最近ブログを書かなくなって気になっていた。
何時も使うブログの下書き原稿の終わり、書きかけの文章が残っていたので、何となくそれに加筆修正を加えた一文を載せておく。
近況
健康状態問題なし、日課として、ジム通いは継続中。
ここ数年は、副食製造がずれ込み深夜1―2時が、常態化している。
副食製造の生産性は向上しているのだが、ジムでの運動疲れの影響か、午前中昼寝をすることが多くなりそのため副食製造が夜中にずれ込んでいる。
その原因としてジムでのオーバーワークによる疲労回復に時間を取られ、さらにトータルの睡眠時間を増やす行動を始めたことが関係している。
また哲学関連のノート取作業にも、多くの時間を取られている。
さらにこのブログ書きが加われば、改善不能になる。
こうした事態を改善することが急務だ。
今、図書館で借りている本、キエルケゴールと実存哲学の系譜の返却期限が迫っていて、この本のノート取りに懸命である。
実存主義は、分かったつもりでいたが、その系譜をたどると非常に面白いし、同じ実存哲学でも各人で方向性が違っている。
ハイデガーやサルトルがキエルケゴールを宗教的著作者とみなしたことも理解できる。
同時に哲学者には「けったいな人」も多いと思っている。
ノートを取りつつ、世の中の思想のながれ(構造主義 実存 人権 自由 政治 ジェンダー 価値 多様性 宗教・・・)を作ったのはギリシャ時代から続く哲学であることを再認識した。
現在の日本や民主主義諸国では、普段全く意識していない民主主義や人権や自由も、思想家・哲学者の築い多様な思想の流れの上に、多くの市民が共感し、彼らの犠牲の上で実現したものであることを忘れてはならない。。
事実、数百年前まで市民に自由はなく様々な制限を加えられていたし、現在も多くの権威主義国や独裁国では自由はなく人権も無視されている。
現在ウイトゲンシュタインとキエルケゴールや実存との関わりを読み進めている。
キエルケゴールはキリストとの関係で、自由と不安とその結果認識される実存を見出した。
それ以後のハイデガーやヤスパースやサルトルは、キリスト教の要素を骨抜きにした実存を打ち出した。
ウイトゲンシュタインは、構造主義的考えを持ち言語について考えたが、第一次世界大戦従軍前後から友人との関係で、キエルケゴールに関心を持つ。
その後の展開を今読んでいるところだ。
さて、10年近く前の話だが、FBを見ていてFB友達の友達であるギター演奏家の名前が気になった。
聞き覚えのある名前である。
FBで友達申請すると、やはりその人物A氏で、教室も開き今はプロのギタリストになっていた。
5~10年まで北区の阪急東通り商店街の端の雑居ビルに、クラシックギター専門のスナックグラナダ(今はない)があり、その店は十数人で満員となる小さな店で、クラシックギター愛好家のたまり場だった。
その店の居心地がよかったので、40代のころ、その店に毎週通っていて、マスターや店員も含め、店に来る客はほとんどがお互い顔なじみで、話も弾んだ。
そこで当時A氏は一時期演奏者兼店員をしていた。
この店は、クラシックギタリスト志望の若者が、数か月から1年程度店員になり、小さなステージで演奏もしていて、それ以外に審査に通過した地方からの演奏希望者や学生が演奏していた。
グラナダのオーナーはラテン音楽の弾き語りでステージに立ち、またアーチェリーの選手で、話し上手で人気を集めていた。
この店を知るきっかけになったのは、確か40代の頃、アメリカから帰国後、一時期北区のYWCAスペイン語の教室に数か月通ったことがあり、その教室で知り合った男性に1軒の飲み屋を紹介してもらったのがグラナダで、それ以降月に数回一人で通うようになった。
グラナダに通ううちに、グラナダと親しいラテンアメリカ系の居酒屋の店の話を聞くようになり、そこにもたまに行くようになった。
国境の南という酒場で、南米のフォルクローレの楽団(プカソンコ・・)が生演奏していることが多かった。
客席は数十人程度収容でき、ステージ兼踊れるスペースもあった。
そこでは、大フィルのメンバー達が、打ち上げで来ていて、話をしたこともあった。
コロナ前には国境の南の入っていたビルは取り壊されて更地になっていた。
しかし、偶然ジムに通っている顔見知りのイラストレーターが、国境の南のオーナーG氏と懇意にしていて、家にも行ったという話をしていた。
その近くに、もう一軒行きつけの飲み屋があった。
その店は、30代の頃扇町プールに泳ぎに行った帰り、疲れたので何か飲みたいと思い、偶然見つけた炉端焼きの店で、その店は20代の頃会社帰りに同僚たちがよく集まって飲んだ炉端焼きの店に似ていたので、試しに入ってみると、おなじオーナーが店名を変えて営業していた。
(阪急東通り商店街の端に、母娘で営業している小さな炉端焼きの店があり、その店は20代の頃に、10年間勤めていた会社の同僚達のたまり場で、私は週に1-2回程度だったが、他の同僚は週に数回はその店に飲みに行っていた。その店は、母親と一緒に店を手伝っていた長女が、結婚してからその店は閉店したが、何年か後に再開したらしい。)
その時は、次女が看板娘となっていた。
早速、20代に勤めた会社の元同僚や、当時勤めていた会社の同僚たちにその店を紹介した。
その後、私はその店に行かなかったが、しばらくたってから再びその店を訪れると、いつの間にか、私の古くからの友人や当時勤めていた会社(30代の頃)の同僚のたまり場になっていて、店が休みの日や休日でもみんなでハイキングに行ったり、花見に行ったりしていた。
その店の行き返りには、JRの天満駅を使用することが多かった。
JR天満駅と天神橋筋商店街は、20代の頃に10年間勤めた南同心町(天神橋筋3丁目の東)にある当時はまだ小企業だった会社(環境試験装置 現在東証1部)への通勤経路でもあり、懐かしい地域だ。
20代の頃は、残業を終えて同僚たちと共に天神橋筋から西に扇町公園を抜けて、阪急東通り商店街の行きつけの、スナックや炉端焼きに飲みに行くのが楽しみの一つだった。
上記のYWCAは、馴染みの居酒屋と環状線JR天満駅との途中にあり、アメリカ・中南米から帰国後、友人たちがたむろしているなじみの炉端焼きに行く途中で、YWCAにスペイン語教室の案内があったのを見て教室参加した。
アメリカでの英語留学後、アメリカ人のルームメイトの紹介でメキシコのクエルナバカにあるスペイン語学校に数か月間入り習ったが、片言の会話しか出来ず、その後中南米の首都を回り、民芸雑貨を買いまわったが、スペイン語が片言しか話せず大変苦労した。(当時中南米では英語はほとんど通じなかった。)
そのため、再チャレンジのつもりでYWCAのスペイン語教室に通ったが、数か月で挫折した。
それ以外に、もう一軒阪急東通りの1本北側の辻に行きつけの飲み屋があった。
そこは、40代になってギャラリーを始めた時に、木版画家から紹介されて通い始めた家庭料理の店だった。
その店は、十数人入るといっぱいになるスタンド型の店で、客層は新聞や出版会社の編集者、学者、芸術家といった人が多かった。
年4回文集も出していた。
たまたま隣り合わせた客と話ししていると、スイスで別荘の留守番を頼まれたというような大きな話をするので、酔っぱらいのほら話だろうと話を聞きながら疑っていると、女将が、この人は某大学の有名な数学教授だと言い出したので納得した。
(同じ数学仲間の親しい外人教授の別荘とのことだった。)
先代のママや今のママとも気軽に話していた。
その店は今も営業中で価格帯も普通の店と同じだが、生活保護以下の生活をする私には、外食する余裕はない。
サラリーマン時代(40歳以前)は同僚たちとたまに行くカラオケスナックが、東通り周辺に2軒あったことを思い出したが、今はない。
何時も使うブログの下書き原稿の終わり、書きかけの文章が残っていたので、何となくそれに加筆修正を加えた一文を載せておく。
近況
健康状態問題なし、日課として、ジム通いは継続中。
ここ数年は、副食製造がずれ込み深夜1―2時が、常態化している。
副食製造の生産性は向上しているのだが、ジムでの運動疲れの影響か、午前中昼寝をすることが多くなりそのため副食製造が夜中にずれ込んでいる。
その原因としてジムでのオーバーワークによる疲労回復に時間を取られ、さらにトータルの睡眠時間を増やす行動を始めたことが関係している。
また哲学関連のノート取作業にも、多くの時間を取られている。
さらにこのブログ書きが加われば、改善不能になる。
こうした事態を改善することが急務だ。
今、図書館で借りている本、キエルケゴールと実存哲学の系譜の返却期限が迫っていて、この本のノート取りに懸命である。
実存主義は、分かったつもりでいたが、その系譜をたどると非常に面白いし、同じ実存哲学でも各人で方向性が違っている。
ハイデガーやサルトルがキエルケゴールを宗教的著作者とみなしたことも理解できる。
同時に哲学者には「けったいな人」も多いと思っている。
ノートを取りつつ、世の中の思想のながれ(構造主義 実存 人権 自由 政治 ジェンダー 価値 多様性 宗教・・・)を作ったのはギリシャ時代から続く哲学であることを再認識した。
現在の日本や民主主義諸国では、普段全く意識していない民主主義や人権や自由も、思想家・哲学者の築い多様な思想の流れの上に、多くの市民が共感し、彼らの犠牲の上で実現したものであることを忘れてはならない。。
事実、数百年前まで市民に自由はなく様々な制限を加えられていたし、現在も多くの権威主義国や独裁国では自由はなく人権も無視されている。
現在ウイトゲンシュタインとキエルケゴールや実存との関わりを読み進めている。
キエルケゴールはキリストとの関係で、自由と不安とその結果認識される実存を見出した。
それ以後のハイデガーやヤスパースやサルトルは、キリスト教の要素を骨抜きにした実存を打ち出した。
ウイトゲンシュタインは、構造主義的考えを持ち言語について考えたが、第一次世界大戦従軍前後から友人との関係で、キエルケゴールに関心を持つ。
その後の展開を今読んでいるところだ。
さて、10年近く前の話だが、FBを見ていてFB友達の友達であるギター演奏家の名前が気になった。
聞き覚えのある名前である。
FBで友達申請すると、やはりその人物A氏で、教室も開き今はプロのギタリストになっていた。
5~10年まで北区の阪急東通り商店街の端の雑居ビルに、クラシックギター専門のスナックグラナダ(今はない)があり、その店は十数人で満員となる小さな店で、クラシックギター愛好家のたまり場だった。
その店の居心地がよかったので、40代のころ、その店に毎週通っていて、マスターや店員も含め、店に来る客はほとんどがお互い顔なじみで、話も弾んだ。
そこで当時A氏は一時期演奏者兼店員をしていた。
この店は、クラシックギタリスト志望の若者が、数か月から1年程度店員になり、小さなステージで演奏もしていて、それ以外に審査に通過した地方からの演奏希望者や学生が演奏していた。
グラナダのオーナーはラテン音楽の弾き語りでステージに立ち、またアーチェリーの選手で、話し上手で人気を集めていた。
この店を知るきっかけになったのは、確か40代の頃、アメリカから帰国後、一時期北区のYWCAスペイン語の教室に数か月通ったことがあり、その教室で知り合った男性に1軒の飲み屋を紹介してもらったのがグラナダで、それ以降月に数回一人で通うようになった。
グラナダに通ううちに、グラナダと親しいラテンアメリカ系の居酒屋の店の話を聞くようになり、そこにもたまに行くようになった。
国境の南という酒場で、南米のフォルクローレの楽団(プカソンコ・・)が生演奏していることが多かった。
客席は数十人程度収容でき、ステージ兼踊れるスペースもあった。
そこでは、大フィルのメンバー達が、打ち上げで来ていて、話をしたこともあった。
コロナ前には国境の南の入っていたビルは取り壊されて更地になっていた。
しかし、偶然ジムに通っている顔見知りのイラストレーターが、国境の南のオーナーG氏と懇意にしていて、家にも行ったという話をしていた。
その近くに、もう一軒行きつけの飲み屋があった。
その店は、30代の頃扇町プールに泳ぎに行った帰り、疲れたので何か飲みたいと思い、偶然見つけた炉端焼きの店で、その店は20代の頃会社帰りに同僚たちがよく集まって飲んだ炉端焼きの店に似ていたので、試しに入ってみると、おなじオーナーが店名を変えて営業していた。
(阪急東通り商店街の端に、母娘で営業している小さな炉端焼きの店があり、その店は20代の頃に、10年間勤めていた会社の同僚達のたまり場で、私は週に1-2回程度だったが、他の同僚は週に数回はその店に飲みに行っていた。その店は、母親と一緒に店を手伝っていた長女が、結婚してからその店は閉店したが、何年か後に再開したらしい。)
その時は、次女が看板娘となっていた。
早速、20代に勤めた会社の元同僚や、当時勤めていた会社の同僚たちにその店を紹介した。
その後、私はその店に行かなかったが、しばらくたってから再びその店を訪れると、いつの間にか、私の古くからの友人や当時勤めていた会社(30代の頃)の同僚のたまり場になっていて、店が休みの日や休日でもみんなでハイキングに行ったり、花見に行ったりしていた。
その店の行き返りには、JRの天満駅を使用することが多かった。
JR天満駅と天神橋筋商店街は、20代の頃に10年間勤めた南同心町(天神橋筋3丁目の東)にある当時はまだ小企業だった会社(環境試験装置 現在東証1部)への通勤経路でもあり、懐かしい地域だ。
20代の頃は、残業を終えて同僚たちと共に天神橋筋から西に扇町公園を抜けて、阪急東通り商店街の行きつけの、スナックや炉端焼きに飲みに行くのが楽しみの一つだった。
上記のYWCAは、馴染みの居酒屋と環状線JR天満駅との途中にあり、アメリカ・中南米から帰国後、友人たちがたむろしているなじみの炉端焼きに行く途中で、YWCAにスペイン語教室の案内があったのを見て教室参加した。
アメリカでの英語留学後、アメリカ人のルームメイトの紹介でメキシコのクエルナバカにあるスペイン語学校に数か月間入り習ったが、片言の会話しか出来ず、その後中南米の首都を回り、民芸雑貨を買いまわったが、スペイン語が片言しか話せず大変苦労した。(当時中南米では英語はほとんど通じなかった。)
そのため、再チャレンジのつもりでYWCAのスペイン語教室に通ったが、数か月で挫折した。
それ以外に、もう一軒阪急東通りの1本北側の辻に行きつけの飲み屋があった。
そこは、40代になってギャラリーを始めた時に、木版画家から紹介されて通い始めた家庭料理の店だった。
その店は、十数人入るといっぱいになるスタンド型の店で、客層は新聞や出版会社の編集者、学者、芸術家といった人が多かった。
年4回文集も出していた。
たまたま隣り合わせた客と話ししていると、スイスで別荘の留守番を頼まれたというような大きな話をするので、酔っぱらいのほら話だろうと話を聞きながら疑っていると、女将が、この人は某大学の有名な数学教授だと言い出したので納得した。
(同じ数学仲間の親しい外人教授の別荘とのことだった。)
先代のママや今のママとも気軽に話していた。
その店は今も営業中で価格帯も普通の店と同じだが、生活保護以下の生活をする私には、外食する余裕はない。
サラリーマン時代(40歳以前)は同僚たちとたまに行くカラオケスナックが、東通り周辺に2軒あったことを思い出したが、今はない。