最終授業:キリスト教・神秘主義・現代科学

2011年02月02日 | 心の教育

 妻の母の逝去のため、O大学は学期の終わり近くで休講したため、休みに入ってから補講をしました。

 予定のある学生たちも多いと思われるので、補講は出席数にカウントせず自主判断に任せました。ただし、「出ても出なくても成績評価には関係させないけど、結論だから、ちょっと無理しても聞いたほうがお得だと思うけどね」というコメント付きです。

 最終授業を聞いた学生の一人からは、次のような感想がありました。


 O大学1年女子
 この最後の講義で、「あ、全部つながった」と感じました。この15回の授業も、先生の話もです。つながり、みんな一つ、宇宙の一つ。
 コスモロジーは、きっと、数学よりも英語よりも、私たち人間が学ばないといけないもの。私は、そう思いました。
 秋学期、本当にありがとうございました。

 この学生はレポートの最後の感想には、次のように書いてくれました。


 正直に言うと、今までの私は、下を向いて人生を歩んできた気がします。
 でも、先生の授業を受けたおかげで、前を向いて生きていけると思いました。
 本当にありがとうございました。スペースがなくて、書ききれないけど、感謝の気持ちでいっぱいです。


 こちらこそ、学んでくれてありがとう、感謝です。授業の目的「伝えたいいのちの意味」が伝わったようですね。教師にとって学生が育ってくれることほどうれしいことはありません。

 今、こうしたうれしいレポートや、ちょっとがっかりするレポートなど、たくさんの採点に忙殺されています。

 長くなりますが、ご参考に、最終授業のレジュメを以下に掲載しておきます。


   キリスト教・神秘主義・現代科学

 キリスト教の正統的教義では、「神と人間とは絶対的に断絶していて、神の側からの働きかけ(キリスト)によってのみ救われる」とされています。

 使徒信条 現代語訳

 天地の創造主、 全能の父である神を信じます。
 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン。


 筆者は、かつて以下のように書きました(『コスモロジーの創造』法蔵館、二〇〇〇年、一部改訂)
 「…〈宗教〉とは、みずからの派の教祖―教師、教義、教団、儀式、修行法などの絶対視、つまり言葉の悪い意味での「信仰」と「服従」を不可欠の条件として、人を富や癒しや調和、生きがい、安心、あるいは救い、死後の幸福な生命、悟り……といった肯定的な状態へ導く(と自称する)システムとグループを指す。
 これには、別にオウム真理教だけではなく、私の知りえたかぎりでの大多数の既成宗教、新宗教、新新宗教が含まれる(「すべて」ではない)。もちろん、競争相手としてのオウムの没落を喜んでいるらしい他の宗教も含む。そしてこれには、一見非宗教的であっても、自己絶対視の体質を抜けられない〈イデオロギー〉をも含めるべきだろう。」

 こうした宗教は、もし信じることができると非常に強い心情を持つことができるし、また信仰を共有する人同士では強い連帯をすることができます。
 非常に合理主義化された現代でも宗教がなくならない最大の理由は、宗教に個人としても集団としてもきわめて強いアイデンティティを保障してくれるという機能があることでしょう。
 しかし、神話をベースにした宗教には次のような根本的な限界があります。

 「何を根拠にしようと、自己絶対視は、かならず人を敵と味方に分断する。敵を生みだす思想は、かならず敵意を生み出す。  自己を絶対とみなしている宗教やイデオロギーにとって、自己の味方でない他者は、せいぜい布教し、改心させる(時には洗脳する)対象ではあっても、そのままで認めうる存在ではない。そして、いくら布教しても信じない他者は、哀れむべき存在であり、それにとどまらず、布教に反対する者は憎むべき呪われた存在とみなされることになる。
 事と次第では、神(人類、人民、民族、国家、正義、真理……などに置き換えてもおなじことだが)に反する者は、神に呪われたものであり、したがって神に代わって我々が殺してもよい、という結論にまで到る。
 建て前上、「布教・説得はしても強制はしない」などと寛容な構えを見せても、自己絶対視は心情としていやおうなしに敵意、すなわち憎悪・殺意を含んでしまう。だから、寛容でありうるのは、集団がまだきわめて小さいか、あるいは逆にかなり大きくなって余裕がある時のことであって、余裕がなくなると、とたんに敵意を剥き出しにする。
 しかも行き詰まると、「敵」は、外だけでなく内にもいるように見えてくる(「うまくいかないのはあいつのせいだ」などと)。したがって、憎悪・殺意は、ほとんど必然的に、外だけでなく内にも向かう。
 それが「宗教」だけではなくすべてのイデオロギーに秘められた心情の問題であることは、すでに、ナチズムや日本の天皇制ファシズム、共産圏におけるスターリニズムの悲劇的な現象などによって、明確になったのではないだろうか。とりわけ日本では、一九六〇年代末から七〇年代始めの新左翼の内ゲバ事件、なによりも連合赤軍浅間山荘事件によって、社会的なイメージ、常識として、あまりにも明らかになった、と私は思っていた。が、かならずしも市民全体のレベルではそうでもなかったらしい。
 ……つまり、オウム事件の根本にあるのも、〈宗教的心情〉の問題であり、それはほとんどの宗教―イデオロギーの抱えている限界でもある。
 「絶対に正しい我々が、絶対にまちがったあいつらを改宗させるか、さもなければ全滅させることによって、正しい、すばらしいユートピアがやってくる」(かつて埴谷雄高がいった言葉を借りれば「あいつは敵だあいつを殺せ」)というタイプの思考システムと、それが生み出す心情は、程度の差はあれ必ずといっていいほど、憎悪―闘争―虐殺をもたらすがゆえに、もはや、人類の未来にとって、それこそ絶対に無効―有害である。
 その点について、『キリスト教の本質』(上下、船山信一訳、岩波文庫)などにおけるフォイエルバッハの宗教批判――これは唯物論を含むイデオロギー全体の批判でもあるはずですが――の言葉は、あまりにも古典的なようだが、きわめて的確に指摘していると思う。

 宗教は自分の教説にのろいと祝福・罰と浄福を結びつける。信ずる人は浄福であり、信じない人は不幸であり見捨てられており罰せられている。したがって、宗教は理性に訴えないで心情に訴え、また幸福に訴え、恐怖と希望との激情に訴える。宗教は理論的立場に立っていない。(邦訳下、七頁)

 ……信仰そのものの本性はいたるところで同一である。信仰はあらゆる祝福とあらゆる善とを自分と自分の神へと集める。……信仰はまたあらゆるのろいとあらゆる不都合とあらゆる害悪とを不信仰へ投げつける。信仰をもった人は祝福され神の気に入り永遠の浄福に参与する。信仰をもたない人はのろわれ神に放逐され人間に非難されている。なぜかといえば神が非難するものを人間は認めたりゆるしたりしてはならないからである。そんなことをしたら神の判断を非難することになろう。(同、一二二頁)

 ……信仰は本質的に党派的である。……賛成しないものは……反対するものである。信仰はただ敵または友を知っているだけであってなんら非党派性を知らない。信仰はもっぱら自己自身に心をうばわれている。信仰は本質的に不寛容である。(同、一二六~一二七頁)

 右であれ左であれ、人間に平和と幸福をもたらすと自称した思想が、なぜ憎悪と悲劇を生み出してきたのか。それは、絶対視された物差しによって、天国・ユートピアに入る資格のある者とない者の心情的な絶対的分離=敵意をもたらすからである。自己を絶対視する思想としての〈宗教〉には、原理的にいって、人類規模の平和をもたらす力はない。そういう意味で、未来はないのである。」

 ところが、キリスト教と呼ばれる宗教現象はけっして一種類ではなく、その伝統の中には「キリスト教神秘主義」と呼ばれるものがあり(パリンダー『神秘主義』講談社学術文庫、第一二章「キリスト教の多様性」参照)、その教えは説く人によってかなりニュアンスは違いますが、おおまかにいえば、「神と人間は本来は一つであり、また一つになることができる」とされています。
 また解釈の仕方によっては、イエス(福音書)もパウロもヨハネも神秘思想家と理解できるような言葉を残しています。
 福音書:「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などと言えない。神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカによる福音書一七・二一)、「わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書一〇・三〇)
 パウロ:「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ人への手紙二・二〇)
 ヨハネ:「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」
 さらに、一三世紀のキリスト教神秘主義の代表的な思想家と評価されているマイスター・エックハルトは、「神は絶対無である」としており、その思想は仏教とほとんど同じではないかと評されることがしばしばあります(西谷啓治『神と絶対無』創文社版著作集 所収、上田閑照『エックハルト』講談社学術文庫、等参照)
 宇宙の創造者であり絶対無でもある「神」という概念が指し示そうとしているのは、仏教で「仏・空・一如」という概念で指し示されている事柄とも、また現代科学が語る私たちと一体である「宇宙」ともほとんど同じである、と私は考えています。
 もしそう考えていいとすれば、現代においては、神秘主義的なキリスト教(やユダヤ教、イスラム教など)と仏教といういわゆる「宗教」のエッセンス(霊性的宗教)と現代科学の描き出すコスモロジーは基本的にはみごとに調和するという状況がやってきているわけです。
 また、そうした霊性的宗教のエッセンスと現代科学の調和点から描き出されるコスモロジーはどこまでも理性・科学的に検証した上で受け入れるかどうかを決めることができるという点で、理性段階以上に発達した人類においてはきわめて広く共有ができると推測できますから、これまでの宗教やイデオロギーと異なって対立・抗争をもたらすことなく、人類規模の平和をもたらす可能性が高いと思われます。


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5 コメント

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信仰と宗教とは違うと思います。 (日比野暉彦)
2012-04-20 18:46:01
 パウロの文章を持ち出すことになりますが エレミヤ書という旧約での文書をも拠り所にしています。
ただし おっしゃるような経験科学〔だけ〕によって議論し明らかにしているということではありません。その点 残念ですが 表題のことについて お伝えいたしたいと思いました。

 ▲ (ヘブル書8:7-13)~~~~~
 もし、あの最初の契約(* むろん モーセの)が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~

 こうして いわば律法本位が あらたにされるとき むろん そこに現われる信仰は アブラハムのものです。たとえば こうです。

 ▲ (ローマ書4:9-12) ~~~~
 実は すでに述べたように 

   アブラハムは信仰によって正しい人と見なされた。
   (cf.創世記15:6)

 のです。では どのようにしてそう見なされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。それとも 割礼を受ける前でしょうか。割礼を受けてからではなく 割礼以前のことなのです。
 かれは 割礼を受ける前に信仰によって正しい者とされた証しとして 割礼のしるしを受けたのです。
 こうしてかれは 割礼のないままに信じるすべての人の父となって かれらも正しい者と見なされるのです。さらにまた 割礼を受けた者の父 すなわち 単に割礼を受けているだけでなく わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人びとの父ともなったのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 新約聖書のすべてが 直接・間接に 証言していると思われますが どうでしょう?
 すなわち 教義やあるいはまた教会という組織体制などは 初めから(イエスの登場した初めから) 信仰とは別のものだと伝えられていますし じっさいそういうことだと考えられます。
 この二千年がおかしかったようです。
返信する
ご意見有難うございます (おかの)
2012-04-21 08:19:21
>日比野暉彦さん

 ファンダメンタルな聖書理解をお持ちのように拝察しました。

 私もかつてはファンダメンタルな信仰理解をしていましたが、バルト―ブルトマン論争や、ティリッヒの神学、八木誠一の聖書学、滝沢克己の神学などの学びを通して、キリスト教と仏教のエッセンスが一致していると理解するようになりました。

 このあたり、ブログという媒体で深く突っ込んで話しあうことは無理だと思いますが……ご参考までに。

返信する
ありがとうございました。 (日比野暉彦)
2012-05-02 22:45:25
 ご返答をいただきありがとうございました。

 通りすがりでしたが 失礼いたしました。
返信する
学問は難しいです (Clare Smith)
2013-03-14 12:51:18
 私は、人間というのは難しい題材だと思うようになりました。対岸の火事ではないけれど、議論していること自体、馬鹿らしいと横目で眺めてマネーゲームに没頭する人は、いつの世界でもいるんでしょう。
 人間の自我形成の機構に、他者から自分を浮き立たせて、それが見目に美しくなければ、自己は受け入れられないのですから、理屈を探していると、自分も他者も幸せになれないと思います。
 私は批判されればいい気はしないし、歓迎されることもまたないだろうと思っています。
 永い間つちかってきた友情が壊れないのは見るに楽しいですし、去っていく人があらば、二人とも幸せになれたらいい、おっしゃるとおり、のろわしくおもうこともあるでしょう。ただ、最終的には一緒にすごした経験が他者の不可侵性を告げてくれるような気がします。
 習慣は性質を凌駕することもあります。
自分にも皆さんにもしあわせが見つかるといいなと思っています。
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人間は難しい生き物ですね (おかの)
2013-03-26 10:54:29
>Clare Smith さん

 お返事が遅くなりました。

 私もしみじみ人間は難しい生き物だと思います。

 理屈にこだわらなければいいのでしょうが、人間は言葉を獲得して以来、理屈なしには生きられないようです。

 理屈を超えて理屈を使いこなせるようになるといいですね。
 
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