ばれているものである。この「玉楠の木」は、大正12年(1923)9月1日、南関東地方を襲った大震災の結果、この玉楠の木は焼失してしまった。
ところが、翌年の春、根から新芽が出て昭和6年(1931)に絵葉書に描かれた位置から10メートル離れた場所に移植した。それが横浜開港資料館の中庭で逞しく生い茂っている絵葉書にある木なのである。
150年前外国人が描いた絵葉書の大木が今こうして現存している生き証人を眺めると歴史の重さを感じるとともに横浜開港際150年のイベントで大々的にPRして欲しかった。
いずれにしても、この歴史の生き証人と絵葉書に描かれた大木を見つめながら横浜開港資料館中庭に生い茂る「玉楠の木」を是非見ていただきたい。衆議院選挙で浮き足立っている国会議員のコメントを聞くにつけこの重厚な歴史を感じ取って欲しいと願うからである。