「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評183回 令和の海俳句鑑賞 三倉 十月 

2024年05月30日 | 日記
 東京の西側出身である私は、これまでの人生で一度も海の近くに住んだことがない。私にとって海と言えば、子どもの頃は夏休みに親に連れて行ってもらう海水浴、長じてからは友人たちと遠出して遊びに行く場所、そして旅先でふと目にしてテンションが上がる場所。私にとっては海は、そうした特別な非日常の場所だ。

 ところが学生時代、将来どこに住みたいかという話を友人二人としていたところ、二人とも「海の近くじゃないと絶対に無理」と言うので驚いた。そんな条件があること自体が、新鮮だった。二人は海の近くの町の出身で、大学も海から近いと言えば近く、二人の下宿も海側にあった。(私はと言うと、海から遠い実家から2時間かけて通っていた)それから、「日常の中に当たり前に海がある生活」というものに、若干の憧れを抱いている。

 さて、コロナ禍以降、何度か家族で海に行った。マスクが必須の時期であっても、他者との距離が取りやすく、それ以上に海風が心地よい浜辺では、ウィルスのことなど気にしないでよく、その開放感にすっかり虜になった。その延長で、今年のゴールデンウィークは神奈川県、三浦半島の某所に貸別荘を借りて数日滞在した。この試みも実は四回目で、疑似的な海のそばの暮らしと言うものを楽しんでいる。

 ということで、今回は海の句を選んでみた。大きな海もいい。遠い海も、身近な海もいい。怖い海も、楽しい海も、記憶の中にある海もあるだろう。色々な海を行き来しつつ、鑑賞してみたい。


海水で洗ふあしゆび百日紅 森賀まり
 
 足先を海水に浸す、ただそれだけのことでも、普段海に触れない身には特別な経験である。真夏であればなおさらだ。サンダルの隙間から入った砂をさらりと洗い流す心地よさ。その足で浜辺を歩けば、また砂まみれになることはわかっているから、なかなか上がることができない。「百日紅」の色の濃さ、強さが夏の思い出に美しいコントラストを添える。

脱ぎ捨ての水着表も裏も砂 野崎海芋

 沖に出るようなマリンスポーツをしている人は別として、海で泳ぐことと砂にまみれることはほぼ同義である。去年の夏、家族で海に行って久しぶりに実感したのだが、海水浴をすると驚くほど水着の内側にも砂が入り込む。海から上がった子らの水着を濯ぎながら、砂を愛さずに、海だけを愛するのは難しいなと思う。

陸にゐる母に浅利を見せにゆく 小野あらた

 こちらは春の海の、潮干狩りの景だ。作中主体は子どもなのだろう。一緒に干潟で、潮干狩りをするわけでもなく、安全なパラソル、あるいはテントの下にいる母のところに向かっている。そこを「」と呼ぶのが面白い。まだ地面に足は付くけれど、生命あふれる干潟も立派な「海の中」だ。

ゆく夏の光閉ぢ込めシーグラス 金子敦

 浜辺で子供が喜んで拾うのがシーグラス。思い出用の小瓶には、貝殻とシーグラスが詰まっている。シーグラスには角が取れて、全面がすべすべの「曇りガラス」質感になっているものと、まだ割れた角が残りやたらと光るものがある。掲句のように、全ての光を閉じ込めてすべすべしたものを持ち帰る。このガラスはいくつの夏を通り過ぎて、すべすべのシーグラスとなったのだろうかと、思いを馳せつつ。

敷物のやうな犬ゐる海の家 岡田由季

 日陰だろうと、海風が心地よかろうと、真夏のビーチは暑いのである。海の家でぺったりと寝ている犬が、さらに溶けて、色合いや質感も少し敷物みたいになっているのが可笑しい。余談だが、猫が液体かどうかを検証したフランスの科学者の研究がある(イグ・ノーベル物理賞を受賞)。犬も場合によっては、そうなるのかもしれない。

川と海押し合ふところ春の鴨 岡田由季

 町中から続く小さな川が海に流れ入る河口は、じっと見つめて居たくなる。潮の満ち引きや、天候によって、まさに「川と海が押し合」っているのを見るのが面白い。葉山の森戸大明神隣にある、森戸川の河口もまさにそんな感じで、橋の上からついつい眺めてしまう。海水と淡水のはざまを、春の鴨が右に左に揺れている。小鴨の泳ぎの練習にはちょうどいいかもしれない。

海見えて見えなくなつて墓参 岡田由季

 少し離れた場所から見る海の句。高台にある霊園なのだろう。場所によって、海が見えたり見えなかったり。晴れた日に、遠く光る海が見えるのはきっと美しいだろう。薄暗い日にとどろく海は、少し恐ろしいかもしれない。今は静かな海を見つつ、この場所から故人が見る日々の海の移り変わりを想う。

夏鳶や段々畑の果ては海 太田うさぎ

 こちらも遠くから見える海の景。だけど、こちらの句は海を見ようと思っていたわけではないように感じる。山間の中に続く段々畑、昔ながらの景色。自然の中にある人間の営みを目で追っていくと、その果てに海があることに気づいた。夏の鳶が、海へと続く空の高いところを飛んでいく。はっと視界と同時に世界が開けるような、美しい気付きだ。

愛日の海にあそんで大人たち 岩田奎

 「愛日」とは冬の日差しのこと。冬の海で遊んでいるのは、子どもではなく大人たち。かつて、海で遊んだ楽しい思い出があるからこそ、冬であっても海を見たら無邪気になれるのかもしれない。海に入ることはできなくても、天気の良い日に浜辺に出たら、走りたくなるのはちょっとわかる。

麗らかや雲のごとくに魚死にて 阪西敦子

 こちらの句は、春の砂浜の景だと思って読んだ。ぷかぷかと白い腹を上にして、死んだ魚が浮いている。やっと春らしい気候になってきて、気持ち良く浜を散歩していたら、いきなりそんなものが目に入り、少しギョッとする。でも優しい波に上下しながら、揺れているその姿はなんだか雲みたいでもある。そう思って見ると、この「麗らか」な日の一場面として面白く感じるから不思議だ。

初桜日はぽつかりと海にあり 藤井万里

 せっかく桜が咲き始めたのに、曇りの日なのだろう。ただ遠い海の上だけが、「ぽっかりと」晴れて光が当たっている。薄暗い海の一部だけきらきらと光っているのは、まだ花の無い桜並木の一部だけ、ぺかりと咲いた花のようだ。雲はそのうち晴れるし、桜もすぐに満開になる。

海流の深み想へる夜業かな 内野義勇

 この句にあるのは、記憶にある海だ。そして、身のうちに抱える概念としての海だ。しんとした夜に一人で作業をしつつ、思考を深めて行くときに、水面が静かな海にも深いところまで潜る流れがあることを想う。夜の深さと、海流が、己の中で響き合っている。

いつせいに魚影の流る冬障子 佐々木紺

 自分の深いところにある海もあれば、異界の象徴としての海もある。障子の向こうは、本当は寒々しい冬の廊下なのに、ふと「魚影」が過る。夢か、幻影か、わからない。だけど不思議な「あちら側」が、海であることは確かだ。幼い頃、熱を出した時に見る夢のような世界観。

晩鐘や水母に水母映りをり 田中亜美

 近くの寺から聞こえてくる鐘は、目が届くすべての場所に響いている。そしてそれは、暮れ始めた海にも響く。水の中にまで、鐘の音が届くのかはわからない。いや、きっと届いてはいないだろう。暗さを増していく海の中では、鐘のような形をした「水母」が、ちらっちらっと光りあっている。海が異界であることを想う時に思い出すのが、この句である。

われも引き残されしもの大干潟 片山由美子

 最近、小学生のわが子と共に進化論の本を読んでいる。人類の祖先となる生き物は何億年も前に陸地に上がり海を去った。ずっとそう思っていた。だが、この句を読んではっとする。明確に分かれている、あちら側とこちら側。海もまた、我々が去った後にその姿を大きく変えたのだろう。その境界である「大干潟」を見ながら、あちらから取り残された不思議を想う。かつては我々を包含していた大きな海と、小さな私の対比だ。



出展
週刊俳句
セクト・ポクリット 【夏の季語】海の家

『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック Born after 1968』佐藤文香編著(左右社)
『季語の科学』尾池和夫(淡交社)

句集『しみづあたたかをふくむ』森賀まり(ふらんす堂)
句集『浮上』野崎海芋(ふらんす堂)
句集『シーグラス』金子敦(ふらんす堂)
句集『中くらゐの町』岡田由季(ふらんす堂)
句集『膚』岩田奎(ふらんす堂)
句集『また明日』太田うさぎ(左右社)
句集『金魚』阪西敦子(ふらんす堂)
句集『平面と立体』佐々木紺(文學の森)

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