川柳の質を高めるには、句会のやり方や選者のあり方を考え直す必要がある。
別にこれは私の独創の考えではなく、また現在だからそうだというわけでもない。名前をあげていくと切りがない数の、しかもいろいろな流派・立場の川柳人たちが、もう数十年に渡って言い続けてきたことである。
「詩客」の読者で川柳の句会になじみがある人は少数派だと思うので説明しておくと、明治期終盤に「新川柳」として登場した近代川柳は新聞の川柳欄や各地の句会を通して定着していく。その過程で、句会においては、数人の選者が各々一つの題を担当し、集められた句を渡されて、そのうちから数十%(パーセンテージはまちまちである)を選んで、「披講」として順番に読み上げるという形式が通例となった(田辺聖子による岸本水府伝『道頓堀の雨に別れて以来なり』に、大正期には、全句を読みあげてそれぞれの参加者が気に入った句があれば「頂戴」と声を上げる「頂戴選」形式もあったことが記されているが、参加者の増加に従って時間的制約から「選者披講」の形式が定着したらしい)。今でも川柳句会の会場に行くと、選者が演壇などで前に立って句を読み上げ、参加者がそちらを向いて席に並んで、自分の句が読みあげられると名乗りをあげる(呼名する)光景が見られる。「誌上大会」と呼ばれる書面での投稿形式の句会も同様に、それぞれの題を割り振られた選者が投句から指定された割合の句を選んで並べ、それが句会報として出版される。
こうしたやり方を互選形式になじんだ俳句の人びとに説明すると、いろいろな疑問を抱かれるようである。Q. 選ばれなかった句はどうなるのか。A. ゴミ箱行き、という言い方はきつくても基本的にはその通りで、その句会においてはなかったものとして扱われる。Q. 選者の選ぶ能力や嗜好によって、選の質がバラバラになるのでは? A. その通り、選者の能力によってバラバラである。また、選句の上手い下手以外にも、披講が上手い選者の読み上げにはライブ感がありなかなか魅力的なのだが、残念な披講に会う機会も多い。Q. みんなそれで納得しているのか。A. 不満を聞くこともあるがこの形式が続いているのは、それぞれのグループの人間関係において、またグループ間の持ちつ持たれつにおいて、それなりの納得を得ているようである。Q. それでそのような形式は、よりよい川柳を生み出すために役立っているのか。A. 残念ながら、そうではないようである。
まったく残念ながらそうではないので、冒頭に述べたような意見がくりかえし、くりかえし述べられてきたわけである。選ばれた句について熱い議論が交わされるわけでもなく、出しっぱなし、読みっぱなしで散会するので、選ばれたか選ばれなかったかで一喜一憂した印象だけを持ち帰る人も多いらしい(もちろん、落選した自句を深く反省して選ばれた句と比較して熱心に勉強する人たちもいることは否定しない。ただ、上に述べたように選者のレベルや選句基準がまちまちな状況でそうすることの徒労は大きいだろう)。
それに対する対処法として、一部の小人数の句会では俳句と同じ互選方式を、一部あるいは全面的に取り入れたり、選者選とともに投句全句を参加者に公開して討論の場をもったりすることが試みられてきた。これは一定の効果を上げていると私の体験上は思うが、川柳を書く多くの人々はその恩恵に属していないというのも実感としてある。また、川柳は俳句のように、形式やモチーフから論評するスタンダードな方法が共有されておらず、それぞれ持ち寄った句の良いところ褒め合って終わる(それ以上踏み込むと厄介な議論が待っている)ということも多い。互選の効果はそれぞれのグループの参加者の質に大きく左右される(俳句でもそうだ、というのはもちろんだが、その左右のブレが川柳のほうが遥かに大きいだろうということだ)。
というわけで、サブタイトルにあげた「厳選」と「抜句全句評」である。
「選者選」のスタイルはおそらく川柳に合っている。そもそもが川柳の起源が「前句付」という大量の投句から選者が抜句するという形式から生まれたものだからというのが、その根拠の一つ。また別の根拠は、第一のものとも関連しているが、「前句付」が題から発想するモチーフやスタイルのその多様性を主な面白さとして主張するものであること(これは、前身の俳諧の平句が次へ次へとモチーフやテーマを展開していくことを趣向としていたことにまで遡れる)。したがって、一つの絶対的基準による良し悪しではなく、様々な良さを含み込んであるべきものであること。初代柄井川柳の選が優れているのは、上方に対して新興地域として台頭した江戸の勢いのある社会を自在なことばで切り取った多様な句のその多様性を選に活かしたからに他ならない。
では、現在の選者披講式の句会のどこに問題があるのだろうか。
一つには、選が緩くなりがちということである。最初の川柳句会についての説明で書いたように、投句に対する抜句の割合は句会によってまちまちだが、だいたいは30%~40%ほどで頼まれることが多いようである。これは想像するに、参加者が少なくとも1句ぐらいはどれかの題で選んでもらえる(まったく自句が選ばれない「全没」という事態が少ない)ように設定された割合である。これは短期的には参加者を増やすことには効果的な計算である。そもそもまったく自句が選ばれない会に何度も行こうという奇特な人も少ないだろうから。ただし、その分、出来が良くない句も句数を揃えるために抜句しなければならないということでもある。上手な選者であれば、句の並びによって良し悪しを伝えるということも可能かもしれないが、高度なテクニック過ぎるだろう。その結果、ダレた選句を見た優秀な作者がこの程度のものかと川柳を見限る事態が起きる、というか、実際に起きてきたに違いない。どの句会でもよい句はあるだろうが、それを大量の凡句の中から鵜の目鷹の目で探すというのは、別に川柳の楽しみでも何でもないだろう。
そこで、私が考えるのが、選を厳しくする、より正確には、質として抜句できる作品を選んだ上で、選者にとっての川柳観を示しつつ、選の全体の構成を考慮してさらに句を絞り込むことだ。この場合、必ずしも落ちた句が悪い句とは限らない。ただし、残った句は必ず良い句であり、また、選に残った句とその並びによって、投句者と選者の協力によるその場の川柳性が立ち上がると思われる。これは普通の意味で対話を行う互選よりも、より文芸の本質において対話的になるはずだ。
もう一つの問題点は、選んだ句についてのコメンタリーが少ない点だ。多くの場合、選者は披講が終わると軸吟(題についての自作の句)を読み上げて、さっと演壇を去る。これは一種粋な慣習で捨てがたいところもあり、上手に演じ切るならば前句付以来の軽みを選においても表現できるのだが、これまたハードルが高い。と同時に、川柳は「消えていく文芸」と開き直るのでないとしたら、作品の価値を積み上げていき、質を維持し、あわよくば向上するという目的には叶わないかたちである。最近では、この問題点に関して、特選や天地人の秀句について選者にコメントを求める句会も増えてきている。ただし、一句や二句についての短い発言は、たいていの場合、選者の嗜好(好き嫌い)の表明に終わってしまう。
この点について、先ほどの「厳選」と組み合わせるなら、一つの解決を見出せるように思う。句数を絞り込み、パノラミックな選句を意識的に行うことで、選者は自己の川柳観を立体的に示し、また投句者と句会の場の何を評価しているかを言語化しやすくなる。句会後、句会報などでは全句について選評を行うことも可能である。投句者の側も、選者の選について納得がいくかどうか、いくとしたら、あるいはいかないとしたら何故なのかを考え、場合によっては疑問をぶつけることが出来る。
というようなことを考えて、私が去年から開催している「海馬万句合」では、「厳選」と「抜句全句評」を試みている。手前味噌になるが、まあ、意味のある実験をしてはいると思うので、ちょっととりあげさせていただく。
「海馬万句合」では、基本的に全題、主催者である私一人が選句することにした(二回目では、初回の大賞句作者の西脇祥貴さんに、一つの題の担当を頼みはしたが)。その上で、選句については「厳選」を明言して、通常の句会では起きるような、数合わせのための抜句はせず、また良句の中からも絞り込み、それぞれの題の選がひとかたまりの群作となることをイメージした。さらに選句後、選んだ全句についてのコメントを書き、各句および全体の選句意図を明らかにした。ある意味ではとてもワガママな試みであったが、参加者の反応は初回、二回目ともよかったと思われる。
ワガママとは言え、選者のひとりよがりを相対化する試みも行っている。選句発表後、無記名、記名と二回に分けて、参加者を中心に選ばれた句についてのコメントをTwitterおよびメールで募集して共有できるようにした。大賞句に送られる賞に加えて、コメント大賞を用意して、句について語り合う機会であることを強調した。
対面での句会ではないので簡単に比較できないが、従来の川柳句会のやり方についての一つの批評となる試みとなっているのではないかと思う。
(「海馬万句合」の結果は、以下のnoteの記事(https://note.com/umiumasenryu/)と、Twitterで #海馬万句合、#海馬万句合第二回 とハッシュタグ検索をすれば見ることができるので、ぜひご一読ください。)
さて、この「海馬万句合」の試みがひとまず成功したな、と思ったのは、このイベントそのものよりも、これに続くイベントが出てきたからだ(これもいささか我田引水ですが、ご寛恕を)。
「マダガスカル句会」は、ネット上での川柳の動きを主導している一人で、また、句集『馬場にオムライス』を出版したばかりのササキリユウイチが東京文学フリマに合わせて開催したおそらく一度限りの句会だが、上に述べてきた「厳選」と「抜句全句評」の形式をとっている。
マダガスカル句会の結果発表
https://note.com/sasakiri/n/n9161ff10fa54
各題投句約90句に対して、各題とも10句(特選1句、並選9句)に選句が絞られており、一句一句に、選者の橋爪志保、暮田真名、雨月茄子春、ササキリユウイチの丁寧で、かつ個性的な評が付されている。川柳の選者をつとめた経験は少なめの選者たちだが、それがかえって選評をそれぞれの川柳観を手探りでつかんでいく過程にしていて刺激的だ。
数句とその評を引かせていただく。
ホームズの血液型はviolin/白水ま衣
シャーロックホームズは、バイオリンを弾くんですよね。だから、「血にバイオリンが流れているほどだ」のおしゃれな言い換えと捉えてもいいかもしれません。でもそれだけでなく、「血液型」という硬い語をあえて使って詩的世界を再構築している感じがよかったです。あんな無二の天才なら、「violin」が血液型でも、まあわかるよな、という説得力があるのもいい。AとかBとかOとかABとか、アルファベット大文字でひとつふたつ、ではなく、「violin」。ルール逸脱もはなはだしいですが、これこそが川柳の楽しみのような気がしています。(題「バイオリン」、橋爪志保選評)
百万の子供に一粒の棺/西沢葉火
「一粒の棺」が光っています。「粒」というからには棺はとても小さそうですが、その棺に収まる?「百万の子供」——この「百万」という数字はもしかして「百万馬力」からきているのか?と不安になりつつ——、はさらに小さそうです。だからこの句は鉄腕アトムよりは原子のイメージに近いのかなと思いました。「ひとつ/ぶ」という句またがりもつぶつぶ感に寄与しています。うまく説明できないけど魅力がある句です。(題「アトム」、暮田真名選評)
つるはしで切っては捨てる豆腐店/毱瀬りな
題への取り組み方が好きな句だった。カレンダーの格子をお豆腐に重ね合わせて、日々が過ぎていく様子を「つるはしで切っては捨てる」と大胆に言い切っている。豆腐店って新しいお店を見ない気がするし、たぶんこの先減っていくお店だと思う。なんとなく「切っては捨てる」という表現に滅びへと向かう哀愁を感じた。この言い方は上手くはないのだろうけど、絶滅するのを待つだけの動物を見ているような気持ちで、「それが訪れるのを待つ」だけの覚悟を決めた背中を見る、みたいな。(題「カレンダー」、雨月茄子春選評)
なんかきみたまごっぽいねしぐさとか/今田健太郎
とりあえず、これはそういう意味では、少し未来の話はしている。オムライスがこわいことは、もはや前提であって、だとすれば、こちらは痛烈なdis。たまごがコンプラ的にアウトになった世界での発話。最高度の侮辱。そういう感覚をもたずに育った上の世代からの無神経な発言。そういった仮定の中から、句として提出できるところが凄いです。定型の要請により「しぐさとか」が倒置されているのもよいですね。(題「オムライスみんなこわくはないのかな/飯島章友」、ササキリユウイチ選評)
上記の4句とその評を見るだけで、各々、句と読みのアプローチが違っており、川柳の面白さを探ることそのものが川柳の楽しみになっていることが分かると思う。ぜひ、全題、全句・全句評を通して読んでいただきたい。
付け加えるならば、句会における作品と選評のぶつかり合いに加えて、個人による自由な発信もあるとよい、と言おうとしたら、これもまた、上記のイベントの参加者たちのオンライン上での発表、さらには、作品集・句集の発行がものすごいスピードで続いていることで現実になっている。従来の川柳界では、選に落ちた句を発表するのは選者に失礼!といった見方があったのからはほぼ180度の転換で、「マダガスカル句会」で検索をかければそれぞれの投句者がさまざまな場所で投句した句をシェアしているのが、また、選者とは別の評を、また選者の評に対する評を書いているのを読むことができる。
新しい川柳の場と、新しい川柳そのものが起ち上がる現場を、私たちは見ているのかもしれない。
別にこれは私の独創の考えではなく、また現在だからそうだというわけでもない。名前をあげていくと切りがない数の、しかもいろいろな流派・立場の川柳人たちが、もう数十年に渡って言い続けてきたことである。
「詩客」の読者で川柳の句会になじみがある人は少数派だと思うので説明しておくと、明治期終盤に「新川柳」として登場した近代川柳は新聞の川柳欄や各地の句会を通して定着していく。その過程で、句会においては、数人の選者が各々一つの題を担当し、集められた句を渡されて、そのうちから数十%(パーセンテージはまちまちである)を選んで、「披講」として順番に読み上げるという形式が通例となった(田辺聖子による岸本水府伝『道頓堀の雨に別れて以来なり』に、大正期には、全句を読みあげてそれぞれの参加者が気に入った句があれば「頂戴」と声を上げる「頂戴選」形式もあったことが記されているが、参加者の増加に従って時間的制約から「選者披講」の形式が定着したらしい)。今でも川柳句会の会場に行くと、選者が演壇などで前に立って句を読み上げ、参加者がそちらを向いて席に並んで、自分の句が読みあげられると名乗りをあげる(呼名する)光景が見られる。「誌上大会」と呼ばれる書面での投稿形式の句会も同様に、それぞれの題を割り振られた選者が投句から指定された割合の句を選んで並べ、それが句会報として出版される。
こうしたやり方を互選形式になじんだ俳句の人びとに説明すると、いろいろな疑問を抱かれるようである。Q. 選ばれなかった句はどうなるのか。A. ゴミ箱行き、という言い方はきつくても基本的にはその通りで、その句会においてはなかったものとして扱われる。Q. 選者の選ぶ能力や嗜好によって、選の質がバラバラになるのでは? A. その通り、選者の能力によってバラバラである。また、選句の上手い下手以外にも、披講が上手い選者の読み上げにはライブ感がありなかなか魅力的なのだが、残念な披講に会う機会も多い。Q. みんなそれで納得しているのか。A. 不満を聞くこともあるがこの形式が続いているのは、それぞれのグループの人間関係において、またグループ間の持ちつ持たれつにおいて、それなりの納得を得ているようである。Q. それでそのような形式は、よりよい川柳を生み出すために役立っているのか。A. 残念ながら、そうではないようである。
まったく残念ながらそうではないので、冒頭に述べたような意見がくりかえし、くりかえし述べられてきたわけである。選ばれた句について熱い議論が交わされるわけでもなく、出しっぱなし、読みっぱなしで散会するので、選ばれたか選ばれなかったかで一喜一憂した印象だけを持ち帰る人も多いらしい(もちろん、落選した自句を深く反省して選ばれた句と比較して熱心に勉強する人たちもいることは否定しない。ただ、上に述べたように選者のレベルや選句基準がまちまちな状況でそうすることの徒労は大きいだろう)。
それに対する対処法として、一部の小人数の句会では俳句と同じ互選方式を、一部あるいは全面的に取り入れたり、選者選とともに投句全句を参加者に公開して討論の場をもったりすることが試みられてきた。これは一定の効果を上げていると私の体験上は思うが、川柳を書く多くの人々はその恩恵に属していないというのも実感としてある。また、川柳は俳句のように、形式やモチーフから論評するスタンダードな方法が共有されておらず、それぞれ持ち寄った句の良いところ褒め合って終わる(それ以上踏み込むと厄介な議論が待っている)ということも多い。互選の効果はそれぞれのグループの参加者の質に大きく左右される(俳句でもそうだ、というのはもちろんだが、その左右のブレが川柳のほうが遥かに大きいだろうということだ)。
というわけで、サブタイトルにあげた「厳選」と「抜句全句評」である。
「選者選」のスタイルはおそらく川柳に合っている。そもそもが川柳の起源が「前句付」という大量の投句から選者が抜句するという形式から生まれたものだからというのが、その根拠の一つ。また別の根拠は、第一のものとも関連しているが、「前句付」が題から発想するモチーフやスタイルのその多様性を主な面白さとして主張するものであること(これは、前身の俳諧の平句が次へ次へとモチーフやテーマを展開していくことを趣向としていたことにまで遡れる)。したがって、一つの絶対的基準による良し悪しではなく、様々な良さを含み込んであるべきものであること。初代柄井川柳の選が優れているのは、上方に対して新興地域として台頭した江戸の勢いのある社会を自在なことばで切り取った多様な句のその多様性を選に活かしたからに他ならない。
では、現在の選者披講式の句会のどこに問題があるのだろうか。
一つには、選が緩くなりがちということである。最初の川柳句会についての説明で書いたように、投句に対する抜句の割合は句会によってまちまちだが、だいたいは30%~40%ほどで頼まれることが多いようである。これは想像するに、参加者が少なくとも1句ぐらいはどれかの題で選んでもらえる(まったく自句が選ばれない「全没」という事態が少ない)ように設定された割合である。これは短期的には参加者を増やすことには効果的な計算である。そもそもまったく自句が選ばれない会に何度も行こうという奇特な人も少ないだろうから。ただし、その分、出来が良くない句も句数を揃えるために抜句しなければならないということでもある。上手な選者であれば、句の並びによって良し悪しを伝えるということも可能かもしれないが、高度なテクニック過ぎるだろう。その結果、ダレた選句を見た優秀な作者がこの程度のものかと川柳を見限る事態が起きる、というか、実際に起きてきたに違いない。どの句会でもよい句はあるだろうが、それを大量の凡句の中から鵜の目鷹の目で探すというのは、別に川柳の楽しみでも何でもないだろう。
そこで、私が考えるのが、選を厳しくする、より正確には、質として抜句できる作品を選んだ上で、選者にとっての川柳観を示しつつ、選の全体の構成を考慮してさらに句を絞り込むことだ。この場合、必ずしも落ちた句が悪い句とは限らない。ただし、残った句は必ず良い句であり、また、選に残った句とその並びによって、投句者と選者の協力によるその場の川柳性が立ち上がると思われる。これは普通の意味で対話を行う互選よりも、より文芸の本質において対話的になるはずだ。
もう一つの問題点は、選んだ句についてのコメンタリーが少ない点だ。多くの場合、選者は披講が終わると軸吟(題についての自作の句)を読み上げて、さっと演壇を去る。これは一種粋な慣習で捨てがたいところもあり、上手に演じ切るならば前句付以来の軽みを選においても表現できるのだが、これまたハードルが高い。と同時に、川柳は「消えていく文芸」と開き直るのでないとしたら、作品の価値を積み上げていき、質を維持し、あわよくば向上するという目的には叶わないかたちである。最近では、この問題点に関して、特選や天地人の秀句について選者にコメントを求める句会も増えてきている。ただし、一句や二句についての短い発言は、たいていの場合、選者の嗜好(好き嫌い)の表明に終わってしまう。
この点について、先ほどの「厳選」と組み合わせるなら、一つの解決を見出せるように思う。句数を絞り込み、パノラミックな選句を意識的に行うことで、選者は自己の川柳観を立体的に示し、また投句者と句会の場の何を評価しているかを言語化しやすくなる。句会後、句会報などでは全句について選評を行うことも可能である。投句者の側も、選者の選について納得がいくかどうか、いくとしたら、あるいはいかないとしたら何故なのかを考え、場合によっては疑問をぶつけることが出来る。
というようなことを考えて、私が去年から開催している「海馬万句合」では、「厳選」と「抜句全句評」を試みている。手前味噌になるが、まあ、意味のある実験をしてはいると思うので、ちょっととりあげさせていただく。
「海馬万句合」では、基本的に全題、主催者である私一人が選句することにした(二回目では、初回の大賞句作者の西脇祥貴さんに、一つの題の担当を頼みはしたが)。その上で、選句については「厳選」を明言して、通常の句会では起きるような、数合わせのための抜句はせず、また良句の中からも絞り込み、それぞれの題の選がひとかたまりの群作となることをイメージした。さらに選句後、選んだ全句についてのコメントを書き、各句および全体の選句意図を明らかにした。ある意味ではとてもワガママな試みであったが、参加者の反応は初回、二回目ともよかったと思われる。
ワガママとは言え、選者のひとりよがりを相対化する試みも行っている。選句発表後、無記名、記名と二回に分けて、参加者を中心に選ばれた句についてのコメントをTwitterおよびメールで募集して共有できるようにした。大賞句に送られる賞に加えて、コメント大賞を用意して、句について語り合う機会であることを強調した。
対面での句会ではないので簡単に比較できないが、従来の川柳句会のやり方についての一つの批評となる試みとなっているのではないかと思う。
(「海馬万句合」の結果は、以下のnoteの記事(https://note.com/umiumasenryu/)と、Twitterで #海馬万句合、#海馬万句合第二回 とハッシュタグ検索をすれば見ることができるので、ぜひご一読ください。)
さて、この「海馬万句合」の試みがひとまず成功したな、と思ったのは、このイベントそのものよりも、これに続くイベントが出てきたからだ(これもいささか我田引水ですが、ご寛恕を)。
「マダガスカル句会」は、ネット上での川柳の動きを主導している一人で、また、句集『馬場にオムライス』を出版したばかりのササキリユウイチが東京文学フリマに合わせて開催したおそらく一度限りの句会だが、上に述べてきた「厳選」と「抜句全句評」の形式をとっている。
マダガスカル句会の結果発表
https://note.com/sasakiri/n/n9161ff10fa54
各題投句約90句に対して、各題とも10句(特選1句、並選9句)に選句が絞られており、一句一句に、選者の橋爪志保、暮田真名、雨月茄子春、ササキリユウイチの丁寧で、かつ個性的な評が付されている。川柳の選者をつとめた経験は少なめの選者たちだが、それがかえって選評をそれぞれの川柳観を手探りでつかんでいく過程にしていて刺激的だ。
数句とその評を引かせていただく。
ホームズの血液型はviolin/白水ま衣
シャーロックホームズは、バイオリンを弾くんですよね。だから、「血にバイオリンが流れているほどだ」のおしゃれな言い換えと捉えてもいいかもしれません。でもそれだけでなく、「血液型」という硬い語をあえて使って詩的世界を再構築している感じがよかったです。あんな無二の天才なら、「violin」が血液型でも、まあわかるよな、という説得力があるのもいい。AとかBとかOとかABとか、アルファベット大文字でひとつふたつ、ではなく、「violin」。ルール逸脱もはなはだしいですが、これこそが川柳の楽しみのような気がしています。(題「バイオリン」、橋爪志保選評)
百万の子供に一粒の棺/西沢葉火
「一粒の棺」が光っています。「粒」というからには棺はとても小さそうですが、その棺に収まる?「百万の子供」——この「百万」という数字はもしかして「百万馬力」からきているのか?と不安になりつつ——、はさらに小さそうです。だからこの句は鉄腕アトムよりは原子のイメージに近いのかなと思いました。「ひとつ/ぶ」という句またがりもつぶつぶ感に寄与しています。うまく説明できないけど魅力がある句です。(題「アトム」、暮田真名選評)
つるはしで切っては捨てる豆腐店/毱瀬りな
題への取り組み方が好きな句だった。カレンダーの格子をお豆腐に重ね合わせて、日々が過ぎていく様子を「つるはしで切っては捨てる」と大胆に言い切っている。豆腐店って新しいお店を見ない気がするし、たぶんこの先減っていくお店だと思う。なんとなく「切っては捨てる」という表現に滅びへと向かう哀愁を感じた。この言い方は上手くはないのだろうけど、絶滅するのを待つだけの動物を見ているような気持ちで、「それが訪れるのを待つ」だけの覚悟を決めた背中を見る、みたいな。(題「カレンダー」、雨月茄子春選評)
なんかきみたまごっぽいねしぐさとか/今田健太郎
とりあえず、これはそういう意味では、少し未来の話はしている。オムライスがこわいことは、もはや前提であって、だとすれば、こちらは痛烈なdis。たまごがコンプラ的にアウトになった世界での発話。最高度の侮辱。そういう感覚をもたずに育った上の世代からの無神経な発言。そういった仮定の中から、句として提出できるところが凄いです。定型の要請により「しぐさとか」が倒置されているのもよいですね。(題「オムライスみんなこわくはないのかな/飯島章友」、ササキリユウイチ選評)
上記の4句とその評を見るだけで、各々、句と読みのアプローチが違っており、川柳の面白さを探ることそのものが川柳の楽しみになっていることが分かると思う。ぜひ、全題、全句・全句評を通して読んでいただきたい。
付け加えるならば、句会における作品と選評のぶつかり合いに加えて、個人による自由な発信もあるとよい、と言おうとしたら、これもまた、上記のイベントの参加者たちのオンライン上での発表、さらには、作品集・句集の発行がものすごいスピードで続いていることで現実になっている。従来の川柳界では、選に落ちた句を発表するのは選者に失礼!といった見方があったのからはほぼ180度の転換で、「マダガスカル句会」で検索をかければそれぞれの投句者がさまざまな場所で投句した句をシェアしているのが、また、選者とは別の評を、また選者の評に対する評を書いているのを読むことができる。
新しい川柳の場と、新しい川柳そのものが起ち上がる現場を、私たちは見ているのかもしれない。
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