締め切りをオーバーしている。まことにすみません。猶予をいただきタイトルだけを先に送ることになったので上のタイトルを送ったのだが、さて。
そもそも、〈柳文〉ってあるのだろうか。
〈俳文〉というのは確かにあるらしい。『俳句四季』の最新号(2024年11月号)の特集は「俳文とは何か」である。ちょっと前から川柳+散文の表現について何か書こうかしらと思っていたので、これは! ということで買いに走った、というのは大げさで、街中に出かけて行ったときにジュンク堂に行ってみた(私の住む松山は「文学のまち」「俳都」を標榜しているが、俳句雑誌を買うにはジュンク堂まで行かなければならない。何とかならないものか)。
で、買いませんでした。特集とあるから、最初のグラビア(?)が終わった後に論考が並んで数十ページ熱く〈俳文〉を語っているのを期待していたのに、ほんの8ページ、立派な書き手が並んでいるものの、ぜんぶが短文なのだもの。つい、立ち読みで済ませてしまった(他の本はたっぷり買ったので、立ち読みの罪は是無きものとする)。『鶉衣』(江戸時代の俳文をまとめた本です。岩波文庫)を買う決心がついたという収穫はあったものの、現代の俳文の好例だと私が思っている坪内稔典氏の『高三郎と出会った日』への言及もなかったしなあ(ネンテン先生は執筆者に入っているが、自著を出さないのは謙虚ですね)。
とりあえず〈俳文〉とは「〈俳味〉のある散文で、しばしば俳句が入っている」ということを再確認できたということにしよう。ということは、〈柳文〉とは「〈柳味〉のある散文で、しばしば川柳が入っている」と言えそうである。言えたからといって、〈柳味〉って何やねんとすぐにツッコミが入るのではあるが。
(ついでに書いておくと、「歌文」(「〈短歌味〉のある散文で、しばしば短歌が入っている」)ってあるんですかね? 「歌物語」「歌日記」とかになるのかな?)
脱線の多い文章ですみませんが、何でこんなことを考えているかというと、短詩文芸では「一句(首)独立」―一句(首)だけでも独立して読まれうるものでなければならない―という一種の理念があるのだけれど、実際問題として散文や他の支えがないと一般に広く読まれないのではないかという疑いを持っているからです。かんたんに言うと、松尾芭蕉に『奥の細道』がなければ芭蕉、俳句はこんなに広く読まれなかっただろうね、ということです。
あるいは、普通の状態の短詩文芸は、専門雑誌や句集にだいたい同じ詩型の作品が並んでいるからそのジャンルの作品として熟読吟味されるのだけど、その状態は外部からの視線を拒んでもいる。川柳誌や俳誌を「ふつう」の人が開けると、ちいさな文字で林立しているほとんど同じ印象の言葉の羅列を見て、すぐ閉じて、何も見なかったことにするでしょう。私にとって、理系の本で数式がびっしり並んでいるのに等しい(だろう)。
というわけで、川柳や俳句や短歌が(広く)読まれるには、何らかの〈環境〉がいるだろうと思うのである。その〈環境〉は散文や他の周辺の情報によって整備されていると考えられる。(短歌ブームの中、SNSでつぶやかれた短歌一首に「撃ち抜かれる」人もいるのでしょうけど、たいていは短歌ではなく「エモさ」を読んでいるのだろう。皮肉っぽい見方でスンマセン。)
では、芭蕉『奥の細道』のように、ジャンル(とその中の作品群)に〈環境〉を与えるような、川柳が入った文―それがあれば〈柳文〉の代表例と言ってよかろう—があったかというとまあ、見つけるのは難しそう。(時実新子の文は、合う人にとってはそれに近いものがありそうか。短歌だと、穂村弘の文は現代の短歌にとってそういった機能を果たしていそうですね。)
さて、〈柳味〉という言葉はどのぐらい使われているのかなと検索してみると、それなりの用例はありそうです。
①本誌[「稀書」というタイトルの雑誌]の特徴の一つは、バレ句集として著名な「末摘花」ではなく、「柳の葉末」を取り上げたことであろうか。川柳と言うよりは狂句集であるため、「末摘花」以上のバレ句集であるが、柳味に乏しいため余り顧みられることのなかったものである。
(「雑誌資料 稀書」(閑話究題 XX文学の館)
https://kanwa.jp/xxbungaku/Magazine/KisyoImo/KisyoImo.htm より)
②現代社会への風刺が効いていて柳味を添えています。
(小金沢綏子「幸せ探し文化展 川柳の部 選評」
https://www.rengo-ilec.or.jp/event/09culture/senryu/index.html より)
③あと、剥げたらへんは文法的にありでしょうけど、読んで、ん??と意味を一瞬考えなくてはならない、意識の立ち止まりがあるということかなと。そのへんのちょっとした違和感に柳味があるのかもしれません。[湊注:「剥げたらへん」は評をしている句の中の語。]
(石川聡「Twitter現代川柳アンソロ2~鑑賞~8」note
https://note.com/satoshi_pinot/n/n663ac70dc80f より)
用例はあるとはいえ、上の3つを見る限り、みな別の性質を〈柳味〉といっている。①は初期『誹風柳多留』の句にあるような風情、②は風刺的要素、③は違和感や飛躍、といったところである。それぞれ川柳として世にある作品群の一部の魅力ではあるけれど、〈柳味〉がもし「川柳が川柳であるところの川柳性」(石田柊馬)といったものを指す言葉だとすると、どれも不十分であろう。
〈柳味〉という語を出してしまうと泥沼であることが分かった。〈俳文〉を「〈俳味〉のある散文で、しばしば俳句が入っている」というとある程度会話になるが、〈柳文〉を「〈柳味〉のある散文で、しばしば川柳が入っている」というのはちょっと難しそうだ。
そこで思い切っていい加減に、川柳が入って(添えられて)いて、川柳がそこにあることで面白くなっている文章を〈柳文〉ということにしてはどうだろうか。
そうすると例えば、今田健太郎(ラジオ・ポトフ)が自作・他作の川柳に反応して日々書きつづってnote の「ラジオポトフ(おしゃべり大好き作家と俳優で美術家のラジオ)」(https://note.com/radio_potofu) で発表している記事、「シリーズ・現代川柳と短文」、「シリーズ・現代川柳と短文NEO」はまさに〈柳文〉だろう。
シリーズ・現代川柳と短文NEO/215
もらう側がいるのはすなわちあげる側がいるからで、当然、それぞれにいろんな人がいるのだけれど、ひとたびそれを、もらう側の視点で言おうとしたとき、「くれる」という表現が生まれ、それで世界はリセットされ聖火も消えるが、またすぐに灯されるから、その日まで研鑽研鑽。
【きょうの現代川柳】
いろんな人がメダルをくれる 暮田真名
シリーズ・現代川柳と短文NEO/204
かの一休宗純は達筆だったようだが、字を書きまちがえるくらいのことはあっただろう。室町時代、紙はいまよりずっと貴重だった。消しゴムも修正液もない。真の意味で一発勝負だ。それでもつい書きまちがえてしまう。一休は嘆く「なぜなんだ。ぜったいにまちがえないように気をつけていたのに。一休全体、どうしておれはまちがってしまったんだ」
【きょうの現代川柳】
一休全体 栫伸太郎
シリーズ・現代川柳と短文NEO/166
小津安二郎。その作品の画面はどこまでも作りものである。むろん、どんな映画も作りものではあるが、小津のそれは、はっきり言えば、アニメ的な意味での作りものである。素材に生身の役者がありはするが、あれはアニメ的な作為だらけの画面だ。だからこそわたしは、すべての小津作品が真の意味でアニメ化されるといいなと思っている。ロトスコープでなく、手描きで。つまり、アニメ的な実写作品を、改めてアニメに召喚しなおす試み。これはおもしろいものが観られる。
【きょうの現代川柳】
テーブルに名刺だぜ「小津安二郎」 今田健太郎
このシリーズで散文の部分は句の注釈や評に見えることもあるが、特に面白く読めるのは句を説明しているように見えていつの間にかすれ違っている回である。つけくわえるならば、先に引用した3つの〈柳味〉への言及にあった性質―時代を反映した軽み、風刺性、意外性―も、ここではしっかり示されている。「柳文のゆくえ」というか、これは十分に、「柳文の現在」と言ってもよいのではないだろうか。〈柳文〉という語のほうがこれらの試みについて行けさえすれば、の話だが。
あれ、いま書いた「説明しているように見えていつの間にかすれ違っている」は、川柳の核としての〈柳味〉に意外と近いような気がするのだが、どうかなあ。
すれ違いながら世界を折った鶴
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