「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 春、はるばる来て俳句 新井 啓子

2024年03月09日 | 日記
 3月は雛祭りで始まる。既に華やかな内裏様が飾られている。昨今七段飾りをする家庭は多くはないのだろうが、手書きイラストや折り紙の内裏様だけでも、しつらえれば立派なお雛飾りである。郷里の山陰では雛祭りはひと月遅れの4月3日。幼少時は桃には遅く桜はどうかというなか、花冷えに震えながら桃の節句を祝ったものだ。鳥取では流し雛が有名だが、松江では祭りに合わせて各家庭で「花餅」が作られた。この花餅というのは、「ちまき粉」の生地にこし餡を入れたものを、ピンク・黄・緑の食紅で飾り、椿の葉に乗せて蒸した餡子のお餅である。湯気とともにできあがるつややかな生地のまろやかさ、雪から新芽や膨らみかけた蕾が顔を出すように、初々しいお餅が小さな自然の器に乗る姿に、心ときめいたのは少女たちだけではなかった。

 3月の雛祭りから思い浮かぶ俳句に坪内稔典の次の句がある。

三月の甘納豆のうふふふ    『落花落日』

 この句に出会ったのは、高校の教科書。俳諧から近現代の俳句を巡り、情景や作者について三十一字には到底収まらない事柄を一句15分程度で紹介して来て、聞き手も話し手もお疲れ状態。そんな時に、「うふふふ」である。次回の聞き手は女子ばかり30名ほどだ。思わず私は近くの和菓子屋に駆け込んだ。「甘納豆、ありますか」。あるある、大きいの中くらいの、黒いの、白いの、緑色の。甘納豆にはこんなに種類があったのだと改めて知る。そして30名に均等に配るには少々高価であることも。困った。そう言えば、何かの教室でお菓子の配り物があったとき、パック入りのお豆を配っていたなぁ。あれはどこで売っているのだろう。と歩き回り、ようやく甘納豆4種類30パックを手にした時には日が暮れていた。けれどもバッグを持つ手は「うふふふ」である。
 翌日は黒板に大きくこの句を書いて、しばらく黙っていた。「うふふふ、ってなに?」「うふふふ?」「うふふふ!」。部屋中「うふふふ」の洪水になった。波が静まった頃、「お昼ご飯の時に食べるんだよ」と念を押して、一つずつお豆パックを配る。女子たちに満面笑みが広がり、新しい波が起こる。甘い物に目がない女子たちに好物が渡されたのであるから、「うふふふ」以外の何ものでもない。
 この句では「うふふふ」が誰の声かというのがよく問われるというが、今の彼女たちにしたら、それは紛れもなく自分たちが思わず漏らした喜びの声なのであった。それをふまえた上で、やわらかな春の陽射しのなかで、掌の甘納豆も満たされて誇らしげに笑っているのを感じる。読み手があって成り立つ俳句、というのだろうか、作者の差し出した「三月の甘納豆」を感受する読み手がいればこその、幸福感あふれた一句のように思う。ころころ笑っているような甘納豆の甘味と「うふふふ」の響きとともに、春が来たら思いだして欲しい甘党たちへの贈り物である。

喰うて寝て牛にならばや桃の花 与謝蕪村『蕪村句集』

 春の食べ物の句にはこのような鷹揚なものもある。現代でも、食の冬支度とでも言えそうな年末年始のご馳走三昧で膨らんだ胃袋が欲するまま、高カロリーの食事をして、寒さを口実に運動不足を続けていれば忽ち体重はオーバー。そのまま3月が来て、またお節句で食べ過ぎてしまうという悪循環。そうではあるが、満腹でゴロゴロするのは至福でもある。桃の花は桃源郷への道しるべ。このまま多忙な年度末年度初めが来なければよいのに、というのが、現代人の悩ましい日常である。

葱買て枯木の中を帰りけり  与謝蕪村『蕪村句集』

 同じ蕪村の句だが、「枯木の中」というのが、いかにも寂しい。このとき蕪村は京都に住んでいたので、この葱は関西風の白よりも緑の部分が長い葱だ。枯木のなかで、緑色がひときわ映えて見えただろう。つややかな白もキラリと光り、つんとした香りを連れて帰っていく者の姿が鮮やかである。この句を詩人の荻原朔太郎は、次のように高く評価している。

 枯木の中を通りながら、郊外の家へ帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何という沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭いの染みこんだ家。赤い火の燃える炉辺。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活!
 この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調している。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛しているのである。(中略)蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接実感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。
(『郷愁の詩人 与謝蕪村』萩原朔太郎)

 葱を買った人物は、「人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛している」市井の者であり、蕪村はその生活を直接実感して句を詠んだのである。そして朔太郎もその生活をしみじみと感じ取っている。かくして、きっぱりと冴え冴えしい絵画的なイメージと質素であるがうらぶれてはいない人物のイメージが重なって、凜とした印象深い句となっている。
 現代でも、葉の落ちた街路樹のある通りを一人、町外れの借家へ帰っていく仕事帰りの人影を思い浮かべることができる。そういえば私も、仕事帰りに職場近くのスーパーで葱や食材を買い込んで帰ったことがある。買った後で気づいたのだが、大きなレジ袋に入れてもらっても丈の長い葱はどうしてもにょっきりはみだしてしまうのだ。これで30分、電車に乗らなくてはならない。スーツにヒールで葱。寂しいどころか寒々しい姿のまま車内に葱の香りを撒き散らし、素知らぬ顔で帰宅した。何事もなく帰宅して安堵したのか、その夜の葱料理は格別美味しかった。
 驚いたのは翌朝の出勤途中。顔見知りの子供たちが「昨日葱買ったよね~」と駆け寄ってきたのだ。あ、見られていた。バツの悪いことこの上ない。「ネギ、ネギ~!」。連呼して追い抜いていく。あろうことか、同僚や上司も見たという。大失態だ。すっかり懲りて、その後葱は枯木も電車もない自宅の近くの店で買うか、車に積むことにした。
 それでも時折葱は、魔法の杖のように私を昔へ引き戻す。そんなときはシャキシャキと切り分けて調理してしまう。とても「詫び」とは言えないが、俳句に詠まれた食材を実感しながら、記憶を塗り直し重ねていく。あるとき爪でひっかいたなら、どんな色がどんな層になっているだろうか。その自分だけの色を探してゆく。そのように食べながら生き、老いてゆく傍らへはるばると、言葉は届けられるのだ。

白葱のひかりの棒をいま刻む 黒田杏子『木の椅子』
一炊の夢のわれかも桃の花  原コウ子『胡色』    
存在の闇深くして椿落つ   石牟礼道子『石牟礼道子全句集 泣きなが原』


※『郷愁の詩人 与謝蕪村』引用文は、旧仮名・旧字表記を現代仮名遣い・新字体にしています。

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