鈴木総史(「群青」「雪華」同人)の『氷湖いま』(ふらんす堂)が3月3日に出た。第一句集で、272句が収録されている。技量の塩梅で面白さが決まるわけではないが、明らかに下手な句がほとんど見当たらず、技量の成熟した句集だと全体としては感じた。また、発見や飛躍ではなく、経験の実感の詩を描く人なのだろうという印象も受けた。
起き抜けを地震とも思ふ吹雪かな
序文にて、櫂未知子が「異彩を放つ、洗練された風土詠」と鈴木を評価している。地方に立脚するのみの風土詠ではないと言っている理由は、鈴木の風土詠が描かれた風土を超えているからだろう。北海道には札幌以外行ったことないが、作者の実感が感じられるような優れた句が多いと、私は感じた。それは、掲句のように北海道における自然の厳しさを、実感として伝えてくれる作品が多いからだとも思う。北海道の自然を表現する際、読者に寄り添った描写をしているからこそ、この句集で描かれている北海道は北海道に縛られない魅力を持っているのだと思う。
地吹雪のなか詩にならず死にきれず
わたつみの光なら欲し葡萄棚
「地吹雪の」この措辞は、キザな修辞ではなく、北に住む人にとって切実な実感の句であるらしい。「わたつみの」は、「余市 三句(二〇一九)」のうちの一句である。
この二句は、作者が北海道在住であることを知らずに読んだとしても、巧みな句と私には感じられる。どちらも若々しさとスケールの大きさを描けていると思う。
とんばうや蝦夷にあをぞらあり余る
これは具体的な地名が句に出てきても同じである。この「蝦夷」は江戸時代以前のそれを指しているのだろう。「とんばう」と「あをぞら」だけがある眼前の自然に、土地の歴史を想起した句だ。時間と空間、両方のスケールが大きい。
また、単に自然を詠むだけでなく、北海道への愛着が多面的に詠まれている側面が良かったと思う。
かがやきの足らぬ蜜柑がどつと来る
『氷湖いま』では、「光」「輝き」「明るい」「眩しい」「かがよう」といった、光に関する言葉がよく使われている。それは、作者も自覚しているようで、「あとがき」にて、「北海道の冬は大変豊かで、まぶしく輝いていると感じた。これらは、ずっと東京に住んでいた私にとって大きな衝撃であった。本句集で、そういった明るさを詠んだ句が多い理由は、そこにある」と書いている。
風土詠は得てして風土の表層を詠んだだけの、魅力の薄い句になりやすいが、そうさせない工夫も、本句集では施されている。掲句は風土愛の裏の側面を描いた句である。
おそらく、愛媛に住んでいるという祖父母から、蜜柑が送られてきたのだろう。そして、この蜜柑は過去の主体の象徴でもある。それを「かがやきの足らぬ」と形容する。毒舌である。あたたかいが明るさの足らないノスタルジーと決別し、明るく極寒の北海道に身を埋める主体の立場がよく現れている句だ。
針はづすとき公魚のかがよひぬ
本句集に描かれている明るさは、生命の輝きなどの形で主体に現れることもある。そう考えると、主体にとって光や輝きというものは、自然そのものの象徴なのかもしれない。
ひとときの闇欲しくなる流氷船
灯籠のための昏さの海なりけり
「明るさ」「光」を描く一方、「暗さ」や「闇」をどう表現しているかも気になるところだ。だが、暗さや闇を描いた句は、明るさや光のそれと比較して明らかに少ない。内容についても、明るさを賛美する内容になっている。
「ひとときの」流氷船と眼前の自然の余りの眩しさに眩暈がした。そのため、「ひととき」闇が欲しくなるが、あくまでも「ひととき」である。自然による眩暈が終わればすぐに光を欲するだろう。
「灯籠の」に至っては、「昏さ」を「光」のためにあるものであると把握している。この主体にとって、暗さは明るさの踏み台として存在している。
ともあれ、風土の「明るさ」に偏重するだけではなく、その裏にある「明るくないもの(蜜柑)」や、「明るすぎるもの(流氷船)」「暗いもの(海)」をともに描くことで、風土と、その土地に住む作者の実感が、多面的に読者に伝わってくる効果がある。
こうした工夫からは、読者に対する、鈴木の配慮の綿密さを窺うことができる。だが、そのサービス精神によって、あまり面白くない句を、読書の箸休めに配置する傾向も見て取れた。
虫籠へ入れて鳴くもの鳴かぬもの
冬蜂や郵便受けのうすぼこり
小説のもうすぐ終はるハンモック
おほかたの橋錆びてゐる紅葉狩
これらの句は、おそらくは箸休めとして配置された句なのだと思うが、読者に対する配慮としては、あまりにサービス精神が過剰であると思う。これらの句を削ったうえで、自分の表現したい(したかった)俳句と入れ替えた方が良かったのではと感じた。
※ネタバレ注意
最後に、本句集の構成について。『氷湖いま』は逆編年体をとっている。その意図は説明されていないが、成功していると私は感じた。はじめに北海道の印象を強く打ち出し、そこから過去に戻っていく形式によって、「(詞書:最上川)冬ざれの川いつぱいに舟唄が」が最後に来る。現在愛する北海道の風土から始まり、鈴木俳句史の原点で締める。ドラマチックな構成であった。
起き抜けを地震とも思ふ吹雪かな
序文にて、櫂未知子が「異彩を放つ、洗練された風土詠」と鈴木を評価している。地方に立脚するのみの風土詠ではないと言っている理由は、鈴木の風土詠が描かれた風土を超えているからだろう。北海道には札幌以外行ったことないが、作者の実感が感じられるような優れた句が多いと、私は感じた。それは、掲句のように北海道における自然の厳しさを、実感として伝えてくれる作品が多いからだとも思う。北海道の自然を表現する際、読者に寄り添った描写をしているからこそ、この句集で描かれている北海道は北海道に縛られない魅力を持っているのだと思う。
地吹雪のなか詩にならず死にきれず
わたつみの光なら欲し葡萄棚
「地吹雪の」この措辞は、キザな修辞ではなく、北に住む人にとって切実な実感の句であるらしい。「わたつみの」は、「余市 三句(二〇一九)」のうちの一句である。
この二句は、作者が北海道在住であることを知らずに読んだとしても、巧みな句と私には感じられる。どちらも若々しさとスケールの大きさを描けていると思う。
とんばうや蝦夷にあをぞらあり余る
これは具体的な地名が句に出てきても同じである。この「蝦夷」は江戸時代以前のそれを指しているのだろう。「とんばう」と「あをぞら」だけがある眼前の自然に、土地の歴史を想起した句だ。時間と空間、両方のスケールが大きい。
また、単に自然を詠むだけでなく、北海道への愛着が多面的に詠まれている側面が良かったと思う。
かがやきの足らぬ蜜柑がどつと来る
『氷湖いま』では、「光」「輝き」「明るい」「眩しい」「かがよう」といった、光に関する言葉がよく使われている。それは、作者も自覚しているようで、「あとがき」にて、「北海道の冬は大変豊かで、まぶしく輝いていると感じた。これらは、ずっと東京に住んでいた私にとって大きな衝撃であった。本句集で、そういった明るさを詠んだ句が多い理由は、そこにある」と書いている。
風土詠は得てして風土の表層を詠んだだけの、魅力の薄い句になりやすいが、そうさせない工夫も、本句集では施されている。掲句は風土愛の裏の側面を描いた句である。
おそらく、愛媛に住んでいるという祖父母から、蜜柑が送られてきたのだろう。そして、この蜜柑は過去の主体の象徴でもある。それを「かがやきの足らぬ」と形容する。毒舌である。あたたかいが明るさの足らないノスタルジーと決別し、明るく極寒の北海道に身を埋める主体の立場がよく現れている句だ。
針はづすとき公魚のかがよひぬ
本句集に描かれている明るさは、生命の輝きなどの形で主体に現れることもある。そう考えると、主体にとって光や輝きというものは、自然そのものの象徴なのかもしれない。
ひとときの闇欲しくなる流氷船
灯籠のための昏さの海なりけり
「明るさ」「光」を描く一方、「暗さ」や「闇」をどう表現しているかも気になるところだ。だが、暗さや闇を描いた句は、明るさや光のそれと比較して明らかに少ない。内容についても、明るさを賛美する内容になっている。
「ひとときの」流氷船と眼前の自然の余りの眩しさに眩暈がした。そのため、「ひととき」闇が欲しくなるが、あくまでも「ひととき」である。自然による眩暈が終わればすぐに光を欲するだろう。
「灯籠の」に至っては、「昏さ」を「光」のためにあるものであると把握している。この主体にとって、暗さは明るさの踏み台として存在している。
ともあれ、風土の「明るさ」に偏重するだけではなく、その裏にある「明るくないもの(蜜柑)」や、「明るすぎるもの(流氷船)」「暗いもの(海)」をともに描くことで、風土と、その土地に住む作者の実感が、多面的に読者に伝わってくる効果がある。
こうした工夫からは、読者に対する、鈴木の配慮の綿密さを窺うことができる。だが、そのサービス精神によって、あまり面白くない句を、読書の箸休めに配置する傾向も見て取れた。
虫籠へ入れて鳴くもの鳴かぬもの
冬蜂や郵便受けのうすぼこり
小説のもうすぐ終はるハンモック
おほかたの橋錆びてゐる紅葉狩
これらの句は、おそらくは箸休めとして配置された句なのだと思うが、読者に対する配慮としては、あまりにサービス精神が過剰であると思う。これらの句を削ったうえで、自分の表現したい(したかった)俳句と入れ替えた方が良かったのではと感じた。
※ネタバレ注意
最後に、本句集の構成について。『氷湖いま』は逆編年体をとっている。その意図は説明されていないが、成功していると私は感じた。はじめに北海道の印象を強く打ち出し、そこから過去に戻っていく形式によって、「(詞書:最上川)冬ざれの川いつぱいに舟唄が」が最後に来る。現在愛する北海道の風土から始まり、鈴木俳句史の原点で締める。ドラマチックな構成であった。
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