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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評175回 令和のクリスマス俳句鑑賞 三倉 十月

2023年11月25日 | 日記
 サンクスギビングがあるアメリカと違って、11月に目立ったイベントがない日本では、ハロウィン終了と同時に街はクリスマスに変わる。今年も11月頭から都内の商業施設には大きなツリーが飾られ輝いていたが、夏日の暑い日があったりしたのでちぐはぐな感じは否めなかった。やはり2ヶ月もクリスマスで引っ張るのは無理があるのでは? と思うわけだが、それはそれとして、今回はクリスマスの句を鑑賞してみようと思う。

 日本のクリスマス。戦後の高度成長期に盛り上がって行った催事なのかと思いきや、明治29年に正岡子規がクリスマスを季語(季題)にしたとの記述を見つけた。折角なので、子規のクリスマスの句から始めたい。

八人の子供むつましクリスマス    正岡子規

 クリスマスの日に、子供たちが集まっている。それだけの景だが、病に伏している子規が、この賑やかさをどれだけ嬉しく思っているのかが伝わってくる明るい句だ。子規も子供たちと同じように、ウキウキとした気分になっているといいなと思う。

長崎に雪めづらしやクリスマス    富安風生

 こちらは昭和3年の、富岡風生のクリスマス句。長崎の町に、珍しく雪が降った。それだけならまだしも、クリスマスなのだから嬉しさも尚更だ。当時はまだホワイトクリスマスとは言わないかもしれないが、雪と夜景の長崎は、それはそれは美しいだろうと思う。

へろへろとワンタンすするクリスマス 秋元不死男

 さて、クリスマスの句と言えば……で、有名なのがこちらの句。イメージとしては賑わう街の片隅にあるクリスマスとは無縁の食堂の景だ。どうやら外はクリスマスらしいが、自分には関係ないとワンタンを啜っている。この句が詠まれたのは昭和24年、終戦から5回目のクリスマス。サンフランシスコ講和条約まではまだ3年あるが、平和が日常になったことをを感じさせる。

 ちなみに、この句はクリスマスへのアンチテーゼのような形で紹介されているのを見かけることはあるが(それも理解できる)、秋元不死男本人は思いのほかクリスマスの句が多い。(クリスマス好き?)

目刺みな眼をくもらせてクリスマス 秋元不死男
点眼に額みどりめくクリスマス

 こちらの二句は、どちらかというとワンタンの句と同じで、日常のかなりどうでもいいことと、クリスマスが取り合わされている。ワンタンをすするほどのインパクトはないが、それでもクリスマスを詠みたかったと言うのは少し面白い。ただ、二句目の「額みどりめく」のは、のけぞった頭の先にツリーがあるから?という風に読めなくもない。

燐寸ともし闇の溝跳ぶクリスマス  秋元不死男
燭の火の根元の青きクリスマス

 こちらは、どちらも何となくクリスマスを感じる。小さな明かりと闇の対比は、聖夜と繋がる部分がある。と、思っては見たものの、何故、燐寸の明かりで闇の溝を飛んでいるのか。しかもクリスマスに。何かから逃げているのだろうか。クリスマスに?


 昭和後期、山口誓子は毎年クリスマスの句を詠んでいた。特にクリスマスツリーを見るのが好きだったようだ。聖樹の句がとても多い。ここに挙げたのは、ほんの一部である。

聖樹には大き過ぎたる星と鐘    山口誓子
聖樹より垂れゐる小さき教会堂
聖樹にて鳴ることもなき銀の鐘
聖樹には綿をこんもり積もらしめ
病院の聖樹金銀モール垂る
ホテル廣場電飾のみの大聖樹
レストラン綿で聖樹の雪増やす

 主に昭和53年〜58年ごろに詠まれたもの。しげしげと聖樹を見つめている。病院で、ホテルで、レストランで、街中の様々な場所で聖樹に目を止め、その一つ一つを詠んでいる。最近の商業施設のツリーの飾りなどは、どこで見ても似たような感じだなと思ってしまうこともあるが、それでも細部に目を止めて句にしていくと30年後に読み返して時代の空気を感じる懐かしい句になるかもしれない。

みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど 堀田季可

 さて、同じ聖樹の句でもまたがらりと雰囲気が変わる句。何度かこの連載で引用させてもらっている堀田季何さんの『人類の午後』に、クリスマスの章があったのでそちらから。天使の人形が飾られているクリスマスツリーは一見可愛らしいのかもしれないが、「みな」「吊られてをりぬ」と表現されると、突然世界の薄皮が一枚剥がされたような、薄寒い感覚を覚える。

それぞれに森を離れてきて聖樹   矢野玲奈

 色々と飾られたり、吊るされたりしている聖樹だが、こちらは木そのものを詠んだ静謐な句。森から遠く旅をして、時と場合によっては海も渡って、色んな街の色んな家に届いて、飾り付けられ聖樹となる。最近はフェイクのツリーを飾る家の方が圧倒的に多いと思うが、生のもみの木の爽やかな芳香は堪らなく良いものだ。今も静かに佇む遠い森を思いながら、一つずつ飾り付けていく。

陣痛に悶えてマリア聖夜劇     堀田季可

 もう一句、『人類の午後』から。聖夜劇は見たことがないのだが、子供たちが演じることが多いことを考えれば、出産シーンは必須とはいえ陣痛に悶えるマリアはいないだろう。ただ、実際の出産の現場ではそんなことはあるはずもなく。遥か昔の伝説、史実、ファンタジーの中の真実は今となってはわからないが、この句を読むと、聖夜の厳かさを上書きするような、マリアの汗の香を感じるのである。

アマゾンの箱破る快クリスマス   小川軽舟

 賑やかで楽しく現代的なクリスマス。多くの人が一度は破ったことがあるだろう、アマゾンの箱との取り合わせが面白い。正直、アマゾンから届くのは日用品の方が圧倒的に多いが、時折は贈り物もある。そして、クリスマスの季語が明るさを添えている。最近はアレクサがアマゾンから届くものをぺらぺら教えてくれてしまうので、サンタから子へのプレゼントは決してアマゾンに頼まないの言うのは、昨今の親にとって重要なライフハックである。

自殺せずポインセチアに水欠かさず 矢口晃

 クリスマスの明るさがあれば、それに対比するように影もある。この句はクリスマスとは一言も言っていないけれど、クリスマスの気配を強く感じる。外の世界の煌めきとの対比するように、暗い部屋の片隅で、目に痛いほど赤いポインセチアを見つめている瞳に光が差していない。それでも此岸に留まる限り、水をやる。クリスマスがやってきても、通り過ぎても、波はやり過ごすのが大事なのだ。

コロッケの中の冷たきクリスマス 小野あらた

 こちらは多分、一人のクリスマス。レンチンに失敗してコロッケの中がまだ冷たい、というのはまあまあ良くあることだけど、クリスマスだからこそちょっと面白い句になった。あと30秒温めを追加して食べよう、コロッケ。

離陸せぬうちに眠れりクリスマス 夏井いつき

 仕事も仕事以外も大詰めの年末進行。それでも故郷に帰る日に乗った飛行機で、そういえば今日がクリスマスだったことに気づく。東京のキリッと晴れた夜の夜景は、クリスマスに相応しく美しいだろうに。夢の中で見るしかない。今年もお疲れ様でした。Merry Christmas、あらため、Happy Holidays!



出典
『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック Born after 1968』(左右社)佐藤文香編著
『俳コレ』(邑書林)週刊俳句
『昭和俳句作品年表 戦後篇』 (東京堂出版)現代俳句協会
『昭和俳句作品年表 戦前・戦中篇』 (東京堂出版)現代俳句協会
句集『人類の午後』(邑書林)堀田季何
句集『無辺』(ふらんす堂)小川軽舟
575筆まか勢 fudemaka57.exblog.jp 「クリスマス」

俳句時評174回 多行俳句時評(9) 出会い損ねる詩(3) 斎藤 秀雄 

2023年11月02日 | 日記

 引き続き、酒卷英一郞氏の三行作品を読み進めたい。読みの方針は、前々回、および前回記事と同様である。「出会い損ねる」という、詩との出会い方を、受け入れつつ、しかし抗ってみること。
 なお、酒卷氏の作品において、表記は一貫して正書法が用いられているが、文字コードやフォントの都合上、表示しえないものは、それぞれ新字体に改めた。

胡麻和えは汝に
黑胡麻汚しは
そちへかな

 『LOTUS』第6号(2006年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXII」より。この人を食ったような、とぼけたような「作風」を眼前にするとき、「ああ、酒卷作品を読んでいるなあ」という「実感」に襲われる。もちろん「実感」などというものは、「実感」という印象を伴った知覚のひとつに過ぎないのだから、騙されてはならないだろう。
 コンスタティヴな「句意」は見たままだが、ひとまずパラフレーズするなら「胡麻和えはあなたに。黒胡麻汚しはそちらのあなたに」となるだろうか(《》の自称としての用法は、古代においてあったようだが、ここではそこまで穿った読み方をする必要はないと思う)。本作を読むさい、重要なポイントと考えられるのは、本作の背後に(下に、でも、上に、でもよいのだが)いかに間テクスト的な・テクスト参照的な重層性(深さ、とか、重み、とか呼んでもよいかもしれない)があろうとも、なによりもまず「強い句意」が、ある明瞭さの印象を伴って、読みの領域に勃勃と立ち上がる点だ。これを無視することはできない。《》と《そち》、《胡麻和え》と《胡麻汚し》はそれぞれ同義であり、つまり文字面を変えつつ、二度、同じことを述べていることになる(だから「人を食ったような、とぼけたような」と述べたのだ)。対称(二人称)を二度使うことは、語り手の眼前に二人の人物がいると仮定すれば、不自然な点はまったくない。
 パフォーマティヴな句意はどうか。面白いのは、一行目と、二・三行目の印象が、まるで異なる、という点だろう。この印象の違いは、並べて配置する、アレンジメントの効果である。「胡麻和えは汝に」という文も「黒胡麻汚しはそちへ」という文も、それぞれ単独では、本作の与えてくる印象を備えることがない。このアレンジメントにおいて、《和え》・《汚し》の対称的な語が、まずはこの違いをもたらしている。二行目の《黑胡麻》は、反照して、一行目の《胡麻》を白胡麻としてイメージさせることだろう。
 近年、「黒」を悪しきものの象徴として用いることに対し、ポリティカル・コレクトネスの観点から異議が唱えられているが(「ブラック企業」等の言い回し)、我々の知覚の構造によるものか、知覚の構造を維持しようとする保守的慣行によるものか、《汚し》の語の効果もあいまって、二つの行為は、「青眼を向けられる者への行為」と「白眼視される者への行為」という正反対の印象を備えることになってしまう。句意の、コンスタティヴ/パフォーマティヴの差異の、乖離。ここにおいて、本作は、明らかに散種のテクスチャを湛えており、詩がある。注意すべきは、詩は、コンスタティヴな句意から、あるいはパフォーマティヴな句意から発生しているのではなく、あくまでも「違い」から発生している、という点である。

なみおみの
なんぢきやりこの
からしうす

 『LOTUS』第7号(2006年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXIII」より。ひらがなに開かれた作品も、酒卷作品に多く見られる特徴のひとつである。かなに開かれた作品は、仮に視覚を用いて読むのであれば、視点の引っかかりを失っており、外形・輪郭からじっくりと、形状を知覚し、最終的に一字一句について知覚する、というプロセスを経させるものといえるだろう。このとき紛れ込むのが、いわば「表記的マラプロピズム(誤用語法)」ないし「表記的タイポグリセミア」である。タイポグリセミアは文章の表記について生じる認知上の現象であるから、「表記的」というのもおかしな言い方ではあるが。タイポグリセミアとは、たとえば「こんちには みさなん おんげき ですか」という文(単語の文字の順番が、「正しい」ものとは異なっている)を目にしたとき、誤記(typo)があっても文意を推測できてしまう(場合によっては誤りに気づかない)現象である(文例は久保田・藤川・鈴木、2023、「タイポグリセミアを用いたMulti-model CAPTCHAの提案と評価」『産業応用工学会論文誌』vol.11, no.1より)。しかしながら、本作を読む体験において生じているのは、マラプロピズムでもタイポグリセミアでもなく、かつどちらでもある、という奇妙な事態であるように思われる。
 本作の、一行目《なみおみの》を、まず私は「おなもみの」と空目してしまった。おそらく酒卷氏であれば旧仮名遣いで「をなもみの」と書くだろうと推測できるにもかかわらず、である。俳句作品を読むという文脈に拘束されており、なおかつ《なみおみ》という語に親しみがないからだ。次いで、三行目《からしうす》を私は「からすうり」と空目してしまった。理由は同前。そうなると、二行目は何に空目させようとしているのだろうと、奇妙な詮索への、奇妙な誘惑にもかられる。「なんじゃもんじゃ」だろうか。いや、「空目させようとしている」というのは勝手な決めつけであって、こうした誘惑は倒錯的なものだが。空目、つまり別の語に見間違える、という事態は、マラプロピズムの機序に似ているが、アナグラム的に文字を入れ替えることで空目する、という事態は、タイポグリセミアの機序に似ている。
 ひとまず、本作のコンスタティヴな「句意」をパラフレーズしておこう。「水死したあなたは、三色斑(calico)の鮒(Carassius)(つまり金魚)であることよ」となるだろうか。《なみおみ》つまり「波臣」は、「はしん」と音読みで読むことが通例(?)であるようだが(人名においては宰相花波臣〔さいしょうかなみおみ〕、氏族名においては高志之利波臣〔こしのとなみのおみ〕と訓読みする例がある)、水中に君臣関係を投影して、魚類のこと、転じて水死者を意味するようだ。《きやりこ》つまり「キャリコ」は三色斑の模様のことで、とくに金魚について言う(「キャリコ 金魚」のフレーズで画像検索されたし)。《からしうす》つまり「Carassius」はフナ属の学名。
 弔句とも読める。また、水死者と金魚を重ね合わせることは、エズラ・パウンドが荒木田守武の発句に見出した重置法(super-position)が採用されている、とも読める。しかし、もしそれだけなら、三行目は「きんぎよかな」であってもよかったはずだ……いや、そもそもひらがなに開かれる必要もなかったはずだ……などとも思わせる。《なみおみ》を「おなもみ」と空目したのは私の粗忽によるものに過ぎないかもしれず、「作者の意図」は《からしうす》の語によって無関係の「芥子」「臼」のイメージを立ち上げさせる点にあるのかもしれない。ポイントは、読者は必ず空目するわけではないし、必ず単語の音から無関係のイメージを立ち上げるわけではない、という点だ。ここに、酒卷氏の「賭け」を見出さざるをえない。

夢よりの
根深を抽くや
夢のあと
 『LOTUS』第8号(2007年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXV」より。一読して、永田耕衣の《夢の世に葱を作りて寂しさよ》、および芭蕉の《夏草や兵どもが夢の跡》との間テクスト関係・テクスト参照関係に気づく。《根深》は長葱のことだろう。《あと》を「後」と読めば(まずは、そう読める)「夢から育ってきた長葱を、夢から覚めたいま、抽いてみる」となるだろうか。この第一の印象、第一の読み自体、奇想と言えて、面白みがある。耕衣句の《夢の世》が、「夢のように儚い此の世」とも、じっさいに語り手が睡眠中に見ている「夢の中」とも読めるのに対して、この読みにおいては「夢とうつつ」が区別され、かつ、《根深》がその区別を越境している。否、《抽く》という行為が越境しているのかもしれない。詩嚢としての《》から、詩のエッセンスを抽出しようとしている、と読めば、詩人の営みを詠んでいるとも読める。いまの世はもはや(耕衣の時代と違って)《夢のあと》である、と読むなら、現代・現在の俳句への批評にもなるだろう。
 俳句批評のラインでの読みを促すのは、芭蕉句を想定するからでもある。つまり《あと》を「跡」と読む可能性、である。芭蕉句の《兵どもが夢》は、藤原三代、もしくは義経主従の《兵ども》が功名の《》を見た、と読む説と、語り手の《》のなかに義経たちが現れた、と読む説とがあるらしいのだが、いずれにしても《夏草》の土地が、《》であろう。本作に反照させれば、文学の夢、文学に対して抱かれていた《》が、いまとなっては《あと》(跡形)である(あるいは「跡形」もないのだろうか)、とも読める。とはいえ、「諦念」「嘆き」と読んでしまうことには、違和感が残る。本作で語り手は《抽く》行為をしているからだ。抽いた結果、どうであったかは、語られないにしても。
 私なりの、少々つっこんだ読みを試みるなら、《》とは(山本健吉が耕衣句に対して読んだように)「夢のように儚い此の世」であり、《夢のあと》とは死後である、とも読めるかもしれない。違うかもしれない。書かれてあることからは、いずれとも判断はできない。このとき、ここにあるのが「夢とうつつ」の区別であるのか、「生前と死後」の区別であるのか、不定となる。この不定性において、私は本作を読みたい。

なはおびを
しぼればこたふ
あきのこゑ

 『LOTUS』第9号(2007年)「阿哆喇句祠亞 αταραξία XXVI」より。再び、ひらがなに開かれた作品。「縄帯を絞れば応ふ秋の声」と、「開かれ」を元に戻してみるなら、まずはコンスタティヴな「句意」が分かる。現代では縄帯は、洒落た、気軽な帯として用いられている。井原西鶴は『諸艶大鑑(好色二代男)』において、吝嗇そうな登場人物を《油屋の手代らしい、二十四五位の男が上がつて來たが、見ると柿染の布地の着物に繩帶を締め、縹色の木綿犢鼻褌が見え透いてゐるばかりか、懐の塵紙さへ汚らしくほの見えてゐる》(吉井勇現代語訳)と描いており、あまり「洒落た」感じはなかったのかもしれない。事典のたぐいには、はじめ遊女やあぶれ者が用い、のちに一般にも広まった、との記述もあり、時代によってニュアンスは異なるのだろう。ともあれ、着物の縄帯をキュッと絞ってみれば、キュッと応える、それが秋の声である――といったような、気風がいい東男のこざっぱりとした、小粋な一場面を描いた、まこと気持ちの良い作品である、ともなろう。なるほどクールジャパン。
 これをかなに開くことで、そうは読めなくなってしまう点が面白い。「まこと気持ちの良い」句意をもたせるだけならば、かなに開く必要はないのだから。もちろん三行表記の効果もあるだろう。縄帯は、かつては村八分の制裁に用いられるなど、残酷な含意が籠った物件である(茜頭巾なども同様に用いられた)。目に見えるスティグマとして、マークとして用いられたのだ。これを前提とすれば、本作品がほのめかしている事態(昨今の流行語でいえば「匂わせ」)も、言わずもがな、となる。ギュッとやれば、ギャッと応える。虐待の場面か、殺害の場面か、一度のことなのか、反復性のあることなのか、それは書かれていない。けれども、共同体の悪性を、つまびらかに描いている作品であろうと思う。本作が傑出しているのは「開かれを元に戻し」たときの句意(コンスタティヴな句意)と、かなに開かれ、三行表記された際のほのめかし(パフォーマティヴな句意)とが、異なる、関連のない意味になるのではなく、表裏一体の、単一の現象を二つの角度から描いたものとして分岐するからである。この「単一の現象」を、ナショナリズムだとかエスノセントリズムだとか呼ぶことも可能ではあるにしても、人類が目下のりあげている暗礁は、文明の起源、「人間」がその名を負うことになった起源に関わっていることのように思われる。アドルノが『プリズメン』第一論文において提示したかの有名なテーゼは、「文化批判」からすでに「文明批判」へと一歩逸脱している(踏み込んでいる)と読むことも可能なのだ。

(つづく)




俳句時評173回 川柳時評(9) 川柳のさまざまな場 湊 圭伍

2023年10月28日 | 日記
 夏から秋にかけて、川柳に関する話題が多かった。今回はとりあえずそれらを列挙してみる。

①暮田真名「夢み」(『文學界』10月号の「巻頭表現」)

 まずは、暮田真名による「夢み」10句が、『文學界』10月号の「巻頭表現」として発表されたこと。ここでは10句中2句を引用する。

言いなりになって瑪瑙のアップリケ      暮田真名
急に栄えるなんてひどいね

 一般の商業文芸誌の巻頭に川柳が登場したことはこれまであったのだろうか。ともあれ、ベトベトしない軽みがある作風のこの作家がいまの川柳の先頭を走っていることは大きい。

②『アンソロジスト』vol.6「【特集】川柳アンソロジー みずうみ」

 季刊誌『アンソロジスト』vol.6の「【特集】川柳アンソロジー みずうみ」は、全ページの半分ほどを使った力のこもった特集。川柳作品としては、なかはられいこ、芳賀博子、八上桐子、北村幸子、佐藤みさ子の6人の実力派作家が20句連作を披露している。特に、川柳の新しい領域を静かに切り開いていく佐藤みさ子の作品が、狭い川柳の世界の外の人々の目に入ったことが素晴らしい。

ゆくえふめいのかおのはんぶん        佐藤みさ子
「足よゆくな」とさざなみの声

 刊行元の田畑書店は〈ポケット・アンソロジー〉 として、お気に入りの作品をファイルしていくという新しい文学の楽しみ方をとして提示している出版社で、〈現在〉の文学に敏感にアンテナを立てているこうしたメディアが文芸川柳を 大きくとりあげるのは久しぶりのことだろう。
(noteにこの特集の鑑賞記事を書いたので、ご一読ください。
 「川柳とは何か―《川柳アンソロジー みずうみ》(『アンソロジスト』vol.6 より)」
 https://note.com/umiumasenryu/n/nfb097566a0dd
 また、この特集のスピンオフ企画として、ネット上で活動している川柳作家に呼びかけて開催した「#川柳みずうみ連作 大会」に集まった作品がこちら。
 「「#川柳みずうみ連作 大会」エントリー作品まとめ、および、〈みずうみ〉大賞投票」
 https://note.com/umiumasenryu/n/ndcf679433b10
 この特集は『アンソロジスト』vol.6としてだけではなく、ポケット・アンソロジーの作品リフィルセット《川柳アンソロジー みずうみ》としても購入可能なので、みのがした人はこちらからどうぞ。
 「作品リフィルセット《川柳アンソロジー みずうみ》」
 https://tabatashoten.thebase.in/items/78201255

③まつりぺきん編『川柳EXPO: 投稿連作川柳アンソロジー』

 いま全国の小書店で売れているのが、まつりぺきん編『川柳EXPO: 投稿連作川柳アンソロジー』。川柳作家まつりぺきんの呼びかけで、各作家が20句を寄稿、作品募集から2,3ヶ月というスピードで出版された。誰でも参加可能、ベテランもほぼ初めて川柳を書いたという人も完全にフラットな扱いで並べられ、出版後のTwitter(X)でのコメントや朗読投稿(#川柳EXPO)でも盛り上がった。1000句以上入ったアンソロジーだが、そのうち数句を紹介しておく。

道も違うしドライアイスのことでもない       おかもとかも
ぬめぬめの肌 めぬめぬの樹木葬          林やは
チャンピオンベルトは縦に切ってくれ         西沢葉火
コピーしといてと風船の束渡される         佐藤移送
手を下げる。夏を終わりにするために。       下城陽介

もうこの街と呼ぶには回りすぎた。
俺様は言つた尻の斑に嵌つた脱力のエスカレータ拭き
 ササキリユウイチ
 *二行の長律作品
三角に切って西瓜をはじめます           上崎
どの海もつながっているという嘘          下野みかも
また雨でミシンを棄てる日が延びる         小原由佳
棒人間不可避                   栫伸太郎
半減期に抗いたいんだよろしくね           雨月茄子春
停戦をラインに沿って切り取った          城崎ララ
お祭りで風を買ってもすぐ失くす          小橋稜太

 数句、と書いたのに、引いていたら多くなってしまった。好句が多い。連作として仕掛けがある20句もあるので、ぜひ手にとっていただきたい。Amazonでも購入可能。
https://www.amazon.co.jp/-/en/%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A%E3%81%BA%E3%81%8D%E3%82%93/dp/B0CF4LKW96/ref=sr_1_1?crid=ZOEL5BRRE2HY&keywords=%E5%B7%9D%E6%9F%B3Expo&qid=1698416571&sprefix=%E5%B7%9D%E6%9F%B3expo%2Caps%2C162&sr=8-1
(こちらの感想もnoteにまとめたので、以下をご参照ください。
 「『川柳EXPO』感想まとめ」
 https://note.com/umiumasenryu/n/n83a5106c10a4

④オンデマンド句集―雪上牡丹餅『降ってきたリンゴ』『川柳・ジュニーク句集 摘んできたいちご』、成瀬悠『川柳句集 序章あるいは序説もしくは序論』

 いま、Amazonでも購入可能、と書いたが、『川柳EXPO』は元々オンデマンド出版、Amazonでの販売が軸ではある。同様のかたちで川柳句集を作る試みも出てきている。雪上牡丹餅は第一句集を『降ってきたリンゴ』で出版して、すぐに第二詩集『川柳・ジュニーク句集 摘んできたいちご』を発表、成瀬悠も『川柳句集 序章あるいは序説もしくは序論』で続いた。

スマホからお知らせしますここ地獄          雪上牡丹餅『摘んできたいちご』より
この川柳はおとりなんだよ
てやんでえTシャツじゃねえ丁シャツだ
暗転しコオロギだけが粉となる            成瀬悠『序章あるいは序説もしくは序論』より
片耳を見られないよう泳ぎ切る
トーストを読み込むだけの白昼夢


 川柳作家は従来、句集を作ることに対して腰が重いところがあったが、それも簡便でスピーディな出版方法の登場で変わっていきそうだ。

⑤文学フリマでの販売―ササキリユウイチ『飽くなき予報』、南雲ゆゆ『姉の胚』、森砂季『プニヨンマ』、他

 こちらはこの記事を書いている時点では未来の話になるが、④のような簡便な装丁ではなく、ただし従来の自費出版とは違い、独自にこだわった造本で句集をつくり、文学フリマや個人通販で読者を見つけようとする動きもある。ササキリユウイチ『飽くなき予報』、南雲ゆゆ『姉の胚』、森砂季『プニヨンマ』、他、小野寺里穂も句集を準備中とのこと。11月11日、東京流通センターで開催の「文学フリマ東京37」では、川柳関連のブースにも注目していただきたい。

⑥月波与生・真島久美子『いちご畑とペニー・レイン』

 ④であげた雪上牡丹餅『川柳・ジュニーク句集 摘んできたいちご』は、西沢葉火考案の「ジュニーク」(7音+5音もしくは5音+7音の12音からなる形式)をフィーチャーした句集で、この「ジュニーク」に見られるように現在の川柳ではもっと新しい試みをやろう!という機運が高まっている。月波与生と真島久美子による『いちご畑とペニー・レイン』は、短歌で考案された「いちご摘み」(前の歌・句の一語をとって次の語をつけてつないでゆく)を川柳で試み、一冊にまとめたものである。川柳大会で鳴らした実力派作家2人だけあって、個々の句にも面白いものが多いが、連句的な、あるいは連句がむしろ避けるような句と句のつながりからくる楽しみも多い作品集になっている。川柳の提示の仕方として、これをさらに洗練させてゆくというのもありそうだがどうだろう。

⑦地域の川柳句会・大会

 以上は、これまで川柳がとりあげられなかった一般文芸商業誌、また、ネットや文学フリマ、オンデマンド出版など、川柳としては新しい媒体を活用した作品発表である。一方で、新型コロナウイルスでの自粛を切り上げて、対面型の川柳大会を再開する動きが出てきている。上であげた多くの作家たちが、2020年10月出版の小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)や、暮田真名がしかけた「川柳句会こんとん」(2021年10月1日から11月30日に、川柳初心者限定で投句を募集)以降に川柳を書き始めている。こうした作家は、従来の川柳の発表機会である川柳句会や川柳大会をまったく知らない(ただ、そもそも新型コロナウイルス自粛がなかったとしても、こうした作家たちが従来型の川柳の集まりに参加したとは到底思えないが……)。

 従来の川柳界での作品発表の主流は、〈伝統川柳〉(この説明をすると長くなってしまうので今回は省略)を中心とした句会や大会である。それぞれの地域の川柳会が運営を担いながら、全国のネットワークもあり、人気選者(例えば上に名前が出た真島久美子)は全国を飛び回りながら選を行っている。筆者は幸いこの世界にも選者として呼んでいただいたりして参加することがあり、今年7月22日に松山で開かれた「川柳まつやま 一朶の雲川柳大会」で、真島らと並んで選者をつとめさせていただいた。松山の川柳作家・松木慎吾がこの大会の様子をブログにくわしく書かれている。川柳大会の様子を知るのにぴったりの記事だと思うのでリンクを張らせていただく。
(松木慎吾ブログより、「第74回一朶の雲川柳大会開催される」
https://blog.goo.ne.jp/viviyori/e/361a1f09916b999de0b26766074e9bb0
 最近では川柳でも俳句と同じ互選、相互批評・コメント形式での句会が行われることが増えているが、従来型の「選者選」(選者が投句の中から指定された割合の句を選び、それを読み上げていく)がまだまだ主流である。松山では、11月3日に「愛媛県民総合文化祭・川柳大会」が開かれるが、こうした長年の地域での地道な活動を基盤にし、自治体の援助を受けるなどしてきた大会開催と、上で紹介した自分たちでメディアを開拓していくような新しい動きのあいだには、さまざまな意味で断絶がある。

 さまざまな場での川柳活動、川柳作品発表が以降、どのように交錯するか、もしくはこのままそれぞれの道を歩んでいくのか。それぞれの場での川柳を楽しみながら、たまには真面目に川柳ジャンルの広がりと、バラバラさ加減についても考える必要があるなと思う。

俳句評 俳句の鳩は十二季を飛ぶか?(俳句と川柳と短歌における語彙の比較) 沼谷 香澄

2023年10月24日 | 日記
 2023年に入って、俳句と川柳の実作を始めました。俳句は結社の会員になり、結社誌に句稿を出し、吟行やオンライン句会に実作を出しています。川柳は教室に通って一か月に一回の指導を受けています。自分の手を動かしてみて、できたものに対する意見や指導をもらいながらの形をとったおかげで、やはり予想しなかった気づきがありました。

●語に含ませる時空的なものの小さい順から大きい順に、川柳→俳句→短歌 となる。

同じ単語が、3詩形でどのように使い分けられているかを探ってみたいと思いました。

(1)シンギュラリティ(→失敗)

 最初に思いついたのが「シンギュラリティ」。技術的特異点と訳されて、物理学やITのジャンルで最近よく聞く言葉です。

白菜と鶏の水炊き シンギュラリティ                   暮田真名『補遺』2019
チョコワから真顔でこっちを覗いてるシンギュラリティ後のシンギュラリティ 榊󠄀原紘『セーブデータ』2021

 川柳と短歌です。どちらも食べ物とシンギュラリティが組み合わされていますが、この作者、お二人は一緒に活動されることも多い方たちなので、もしかしたらこれは偶然ではないのかもしれません。
 そして、俳句には、見つかりませんでした。人間側から見て結構思うところのある語だと思ったのですが。あと、ゆっくり読めば中七、早く読めば下五に収まる、使いやすい語だとも思ったのですが。ちなみに「シンギュラリティを使った俳句」でググると、AIが作ったという俳句が大雨のあとの側溝のように流れていって辟易しました。
 せっかくなので少しだけ鑑賞しますと、川柳の方は、読み終えてこれからこのシンギュラリティ(の語)に何をさせようかなと心が動き、短歌の方は、このシンギュラリティはここで何をしているのだろうと考えるかなと思いました。読後、すでに持っている情報量が、詩形の長さに比例しています。

(2)こおろぎ(→失敗)

 つぎに、「こおろぎ(こほろぎ、蟋蟀)」という語を使った作品を探してみました。

こおろぎを支配しすべて裏返す                     平岡直子『Ladies and』2022
こほろぎのこの一徹の貌を見よ                     山口青邨『庭にて』1955
同じをどこまでも鳴く蟋蟀こおろぎのわれのねむりにはぐれてゆきぬ       吉川宏志「叡電のほとり」2023.10.10

 なんとか三詩形そろいましたが、現代俳句に見つからないことに驚きました。私の持っている数少ない俳句関連の雑誌や句集には、なかったのです。、なかったのです。山口青邨の句はググって見つけました。掲載句が強すぎて、この句の後にチャレンジする人がいなくなってしまったと推測します。コオロギは堂々たる季語(三秋)ですが、あの姿かたちであの声(いや音)なのでいろいろと詩情を呼ぶと思ったのですが。これは困ったぞと思いました。
 ちなみに吉川さんの短歌はふらんす堂のウェブサイト連載記事からなので、新作だと思います。余談ですが、虫とボーカロイドは、歌うのに呼吸を使わないので、いくらでも伸ばせます。ずるいですね。
 平岡さんの川柳にいるこおろぎは、鳴いておらず、小さく無力な虫の代表としておかれているようです。山口青邨の俳句にいるこほろぎは、接写レンズ的な主体の目(というかにらみつける心情)を通して描かれています。吉川さんの歌の蟋蟀は、声だけが続く存在として限定されています。コオロギのビジュアルを思わせないので歌が美しいです。

(3)鳩

 次は「鳩」にチャレンジです。

母笑う鳩や汽笛をこぼしつつ                      なかはられいこ『くちびるにウエハース』2022
こんなときだけど鳩の脚ピンク 
鯉が来て鳩が来て広東語をしゃべる

よく動く駱駝の顎と鳩の首
一茶忌の朝日の橋を渡る鳩                       佐藤文香『菊は雪』2021
ふくらむ鳩アコーディオンの襞に塵
風に色なし像に聴衆めく鳩ら
微笑んでゐるのは春の三鷹駅けんけんぱつと鳩がゆきたり         睦月都『Dance with the invisibles』2023
白い鳩売るこの店の顧客名簿マジシャン含有率高し            田中有芽子『私(わたくし)は日本狼アレルギーかもしれないがもうわからない』2023
長閑のどやかな朝鳩達が車体ぎりぎりをるチキンレースをやめない

 鳩は少し句集歌集をめくったら出てきました。鳥は花鳥風月のメンバーで、鳥である鳩は、季節にあまり結びつかない、また、身近である故に好まれも嫌われもする微妙な立ち位置の生き物だと思います。
 なかはらさんの川柳句集には鳩の句が四句ありました。引用一句目がよいサンプルになると思います。これ、お母さんが、鳩や汽笛をこぼしながら笑っている、と私は読んだのですが、つまり、鳩は笑い声の比喩として使われているだけです。が、お母さんの笑う姿が周りに作り出す空気になにかすさまじいものを感じることができるのではないでしょうか。
 佐藤さんの俳句句集における鳩は、川柳の時のような道具としての単語ではなく、生きて動いている鳩としてそこにあり、その鳩をみている主体(人間)のまなざしを感じます。
 短歌の鳩は、探せばいくらでも出てきますが、最近の歌集から二人の作品を選びました。特に考えず、対極の作風と思って2歌集を選びましたが、睦月さんと田中さんは同じかばんの所属でした。改めてかばんの会の懐の深さ(または底知れなさ)を感じます。現代短歌の場合、そこで鳩が描写されても、実景とは限らないし、主体が心情的に寄り添っているとも限りません。
 睦月さんの作品において鳩は、春の三鷹駅前に置かれて目立つ演技をしていますが、読者がその鳩という語の意味や役割について、妄想をたくましくする余地はそれほど残っていないです。田中さんの一首目も同様で、というかさらに拘束度は上がっていて、手品用に店で売られる鳩の話になっています。二首目、ガラス窓や車にぶつかって死んでいく鳩は本当に多いので勘弁してほしいですが、ここの鳩たちも、初句の「長閑やかな」をひっくり返す役目を担っています。
 このように、川柳から俳句へ、短歌へと、詩形が長くなるにつれて、言葉が多く使われる分、抱える文脈が増えて、語の自由度と言うか解釈の余地が小さくなっていきます。理屈で考えてもその通りなのですが、短歌を作り慣れている身から、いざ俳句や川柳を、とやってみるときに、語に何を負わせるかが本当に違うのだなあと感じた次第です。

●まとめ 詩形が短いほど、強い語彙の選択が可能である。

 短歌は作者の生きる姿勢にまで影響すると言われ、それに反発する気持ちを持って創作する人は少なくないと思います(私もそのひとりです)が、文が書けてしまう長さで詩を書こうとすると、きちんとした物言いが求められるのかなと想像します。いえ、分別くさい文体をよしとするわけではありません。自分の内心に正直でないことは書きにくい傾向があるという意味です。

 俳句は、短くて文が書けるほどではないですが、川柳よりも芸術性が高いという位置づけで(発句の性質を踏襲しているため)、ということは、作者の美意識を載せることになるので、やはりあまり変なことは言えない感じです。しつこいようですがこれも客観的に言って荒唐無稽なことが言えないという意味ではなく、自分の美意識から外れたことは自分の名前を付けて発表しにくいというニュアンスだと取ってください。

 そして川柳は一番実験性を高めることができるように感じています。連句における平句がどういうものであるか考えると、そこまで巻かれてきた流れを受けて、季戻りや打越を避けて、句去りに配慮して、読んで面白いものを書く、というのは、パズルともゲームとも近いものがあります。いま目の前にあるこの場所にこのような言葉を置くことができるという提案は、間違いなく自分が行ったものですが、可能性の提案に作者の署名が付いた、という以上の詮索(詮索)は控えられると言っていいと思うのです。

 それで語彙の強さと今言ったことの何が関係しているのかと言いますと、短歌→俳句→川柳の順で、後ろの方が、より思い切った語彙の選択が可能になる、と私は感じています。責任、というのはあまり嬉しい言葉ではありませんが、使った語彙に対する責任の重さが、後ろに行くほど軽くなるという感じです。その軽さを使って、言葉に思い切った冒険をさせてあげられる。いま短歌・俳句・川柳の微差をみてきましたが、これが、短詩全般の実作のだいご味といえるかもしれません。


*引用作末尾の西暦年は句集・歌集の刊行年です。

俳句時評172回 令和の旅俳句ブームの可能性 谷村 行海 

2023年10月03日 | 日記
 短歌ブームというのはずいぶんと前から聞く言葉だ。軽く調べてみても、2015年12月22日にはNHKの情報番組「あさイチ」で短歌ブームが取り上げられていることがわかった。そして、その短歌ブームはコロナ禍を経てメディアで取り上げられる機会が加速した。ネットで短歌ブームと検索すると多数の記事が出てくる。そうした短歌ブームの記事では、その多くがSNS(特にX、旧Twitter)と短歌との関係性にふれており、そして、そこでは共感性という言葉が1つのキーワードのように繰り返し用いられている。
 だが、そうした短歌ブームというものを目にする・耳にするたび、ブーム自体の良し悪しはあるにせよ、俳句ではなぜそうしたSNSによるブームは起きないのか、そもそも俳句はSNSでブームになってはいないのかというものが疑問に感じられてしまう。
 そんなことを思っている折、『AERA』は 2023年10月2日号より、「SNSの短歌ブーム、なぜ俳句ではないのか? 短歌にあって俳句にないものとは」と題した記事(https://dot.asahi.com/articles/-/202223)を9月26日にウェブ上で公開した。詳細は元の記事を参照していただきたいが、記事の中で俳句と短歌の違いとして挙げられていたものを要約して挙げると次の通りになる。

①俳句では添削という行為が成り立ちやすく、そこに先生と生徒という上下関係が生まれる。
②俳句は芸術としての完成度を求め、短歌は他人に対する共感を求めて作られる。
③俳句には文語を使用したものが多く、また、七七がないことから、作者の思いは読者に汲み取ってもらう必要がある。
④俳句は人間ではなくもっと大きなものを詠むため、「私」はなくてもいい。

 これら4点のうち、短歌ブームの要因として取り上げられやすい共感性に強くかかわってきそうなものは③だろう。①は添削という行為を望むかどうかという作者の気持ちの持ちように関係しており、添削という行為を一切無視して俳句を作り続けることは可能であるし、また、短歌であっても添削を望む人はいることだろう。また②は、そのように大きくまとめてしまってもよいのかという疑問があり、④は作句姿勢に関係するため、「私」を前面に押し出して句を作りたいという態度もあることから、SNSにおけるブームとは別種のものとして除外しておく。したがって、俳句ブームが起きるためには③が重要に感じられる。
 元の記事を読んだ時、私自身③については納得する部分が大きかった。例えば助詞の「の」であれば、それが主格なのか連体格なのかを読み取ることができなければ、句の解釈が大きく変容してしまう恐れがある。また、俳句はものに仮託された思いを季語の知識等から読む必要もあり、一読して意味を解釈しきれない難解なものもよく目にする。だが、文字情報だけではその意を汲み取ることができなかったとしても、それが良いか悪いかは別として、その補足情報として写真を添付するなど工夫を凝らせば思いをより多くの人に伝えやすくすることは可能であろう。そう考えると、短歌ブームで取り上げられやすいXよりも、Instagramであれば俳句との相性は悪くない気がする。
 このように、俳句にも俳句ブームは起きてもおかしくないように思える。
 だが、仮にブームが起きた場合、そもそもそれが良いことか悪いことかを考えることは重要なことだ。共感性を求めることを否定しているわけではないのだが、より多くの人の共感を呼んだ作品が良い作品であるとは限らないだろう。また、その共感性というものを求めていくと、個々の作品に共鳴した人々が一か所に集う可能性もある。その場合、共感できない作品は切り捨てられてしまうという事態が起きかねず、それはなんだか勿体なく、また怖いことのように思える。
 何かの拍子にSNSでの俳句ブームが起きる可能性は十分あり得ることだと私は思うのだが、それが起きた時に何を考えなければいけないか。それが最も大切なことではないだろうか。