「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評145回 惑星的な俳句について(4)  斎藤 秀雄 

2022年02月01日 | 日記

 一年間、ひとつのテーマ、ここでは〈惑星的〉というテーマに絞って書くことを、みずからに課したのだが、予想以上に骨が折れる試みであった。予想以上に、アクセス可能な世界は、私が〈惑星的(planetary)〉という言葉を用いて批判しようと考えている諸文脈に覆われていたからだ。すなわち、ドメスティックな文脈、およびその覇権主義的な延長・拡張に過ぎないインターナショナルな(international)文脈、グローバルな(global)文脈である。それらの文脈をシャットアウトしてみると、あたかも俳句などこの世のどこでも書かれてなどいないのではないかと感じられる一年間であった(そして、それはじっさいにそうなのかもしれない)。
 論じるべきトピックは無数に残されている。この最終回では、今後私が長く取り組んでゆきたいと考えているトピックに触れておこう。それをひとことでいえば「メタ価値論」とでもなるのだが、あいにく、今回はその素描にとどまることになる。
 問いはこうだ:「よいことは、よいのだろうか」。この一文が、すでにパラドキシカルなものになっている。懐疑されている主語〈よいこと〉と、懐疑の表現となっている述語の双方が、まさに懐疑の対象である〈よい〉を含んでいる。むろん、前者を「よい1」、後者を「よい2」としてみれば、日常的な言語使用のなかに、こうした語法を無矛盾的に見出すことはできる。「法的によいことだが、道徳的によくない」「経済的によいことだが、美的によくない」など。そして際立った文言として――私の考えでは、メタ価値論が取り組むべき最大のアポリアがここにあるのだが――「道徳的に善であることは、倫理的には悪である」という、よく知られた(さまざまなバージョンをとりながらの)テーゼがあるだろう。作品を前にして「よい」と判断したり、複数の作品のなかからひとつか複数のものを選出したりするときの困難も、この〈倫理テーゼ〉に収斂すると私は考えている。
 少し先走りすぎたかもしれない。メタ価値論の前には、とうぜんながら「価値論」がある。価値論には学的な蓄積が膨大にある。その一部を箇条書きにしてみよう:

■古典的価値論によれば、真・善・美などの価値は普遍であり、たとえ時代・文化圏・個人ごとにその内実、具体相(何が価値あることか)が異なるとしても、普遍的である(プラトン、トマス・アクィナスなど)。
■古典的価値論によれば、価値(value)はたんなる〈好ましさ(preference)〉とは区別され、目的論的な合理性が問題になるという意味で、個人の利害関心を超える(この区別を、私はあるていど度外視したい。「好ましくはないが、価値がある」「好ましくはあるが、価値があるとはいえない」という事態が問題になるとはいえ、いずれにしても、「好ましい/好ましくない」「価値がある/価値がない」という選択的な判断そのものを、取り扱いたいからだ)。
■18世紀の思想家コンドルセは、各個人の選好が推移的である(選択肢xyzについて、x>y、 y>zのとき、必ずx>zとなる)にもかかわらず、これを合成しようとすると循環的になる(x>y>z>x……、というような循環)可能性を発見した(たとえば多数決選挙が、誰にとっても望ましくない結果になることがある)。20世紀の経済学者ケネス・アローはこれを定理化した(アローの定理)。
■アメリカの社会学者R.K.マートンは、機能要件にとって貢献的なことがらを順機能、阻害的なことがらを逆機能とよんだ。また、意図され認知された機能を顕在的機能、意図されず認知されない機能を潜在的機能とよんだ。機能要件は多数あるため、「よかれ」と意図された行為が、潜在的逆機能を果たすことが多々ある。これを「意図せざる結果」とよぶ。

 こういった価値論は、教訓的でもあるし、なにより思考の整理に役立つという価値をもつ(!)だろう。が、しかしたとえば、作品を享受して「よい」と判断するとき、あるいは「よい」と表明するとき、我々がいったい何を為していることになるのか、明らかになることがない。したがって、価値(前述のように、私はこれに「好ましさ」も含めている)の存在を自明の前提とする価値論に対し、セカンド・オーダーの観察を、すなわちメタ価値論を開始しなければならなくなる。
 歴史的に古い時代についての記述、たとえば《伝統的美学においては、芸術のコード値は「美か醜か」というかたちで指し示されてきた》(ルーマン『社会の芸術』、315頁)といった記述を目にするときに、我々は少し動揺したような気持ちになってしまう。現在の我々からすれば、「美しい」ことを即座に「よい」という判断に結びつけてしまうことは、とくに芸術の領域においては、なかなか想像しにくいことだからである。たしかに、18世紀にバウムガルテンが「美学(aesthetics)」という学問の呼称を案出したとき、彼は《芸術、美、感性的認識》の三者を重なるものと考えていた(佐々木健一『美学辞典』、4頁)。佐々木によれば、《美と芸術が重ならないという主張が顕在化してきたのは、十九世紀末のことである》(同前)。前回の拙稿とのつながりでいえば、この移行――いわば「美しさ」から「よさ」への力点の移行――にとって決定的な役割を果たしたのは、マネ、そして印象派であったのではないか(佐々木は「自然主義」を挙げている)。余談ながら、印象派についての「語り」が大量に存在するのは、現代の我々の目に印象派の絵画が「美しく」みえてしまう(このことが、通俗的な人気につながる)、というパラドクスに由来するのではなかろうか。《日本での印象派絵画に対するアプローチは、あまりにも「感性」重視であって、美術史におけるその革新性という面が忘れられすぎている。私は自分の経験から、それでは印象派の魅力が半減してしまうと思うのである》(木村泰司『印象派という革命』、53頁)。
 さらに時代を下り、20世紀前半を眺めるならば――非常に大雑把な把握ではあるが――「よさ」の放棄を観察することができるだろう。想起するのは、マルセル・デュシャンでもマックス・エルンストでもよいだろうし、戦後まで時代を下り、ロバート・ラウシェンバーグでも、「具体」「反芸術」「もの派」でもよいだろう。こうした著名な名を想起するとき、作品と対面したときの知覚が必ずしも快感情ではないにもかかわらず、つまりその作品は「よさ」を目指しているのではないことが明らかであるにもかかわらず――「よさ」ではない、別の何事かが目指されている――それらについて語ろうとするならば、ついうっかりとでもいうように、「よい」と述語づけしてしまう羽目になる。「すごく悪趣味なところが……よい」など。亡霊のように、「よい」という言葉が、事後的に到来する。こうした「うっかり」を避けるため、「ヤバい」という語を召喚したくもなるし、口語英語に近年みられるdopeやdrippingなどを召喚したくもなる。
 私は句会において「よさが目指されていないから、よい」と句評することがある(あるいは「ちょっとよすぎるから、微妙」などとも)。こうしたパラドキシカルな言い回しは、レトリックと解されるリスクもあるのだが、選をしなければならない句会という場における、苦肉の策としての「よい」である。当該作品がじっさいに〈よさが目指されていない〉のか否かについては棚上げしなければならないが(作品に内在する性質ではないだろうし、たんに私がそう判断したという表明に過ぎない)、〈から、よい〉という述語づけは、言語拘束的なものなのだろうか。それともこの場合でもやはり、私は何らかの意味での「よさ」を見出してしまっている、ということになるのだろううか。このとき、仮に「悪い順」に選をする、という実験的方法を採用したとしても、無駄である。順位づけは、評価であり、逆向きの「よさ」の(推移的選好の)表明にしかならないからだ。
 もちろん、現実的には、「よい」で終わらせることはなく、「微妙な違和感が醸し出されていて、十分に奇妙である」などと、作品体験を語ることによって、句評は成し遂げられる。ここで語りたいことは、この「作品体験」の方であって、「よい」という述語の方ではない。にもかかわらず、「から、よい」「から、選んだ」という評価・判断が必ずまとわりつくのは、「選」という状況に条件づけられた、状況拘束的な事態なのだろうか。「よい」と語らなくとも、選ぶという行為が、そのまま、「よい」という述語づけとして機能してしまうではないか。
 価値論の手前から、価値論を経由し、メタ価値論へと視点を移動させることができそうな、具体例に触れておこう。先月の本欄(「詩客」の俳句時評)で、谷村行海氏は2021年度の角川俳句賞に言及している。谷村氏は、候補作の牛島火宅「殯」に《最も「作者の哲学」を感じた》と述べている。ここではこの連作の評価(よしあし、価値)は棚上げする。もんだいとなるのは、選考委員による発言である。このうち、この連作に否定的であった仁平勝と正木ゆう子による発言を、谷村氏による引用と重なるが、引いておこう。

仁平 言葉があまりにも大袈裟で、比喩が多くて、鳥とか虫を擬人化している。そういう言葉の遣い方が僕は積極的に採らないという理由です。
(略)
正木 (略)この方がこう詠むということ自体は尊いことだと思うのですが、それを角川俳句賞として推す立場で読むとき、こんな由々しい言葉を多用していいのかと疑問を持ちます。私の腰が引けているのかもしれませんが。例えばこの方の句集が出たとして、その句集を評価することと、角川俳句賞に推すこととは性質が異なります。(『俳句』2021年11月号、91頁)

 仁平の発言には、価値論以前のもんだいが孕まれているようにみえる。仁平には、〈《言葉があまりにも大袈裟》であるならば、その作品は必ず悪い〉〈《比喩が多》いならば、その作品は必ず悪い〉〈《鳥とか虫を擬人化している》ならば、その作品は必ず悪い〉というみっつの命題が真であることを論証する責任がある。ひとつめの命題についてみるなら、仁平発言には、小前提:「この作品は、言葉があまりにも大袈裟である」、結論:「ゆえに、この作品は、悪い」のみがあり、大前提:「言葉があまりにも大袈裟である作品は、必ず悪い」が欠けている。すなわち論証のルールに則った議論がなされていない。ここでは、小前提の真偽も疑わしいのではあるが。「いわゆる論証」は文芸作品の評価には適さない、と思うだろうか。そうかもしれない。ここで適切と思われるのは、たとえば、「本作品においては、比喩が多用されているが、そのことは本作の詩的な質にとって必然的なこととは思われず、かえって損ねているように思われる」といった「読み」ではないか。このとき、やはり諸々の前提が妥当であるか否かについては、論証のルールに則った議論が必要になってくる。ほんとうに喩は作品の詩を損ねているか、そもそも多いのか否か、吟味されなければならない。「擬人化がこの作品の詩を損ねている」という価値判断と「私は擬人化が嫌いである」という好みを、選者は明瞭に区別できているか否か、吟味されなければならない。ここにきて、価値と好ましさの区別が重要になってくる。
 むろん、句友の原稿のチェックをするようなケースでは、縮減した言い回しを用いることはよくある。喩が主要なテーマのうちのひとつであるとは思われない10句連作において、明喩が2句並んでいたなら、可能な限りそれを離す(物理的な距離をおく)ように助言するだろうし、3句含まれていたなら、1句を削除するように助言するだろう。喩表示が、詩的必然性とは関係のないところで「騒がしい」感触をもたらすからだ。S/N比でいうところのノイズが、詩的効果を損なうかもしれない。逆に喩が主要なテーマのうちのひとつであることが明らかであるならば、喩表示の連続は、当該作品を際立たせるマークとして機能するだろう。あるいは「ノイズ」こそが当該作品の主要なテーマのひとつであるならば、ノイズはS/N比でいうところのシグナルと呼ぶべき成分であって、図地は反転する。さらにいうなら、文芸作品において、いくらかのノイズはむしろ詩的な効果を高めるだろう。したがって、軽々しく作品にとってのノイズを排除することは、望ましくないことでさえある。
 正木発言はもう少し込み入っている。《由々しい言葉を多用》することが、その作品の価値を損ねている、と判断しているのではない(かのようにみえる)。いわば「角川俳句賞」の代弁者となっている、言い換えれば判断の根拠を別のなにかに預けているということになる。これが一見するよりも込み入っているのは、たんに客観的な基準にもとづいて判断することにはならないからだ。仮に「角川俳句賞にふさわしい作品の基準」のようなものが明示されているとしよう。一見これは客観的なようだが、この基準と作品を照らし合わせて、合致しているか否かを判断するのは正木である。このときの判断の妥当性はいかにして吟味することができるのだろうか。そして、現実にはそのようなチェックシートは明示されておらず、おそらくは正木の想像上の「角川俳句らしさ」が召喚されているのであり、それはたんに経験的なものの総計ないし平均値でしかないものだ。もしも正木の述べているとおりに「選」がなされているとしたなら、そのとき、一体何が為されていることになるのだろうか。それは「道徳の維持」でしかないだろう。まるで「ケインズの美人投票」のようではないか。
 それにしても、同座談会のなかで正木は《死刑囚は別の言い方をすれば犯罪者なわけでして、それを「美化している」というふうに言ってもいいんじゃないかと思うのです。それが気になります。対社会的にそれはどうなのか。当然、被害者がおられたわけだし》(同前、96-7頁)と述べているのだが、この発言はそれこそ「対社会的に」、PC的にほとんどアウトに近い発言であるように思う。ロジックとしては、入管に収容されている外国人は犯罪者であるから、いかなる権利も主張してはならない(あるいは法を度外視して入管スタッフが懲罰を加えることも、容認される)、といったたぐいの「ネット世論」と変わるところがない。牛島火宅「殯」に「美化」の成分があるとするなら、死にゆく(mortal)ものの命の美化であって、死刑囚の美化ではないだろう。もしもこの作品について批判的に語りうるとするなら、「命は尊い」という通俗的な道徳へのおもねりであり、「俗情との結託」であり、抒情に寄り過ぎている……とでもなりそうだと思うのだが、そして文芸作品の「読み」とはそのようなものであると私は理解しているのだが、そのような「読み」を選考委員がしないことに、理由はあるのだろうか(「殯」の作品としての評価は棚上げする、と述べたが、たんじゅんに好き嫌いでいえば、私は好きではない。理由はいま述べた「批判的語り」のとおりである)。
 私は昨年、とある書評文のなかで次のように述べた。

なぜこの定型拍子が残ったのか、なぜ心地よく感じられるのか、といった問いには「慣れ」の一言で足りる。不慣れな拍子が用いられれば、不慣れである(不快)という理由で排除されるか、例外扱いされるかである。シナプスは更新されず、心的エネルギーはリビドー経済に隷従する。かくして定型という利用可能な意味的沈殿物(コミュニケーション財)は延命する。俳句という概念をいかように分析しても、五七五という成分を発見することはできないにもかかわらず、である。
(略)
必要なことは、習慣に快を感じる自己を否定し、逸脱に不快を感じる自己を否定し、そうした身を切る痛みのなかで書くことであるはずではなかっただろうか。(斎藤秀雄「詩的許容に抗して――藤井貞和『〈うた〉起源考』」『吟遊』92号、23頁)

 これは「いわゆる音数律」について述べたことだが、これは価値判断についてもあてはまると考えている。快(好ましさ)に隷従することは、道徳的であるだろう。それは共同体の延命にとって貢献的に機能するかもしれない。他方、「快を感じる私」を否定してゆくことは、反道徳的であり、かつ、倫理的である。他者へ・外部へと肉体(corps)を内側から切り開く試みだからだ。この痛みをカント的に「崇高」と呼ぼうが、フロイト的に「(喪と区別される)メランコリー」と呼ぼうが、ラカン的に「享楽(快楽は、享楽から自我を守る防衛機制である)」と呼ぼうが、いずれにせよ、いかなる判断とも無関連ではない。芸術(文芸)作品の価値判断にさえ、〈道徳的/倫理的〉という差異は、亡霊のようについてまわるだろう。

 前回までの記事同様、批評の観点から取捨選択し(つまり私が「惑星的」と判断した作品を取り上げ)、個別の作品に評論を行うことにする(批評と評論の区別については、第一回記事参照)。ここでとりあげる作家たちは、私が述べたことに同意しないだろうことも、これまで同様である。作家名を手がかりとしたスタイルの評を書くことは私にとって不本意であることも、これまで同様である。

 詩客のバックナンバーをなんとなく眺めていたところ、笠原マヒトという作家の連作「午後」が気になった。失礼ながら、初めて知った名前である。派手さのあまりない自由律作品であるが、心にひっかかるものがあった(プロフィールに「海紅同人」とあるから、勝手ながら「自由律俳句」とレッテルをはらせていただいた)。

  雨玉砂利の音犬が軒下   笠原マヒト「午後」

 じつをいうと、この作品に、撃ち抜かれたのである。助詞も動詞も極端に省かれたミニマルな構成のこの作品を、要素ごとに切ってみるなら「雨/玉砂利の音/犬が軒下」となるだろうか。同連作には《夕暮れ金網蔦枯れ》という、似た構成の作品があるが、そちらは少し抒情的すぎるように感じた(悪くはないが)。雨が降っていて、玉砂利が音をたて、犬が軒下にいる。まず《》の表記と、《玉砂利》の《》の表記とが、隣り合うことで、表記像の知覚が滑らかに遷移する。このとき同時に意味的像(物表象)の知覚も滑らかに遷移する。一個の雨粒があったところに一個の砂利がフェードインしてくるかのように。この知覚の遷移は、次いで《》に取って代わられる。表記像の遷移・意味的像の遷移のうちの、意味的像が、視覚的なものから聴覚的なものへと変わる。この一連の滑らかさに、異様さがある。
 最大の謎は《玉砂利の音》にあるように思う。《》が《玉砂利》を打つ音か。語り手が《玉砂利》を踏む音か。《》が《軒下》へ移動するときの音か。それぞれに、《》の感触はおおいに異なるにもかかわらず、どれであるか確定は不可能なように思う。が、それは「雨の音」「靴が踏む音」「犬が踏む音」のいずれでもなく、あくまでも《玉砂利の音》なのである。あたかも、雨に打たれる音と、何かが踏む音と、さらにそれとは別に《玉砂利の音》という新しい現実が創発しているかのようにさえ感じられる。

  月高圧電線の間光る   笠原マヒト「午後」

 月が高圧電線の間にみえている。景としてはそれだけである。であれば、《光る》は不要であるかもしれない。が、あくまでも重要なのは《高圧電線の間》が光っている、という現実である。電線の間に正体不明の発光体が出現した、というのではない。あくまでも《》という「光るもの」に媒介されて《光る》のである。「月が高圧電線の間に光る」と表記してしまうと、このポエジーは霧散してしまう。「が」「に」を省いただけで、なぜこれほどのポエジーが生まれるのか、理由はまったく分からない。〈月‐電‐光〉という表記像の遷移のセリー、〈線‐間〉という意味的像から生まれる帯状の空間性の感触、〈圧〉という表記像のもたらす圧縮の感触――これらが、圧縮された表記によって、圧縮されて手渡されるように感じられる。

  石灯籠バッタとまり逆さ   笠原マヒト「午後」

 この連作の一句目は《螳螂逆さ脚突っ張り》であったから、《逆さ》のイマージュに挟まれた一連となっている(《螳螂》と《灯籠》が掛けられているのかもしれない)。《螳螂》と違って、《バッタ》はとまるやいなや《》を折りたたむように思う。《突っ張》ってはいない視覚的像がみえる(ちなみに、逆さまにとまっている虫の視覚的像をみても、軽さの感触しか感じないのに対し、《逆さ》という文字の表記像をみると、内臓がせりあがるような、逆さまの感触を感じてしまうのだが……それは私だけの感じ方かもしれない)。この作品も助詞が極端に省かれた独特の構成をしているが、不思議さは《とまり逆さ》という言い回しにあるように思われる。石灯籠に、バッタがとまり、それは逆さの状態である、というだけなのだが(石灯籠が逆さまなのではない、と思うのだが、なぜそう思うのかは、よく分からない)。「逆さにとまる」としないのは、助詞(または形容動詞活用語尾)「に」を省くためとも、《とまり》→《逆さ》という認識の遷移の表現とも感じられる。動詞も省いて「石灯籠バッタ逆さ」でも成立しそうではあるが、動きが、つまり時間の契機が失われる。つまり《とまり逆さ》という言い回しには、時間の契機があり、語り手(観察者)の認識に一瞬の空白が生じているようにも思われるのだが(「とまり、逆さ」と読点を置くような、あるいは「とまる。逆さ」と句点を置くような感触)、同時に、表記上は連用形によって滑らかになっており、無時間的に知覚が生じているようにも思われるのだ。この作品に限らず、連作ぜんたいが、私にとって学ぶことが多いものであった。

 未補さんの作品をこの欄で採りあげることは、いささか身内感が強い気がするから、禁じ手としてきたのだが(未補さんと私はネットプリント「きりんねこ短歌合評会」の共同発行人である)、昨年「詩歌トライアスロン」を受賞されたようであるし、句会で目にする作品から判断すると、実力はたしかであると思われるため、採りあげることにした。とはいえ、やはりあまりにも多く未補さんの作品を目にしてしまっているために(ボツ作品を含めて)、論評のしづらさはあるのだが。以下、私も同席した句会に出詠された諸作品のなかから、本人の許可を得た3句を読んでみたい。

  蜘蛛の糸うるむ系譜のない水に    未補(第13回プネウマ句会・2020年4月)

 蜘蛛の囲には出自がある。蜘蛛から生まれた糸で編まれたのだから。ところが、非常に強く、非系譜性・私生児性の感触を湛えている。視覚的には、ネットワークであり、文字通りWEBであり、つまりツリー状のロゴスではないようにみえるからだろうか。生んだ蜘蛛自体がその網目から抜け出して、上に載るからだろうか(地面との位置関係によっては、下から張り付いているのかもしれないが)。留守になっている蜘蛛の囲、蜘蛛に捕食されたかもしれないしされ得なかったかもしれない虫が絡みついている蜘蛛の囲、枯葉の破片が絡みついている蜘蛛の囲、これらは、やはり出自があるにもかかわらず、系譜をもたないという感触を、強烈に湛えている。ここで詠まれているのは蜘蛛の囲ではなく《蜘蛛の糸》である。だから、もしかしたら、いままさに蜘蛛から生み出されている一本の糸を想起すべきなのかもしれない。しかしそのとき、不思議なことではあるが、やはり、いよいよ、その系譜性・有出自性の、脆さ・儚さが高まってくる。頻繁に使用される比喩表現によるものであろうか。出自があることが自明であるのに、非系譜性の感触を湛える蜘蛛の囲(ないし「糸」)は、いわば「系譜というものの根源的な私生児性」の表象であるように感じられる。
 《》に系譜がないのは自明であるようにも思われる。「ここにある水」の系譜をたどっても、雲へ、水蒸気へ、海へ、川へ、雪へ、そしてまた雲へ、と循環してしまう。《》という言葉を我々がどのように用いているのか、何を《》と呼んでいるのか、私には判然としないところがあるのだが(この宇宙内にあるH2Oの総体をそう呼ぶのかもしれないし、「ここの水」や「そこの水」といった経験的「水」とは別に《》という言葉があるのかもしれない)、《》はどこからも来ないし、どこへもゆかない、と私には思われる……一神教的なコスモロジーにおいては異なるのかもしれないが……。この作品では、いわば「あらかじめ非系譜的」である《》が、「出自があることの根源的な非系譜性」を表象する《蜘蛛の糸》に、触れている。《系譜のない》という連体修飾語は、自明であるはずの《》に係るように書かれており、そのことによって、いわば見せ消ちのように、「系譜の非系譜性」の感触が、言葉のなかに出現していると思う。

  濡れにゆく小蟹は影を閉ざしけり   未補(第15回プネウマ句会・2020年6月)

 地味な作品のようだけれど、句会で私は高く評価した。たぶん海の《小蟹》はどこかしらつねに濡れているだろうから、沢蟹のように思う。しばらく水から離れて戯れていた《小蟹》が、強い日差しのなかで乾く。そのときの《》が、霧散するのでもなく、薄れるのでもなく、くきやかになり、濃くなる。《影を閉ざし》とは、誰にも思い浮かばない、優れた表現であると感じる。この、くきやかさの感触が、《濡れにゆく》という決意のゆるみのない感触を強めているようにも思う。
 余談になるかもしれないが、事後的に考えれば、ここでの《影を閉ざし》という表現は、未補俳句に頻出する、放射・解放・散逸の感触を湛えた動詞(たとえば「ほぐれる」「はぐれる」「ほつれる」「ほどける」「薄める」「にじむ」など)とは一線を画している。いま挙げたような「放射系語彙」は、ある種の感触を湛えているから、たとえ初めて用いられた語であっても、たとえば句会の無記名の出詠一覧をみたときに「未補俳句だ」と分かってしまう。このことを私は現時点の未補俳句の弱点と考えているのだが――理由はたいしたものではなく、たんに「さいきんの若い人が俳句や短歌で使いそう」という印象を抱いてしまい、結果として、句会では目立っても、大観したときに差異化されないのではないか、と思うからだが――、もちろんこのことは、いわば「市場で求められている感触」に一致しているということであるから、弱点と考える必然性は、さほどないのかもしれない。

  桃めくる色のあわいをめくむかし   未補(LOTUS句会・2021年8月)

 上句・中句には、幽かなよさがある。「よさがある」なら、よいのだろう、といわれると、やはり私としては困る(今回の「メタ価値論」をめぐる記事参照)。桃の皮をゆるゆると剥いてゆくなら、当然に《色のあわい》が出現するだろう。ここには前述の「放射系語彙」の感触が少なからずあるとも思うし、ここだけをみるなら「よさが目指されてしまっている」感じもしてしまう。が、やはり卓越しているのは下句《めくむかし》の地味な奇妙さである。句またがりの「喚く(をめく)」を見出すには、《あわい》は「あはい」か「あはひ」となるはずだ。新かな表記の特権として、《あわい》には「淡い(あはい)」と「間(あはひ)」が掛けられてもいるのだろう。この下句を私は「むかしめく」の接尾語が前方に突き出た、非語の語として読んだ。ひどく奇妙なわけではないと思うが(むしろ地味に奇妙である)、十分に奇妙であるとは思う。ちなみに句会では《かし》は終助詞ではないか、という読みが出た。そのばあい「めくむ(恵む・芽ぐむ、の清音化)」となるのだろうか。いちおう成立しそうではある。私は「マレー語のありがとうを意味する『トゥリマカシ』みたいで面白い」などと馬鹿なことを述べたのであるが。後日作者に尋ねたところ「変なことばを作りたかった」とのことだが、たとえそのとおりだったとしても、生成された「変なことば」の変さ(奇妙さ)の質感の謎は解けるわけではない。
 下句だけをみるなら、やはり「ちょっと変な感じがするよね」程度のことしかいうことができないかもしれないのだが、この「ちょっと変」が重要であると、私は考える。十分に奇妙であることを、私はあらゆる文芸作品・芸術作品に要請するが、十分に奇妙であるためには、「ちょっと変」というだけでよい。そしてこの地味な奇妙さを準備しているのが、上句・中句の「幽かなよさ」であると考える。そして結果的に、「よさが目指されてしまっているという感触の回避」に成功しているようにも思う。

 木村リュウジ氏と初めて出会ったのは、2020年1月25日の「春殴会」だった。よく喋る面白い人、という印象であった。以来、2年弱、彼の作品をみてきて、(錯覚かもしれないのだが)作品の質が格段に上がったと感じた瞬間があった。そのとき私は「酒卷(英一郞)さんに私淑してから、とてもよくなったと思う」と本人に伝えたのであるが、いま考えてみると、作品の質の変化のタイミングと、酒卷さんへの私淑の決断のタイミングが一致していると、なぜ私が考えたのか、よく分からない(決断のタイミングは、彼にしか分からないだろう。彼が三行句を発表し始めたのは2018年であるから、ふつうはその時点から私淑したと考えるだろうと思う)。2021年から私もLOTUS句会に出席するようになった。LOTUS句会での彼は、「春殴会」とはうってかわって真面目で遠慮がちな印象だった。今後、彼の新作が読めないことも、彼の作品の質が変化することがないことも(変化するとすれば、それは「読み」によるものとなる)、残念である。私が主催する「プネウマ句会」にも彼は参加してくれていた。出詠作品から3句読んでみたい。なお、「プネウマ句会」は夏雲システムを利用しており、改行ができないため、改行を「/」で代替するよう強いることになったことは、いまでも心苦しく思う。

  靑鷺の火の
  否と消えて
  乎古止點     木村リュウジ(第31回プネウマ句会・2021年5月)

 いわゆる「青鷺火」は「五位の火」「五位の光」ともいわれるように青鷺ではなく五位鷺のことである、とされているようであるが、よくは分からない。ここでは《》が燃えて(伝承によれば発光して)いる。これがたんに消えるのではなく、《火の/否と消え》る。この滑らかさに、心惹かれる。漢文訓読のための《乎古止點》は、文字を正方形のグリッドに収めた架空空間のようであり、これが《靑鷺》のいる空間に重ねて見出されているのか――田にいる鷺を想像することもできる――あるいは(みえている《靑鷺》とは別に)架空のままであり続けているのか。このグリッドに10前後の篝が並んでいる、と想像してみる。あるいはまた、この篝の正体は《靑鷺》であるとも。《靑鷺の火》が消えたとたん、グリッド内の篝の火が消える。そのとき、それが《乎古止點》であったことが分かる。「靑鷺=乎古止點グリッドの篝」という直接的関係にあるようにも、「靑鷺空間」と「乎古止點空間」は同期した別の空間であるようにも、感じられる。同期しているということは、「靑鷺OFF」のとき「乎古止點ON」と反転した関係にあるのかもしれない。《靑鷺》と《乎古止點》のあいだには、想像を絶する距離が――というべきなのか、次元の差異が、位相の違いが……なんとでも呼べばよいであろう――あるように思う。この距離を確かな橋がつないでおり、この確かさは《火の/否と消え》ることの滑らかさによって導かれているように感じられる。

  錦繡の
  すでに六喩の
  露なる      木村リュウジ(第36回プネウマ句会・2021年8月)

 どんなに美しい織物であっても、織られた瞬間からすでに古びはじめている、つまり無常である、そのことがあらわである、とひとまずは読める(《六喩》は仏語で、一切が無常であることの喩え)。「あらわ」の《》という表記も儚さの「喩」になっている(金剛経の《六喩》のうちのひとつに《》がある)。《錦繍》とは「美しい文章」のことでもあるから、《六喩》とはさまざまな喩、さまざまなレトリックをも示していると読んでさしつかえないだろう。このラインで読めば、古今東西の文学作品についての言及にもなっており、かつ、本作も文学作品なのだから、自己言及でもある。俳句作品など、一粒の露に過ぎない、と述べたうえで《》の表記を置く……と読むように本作は設計されているのだろう。気になるのは、本作が目指している地点に悠々と届いたうえで、しかしそこからさらにはみ出すようにはなっていない、という点であろうか。とはいえ、「はみ出す」ことに対して無欲であるような、余裕を感じさせる作品ではある(《錦繍》と「金秋」が掛けられているのかもしれない。この点は、さほど詩的な効果に貢献していない)。

  白うるり
  秋を燈せば
  方取られ     木村リュウジ(第37回プネウマ句会・2021年9月)

 《白うるり》とは、『徒然草』第60段に登場する盛親僧都が「或法師」につけたあだ名である。《この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける》。「しろうるり」とは何ですか、と問われ、「そのようなものは私も知らないのだが、もしあるとすれば、この僧の顔に似ているのだろう」という。「白瓜」のことではないかとも推察されているが、ようするに語義未詳である。初読、《》を「かた」と読んだ。つまり「かたどられ(象られ)」と。秋灯の明かりのなかに、影としてそのモノのかたちが象られる。ポイントは「誰もそのようなものは見たことがない」という点だろう。目には見えないモノかもしれない。これが灯に影として姿を現す、というマジカルな出来事が起きているのであろう。《》は、「かどばったさま」を意味する「けた」とも読める。「瓜の角(かど)が取られた」と。このとき、瓜=丸いものの、ないはずの角を取る、という、非存在への詩的アプローチが、作品内で行われていると読むこともできる。《方取》にはもっと読み方が多様にあるようにも思われるが、いまのふたつの読みだけでも、魅力的な作品であるように思う。


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