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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 短詩型を越境する人 ~ 岡田幸生と秋月祐一の場合 中家 菜津子

2015年11月05日 | 日記
【岡田幸生の場合】

 短歌の世界に飛び込んでまだ年月が浅い私は、岡田幸生を「月とバケツ」という富山で発行されている文芸ゲリラマガジンで初めて知った。
 2015年4月にエペの会+スピン部によって創刊された短歌と小説の同人誌だ。
 幸せに生きるという名前、いい名だなと思いながら、彼の書いた短編小説「キリンの首」を読み始めた。小説のはじまりにこんな言葉がある。

ハードよりソフトが大事。 瞬間が大事。そう思う。 瞬間を大事で満たしたいと思う。

 それは、岡田幸生という人の哲学なのだろうと直感した。後に彼の詩情にふれた時、予感は的中したのだ。しばらくして、ツイッターで評判になっている岡田の句集『無伴奏』(私家版)を知る。彼は自由律の俳人だったのだ。小説での極めて簡潔なセンテンスを思い出し納得がいった。句集が短歌クラスタの間でも話題になっているのには、理由がある。俳句から短歌へ越境の人でもあるからだ。実は『無伴奏』を愛読し、私に譲ってくれたのも歌人・盛田志保子だ。早速、岡田の師である北田傀子によって書かれた序文を読む。

 私の考え方は難しくない。句は一種の「ひらめき」(肉体感覚の)で、それは理屈で説明し得ないいわば「無条件」である。したがって随句は文章によらず韻となる。
 「ひらめき」は瞬時であるから句は最短の韻文(三節)となる。この韻を可能にするのは日本語(大和言葉)の特性からで、句は平常の大和言葉で表現するのでなければ実効をあげることができない
(※随句=自由律俳句)

 肉体感覚を平常の大和言葉で表現するというのは、短歌に近い考え方だ。日常の唯事からポエジーを見つけ出しやわらかな旋律にのせる。岡田の句が歌人に強く支持される理由がわかった気がした。俳句への深い知識はないが岡田のひらめきを彼の短歌と比較しながら、私なりのひらめきで鑑賞してみたい。

白鳥ゆるゆるときてとまった  
はつなつのエア・インディアの尾翼ならひかりのなかをゆるゆるとゆく
  

 一句目、白鳥がこちらへ向って泳いでくる、そして目の前で止った。書かれていることは簡潔だ。止ったという瞬間を切りぬくことで、気まぐれな白鳥の偶然の行動が、自分の元へと訪れた美しい必然として描かれている。そこに「ゆるゆる」というオノマトペが加わる。ゆっくりとやわらかくほどけてゆくような白鳥の動き。具体的な名詞よりも音に体感を託すことで視覚、聴覚といったひとつの感覚に閉じることなく、感覚を跨いで統合的に感じるものを言い表し得るのだ。肉体的なひらめきを、緩やかなちいさな幸福として作者は感受している。

 一首目、初夏、エアインディアの鮮やかな朱色の尾翼が瑞々しいひかりにあふれる滑走路をゆっくりと移動してゆく。飛行機はゆくのであるから、これから旅立つのであろう。エキゾチックな遠いインドの地にぼんやりと想いを馳せる。視覚で捉えると、飛行機の流線型のボディや、滑走路へ向かうときはのろまな動きは、「ゆるゆる」というオノマトペとよく馴染む。触角で捉えると、硬質な金属と「ゆるゆる」の間に好対照なひらきがあって、そのアンバランスさが実に面白い。
 韻律も「」や「」の音でやわらかく整え、もあっとした空気つくりだし、その中に尾翼の物体としての重さが濁音ではさまれる。音楽的な心地よさを感じた。
 同じゆるゆるというオノマトペでも、俳句ではぴたりと静止し、短歌ではゆるやかに流れてゆくそんな二つの翼を思った。

無伴奏にして満開の桜だ

 「無伴奏」というのは音楽用語で伴奏を伴わないこと、その楽曲。ヴィオラやヴァイオリンやチェロや管楽器、声楽などで用いられる。わたしが「無伴奏」と聞いて思い浮かべるのは有名なバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」だが、ヴァイオリン一本にどれだけ空間を広げるエネルギーが秘められているのかと思わせるほどの、小宇宙のような名曲だ。伴奏を必要としないということは、圧倒的でなければならない。そのエネルギーを作者は満開の桜に感じている。ここで面白いのは音楽的比喩を用いながら全くの無音であることだ。桜は音を発したりはしないが発散されるエネルギーとあの空間を埋め尽くす力を作者は音楽として感じている。視覚が空間を通して聴覚に変換される。無音の音楽世界はやはり静止していて瞬間の永遠が切り取られている。

桜花いつせいに散るかなしみをフランス語では ごく手短に  

 フランスの子ども新聞にも花見の記事があり、さくらの花が咲く喜びと散ってしまう悲しみがあると紹介されていた。hanamiという言葉を知るフランス人は多くいるようだが、桜が散るといった時に日本人が共有する儚さや無常観からくる悲しみは、日本の文化の中で培われたもので、フランス語では言葉を尽くさないと、端的には訳し得ないだろう。共有できるものと、共有できないもの、その断絶を一字空けが表現している。「手短に」のニュアンスに、省略されている情緒こそが大切なのであってそこに、手が届かない寂しさを感じた。同じ作者が同じ桜を描いても俳句と比べて感情が色濃くあらわれるのは、短歌ならではの特性だ。

 瞬間を大事で満たしたいと書いた岡田の言葉通り、日常の小さな瞬間を愛しみ瞬間に大切なものを見つけ出した人だけに訪れる唯事の幸せを読者にもそっとわけてくれる一冊だった。大事なものを大事にするということはやさしくて同時にむずかしい。

小さい手のちゃんと握ってといわれた  


【秋月祐一の場合】

 秋月祐一は未来短歌会に所属し2013年に 歌集『迷子のカピバラ』(風媒社)で独特の世界を作り出した歌人だ。

地下鉄で迷子になつたカピバラにフルーツ牛乳おごつてやらう

 その巻頭を飾った歌からもわかるように、可愛らしさだけでなく哀愁や少しどきりとさせられる怖さもあるユーモラスな動物たちがたくさん登場し、自身の撮ったトイカメラ風の写真が歌集を飾る。歌集というよりは、一冊の本がまるごと詩の世界といった美しさがある。

 歌歴が十数年以上になる秋月は今年、俳句結社の船団に入会し俳句を作り始めた。短歌から俳句へ、彼もまた越境する人だ。
 秋月はこのほど坪内稔典、池田澄子らの票を得て船団賞を授賞したという。俳句を作り始めて三カ月での快挙だ。これまで、短歌は短歌、俳句は俳句、定型といっても全く違う美意識があってお互いに敷居が高いという印象があった。しかし、「まだ俳句の世界の右も左もわからない者ですが」、と語る秋月の飄々とした授賞コメントを読むと、短歌で培ってきた感性が俳人にも通じたのだという気がして嬉しいニュースだった。
 もちろん彼自身の才覚による授賞だが、皆が考えているほど両詩型には、壁はないのかもしれない。

 秋月の俳句と短歌を鑑賞してみよう。

飯蛸や明日いちばんの船で発つ        

 一句目は連作の最初の作品で、「飯蛸」は春になるとご飯粒のような卵で体をいっぱいにするそうだ。望潮魚とも書く。日常を脱し船の旅への期待感で胸が膨らむ様子が海の連想で季語となだらかに繋がっている。

烏賊飯を口にしたままはいと言ふ        
ずつと海を見てゐるきみと溶けてゆく冷凍みかんが気になつてゐる
 

 秋月の作品世界には様々な食べ物が登場するが、どれにも、宮崎駿作品を思い出すような豊かな情感がある。
 二句目は軽い屈託が好ましいと池田が評した句だ。
 「烏賊飯」は口のある顔へと自然に意識を向かわせる。もごもごとご飯を噛みながら「はい」と答えた声と軽い屈託の表情がありありと浮ぶのだ。物を食べること、意志を言葉にすること、一句の中で口の役割が綻びなく移行する面白さがあると感じた。

 一首目、まるで一句目の俳句とひとつづきになったような短歌だ。
 「ずつと海を見てゐるきみ」にみかんが溶けるよと声をかけることができないでいる。海を見つめている君は、自分の知らない想いを抱いて遠い世界にいるのだろう。そこには透明な壁がある。「冷凍みかん」にはここに来るまでの列車の旅情も感じられる。その硬さがゆるんでいく質感がふたりに流れる時間の空気感に重ねられる。すっかり溶けてしまったみかんがやがて夕日になりゆらゆら海へ沈んでいくのかもしれない。

 秋月は物が秘めている空気を巧みに捉えて、それを広げる言葉を選び取り言外にまで漂わせることで独特の世界を作り上げる。季語との取り合わせの妙は彼が作歌の中で培った感覚が生きているのかもしれない。

ぼろ市で買つた仏のやうなもの
泥棒市場(バザール)で買つた時計のうごかない秒針のこと、結婚のこと



 俳人は短歌へ、歌人は俳句へ飛行機でも船でも列車でもどんどん旅をして世界を広げて行けるのだとしたら、詩歌の世界は新しい地平を得るだろう。

自転車の街をすべる長い髪だ   岡田幸生
冬夕焼みがき終へたる自転車で  秋月祐一

※岡田の俳句の引用は句集『無伴奏』より 
 短歌の引用は連作「03」より

※秋月の俳句の引用は連作「むささびを飼つてみたいな」より 
 短歌の引用は歌集『迷子のカピバラ』より

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