本年度の多行俳句時評の担当となることを、当初、固くお断りしていたのですが、その、いくつかある理由のひとつは、たんじゅんに自分がふさわしい書き手だとは思われなかったからです。このときに想定した、「ふさわしい」書き手とは、多行俳句の現状が広く見えている俳人(言い換えれば専門家)か、「俳句図書館」のたぐいへのアクセスのよい人物か、ということになります。広く見えているか、広く見ようと思えば見ることができるか。で、結局のところ引き受けてしまったわけですが(僕が引き受けなければならない、という事実をもって、多行俳句が置かれている現状、というよりもむしろ俳句という営みの本邦における現状が、うっすらと透けて見えるのではないかと思います)、引き受けたからにはやってみたい試みというものはあり、それは、「いわゆる多行俳句」の本流、からは距離がある多行俳句を読んでみる、という試みであります。具体的には、「多行俳句の作家」とはみなされていない作家や、そもそも俳句に強くコミットしているかどうかにかかわらずカジュアルに多行も書く人物の多行作品、ということになります。
いま、「いわゆる多行俳句の本流」と書いてみて、ずいぶんつらいことを考えたものだな、と思うのですが、というのも、僕がこう述べたときに想定している「本流」とは、高柳重信、林佳、大岡頌司、酒卷英一郞、と名前を挙げて、もうこのあたりで「あれ、他に誰がいたっけ」となってしまい、若手で外山一機、亡くなったけれど木村リュウジ、ぐらいは思いつくものの、やはり広く見えていないために、どのあたりまでを「多行の本流」と考えればよいのか、正直よく分からないわけです。
今回とりあげようと思っているのは、沙羅冬笛の『靴の底』(四季出版、1988年)という句集なのですが、この句集における「多行表記」は、著者のことばによれば《故高橋由紀夫先生の句集『玩具のない家』(1968年)の体裁を踏襲したもの》とのことで、いわば高橋由紀夫に私淑(同じ「青玄」の同人ではありますが)したうえでの「多行」ということになります。このとき、高橋由紀夫の俳句が「多行界隈」でどう受け止められたのかとか、どのような経緯で高橋は多行を試みたのかとか、つまり「本流」なのか、その外なのか、というはなしになると、僕にはまったく不案内な領域になってしまい、うかつには何も言えない、ということになってしまいます。
そうしたことを投げ捨てて、ともあれ、『靴の底』に言及していきたいと思います。たまたま本棚にあって、たまたま多行俳句が掲載されていたから、というのが、この句集をとりあげる動機です。
句集の略歴によれば、沙羅冬笛は1942年神戸生まれ、「青玄」「海程」の同人。「海程創刊50周年アンソロジー・物故同人」に名前があることから判断すると、(海程創刊50周年だった)2012年の時点ではすでに亡くなっているようです。
目次は
序・伊丹三樹彦
靴の底(128句)
Exercise 1. 素子モノローグ(20句)
Exercise 2. 照葉樹林(26句)
あとがき
となっていて、このうち「靴の底」の128句が(三行で書かれた)多行俳句、ということになるのですが、じつは「素子モノローグ」の20句も、二行で書かれた多行俳句になっています。ただし、多行か否かというのとはまた別のコンセプトを備えた、独特の連作です。もしかしたら脱線になるかもしれませんが、個人的にここが面白いと思うので、紹介したいと思います。「Exercise 1. 素子モノローグ」の冒頭に置かれた、著者のことばを丸ごと引いておきます。
俳句誌『青玄』にはかつて単に現代語ではなく、現代の話しことばを駆使してすばらしい青春俳句を残した若者たちがいました。1960年代後半以後の複雑な状況のなかでこの系譜はいったんかげをひそめたようです。しかし、新井素子の小説『星へ行く船』や俵万智の歌集『サラダ記念日』のように、他のジャンルでは、話しことばによって現代を表現するというアプローチが続けられていますし、最近『青玄』にも松本恭子というすぐれた書き手が現れています。以下の20句は、話しことばを駆使したら俳句にどんな可能性があるか、を考えるための作者なりの実験です。内容は新井素子の小説や身辺の会話にヒントを得たフィクションにすぎません。
このまえがきを読んで分かるように、「素子モノローグ」の「素子」とは、新井素子(もとこ)のことであって「そし」ではないようです。本句集の出版は1988(昭和63)年、つまり昭和末期(翌1989年の1月に、平成へと改元)のことです。当時、僕は中学生でしたが、「新井素子」という固有名に、ウッとさせられるところがあります。夏休みに町の駅前の書店へ、コバルト文庫の新井素子を、一日一冊ずつ、買いに出かけていた思い出があります。こんな小さな町でも、団塊の世代が住宅を建て、われわれ団塊ジュニアを生み育て、巨大な消費を作っていた時代なので、個人経営の書店も成立していたわけです。いまでは町が一個のターミナルケア施設のようなものになってしまっていますが、本邦の縮図のようなものです。新井素子の名前は、『Fanroad』とか『月刊OUT』とかの「その手の雑誌」で知ったのだと思います。真っ黒な歴史です。
話が逸れました。いくつか作品を引こうと思います。
さびしいとか
そーゆーんじゃなくて さ 秋は
んでもってボトル空けちゃった
(って あのね!)
(そのまま抱かれていた訳?
うっそだあ!)
彼が……ううん
あたしも好きよ 谷村新司
あたしの下手なウィンクで喜ぶなっ!
つうの
♡風がはこんだ物語♡って
ホテルなの? アハ……
やさしい嗚咽……?
あたし フルーツパフェ食べたい
いまの若い人は知らないだろうと思うのですが(いや、いまでも新井素子の著作は、昔のものも含めて売れているようなので、分かるのかもしれませんが)、「確かに当時の新井素子の文体はこんなだった」という強い印象を与える作品群です。
詩的に高く評価するか否かはともかく、奇妙な面白みがあります。「滑稽」というのでもない。「この句には滑稽味がある」と述べるとき、その読者も、作品の語り手も、完全なとは言わないまでも、作品が創出する世界への、一定の没入、一定の真面目なコミットメントがあるのではないかと思います。が、ここにあるのは非コミットメントの感覚(あるいは再帰性を強いてくる感覚)であるように感じます。もちろん「俳句に『好きよ』だの『つうの』だの書いて、馬鹿じゃないのか」と思ってもよいのかもしれませんが、そうした(サルトルのいう)「くそ真面目な精神(esprit de sérieux)」を拒むニュアンスに満ちている。例えるなら、小説の登場人物の胸中の描写のようでもある(小説の主人公や登場人物が愚かであるときに、「愚かな小説だ」とは、ふつうは思わない)。現代アート、例えばエルヴィン・ヴルムの作品群に接するときのような、奇妙に居心地の悪い感じ、といえばよいでしょうか。先に「詩的に高く評価するか否かはともかく」と述べましたが、ヴルムは少なくとも評価されているわけで、評価の文脈の設定に依存するのだろうと思われます。そして、現代の本邦の俳句の状況は、そこまで成熟していない、ということになるだろうと思います。
もう一点、ここに感じられるのは、「強度としての話しことば」の感触です。われわれが「これは話しことばで書かれている」というときに、そこに書かれているのは、人々がじっさいに日常的に口から漏らした言葉を、一言一句、テープ起こしをしたかのように書き起こしたものではなく(そうしたものは、厳密には不可能なものです。「口から漏らした言葉」を「内心」と言い換えても同じです)、「話しことばらしさ」の感覚を強く与えるように作られた言葉です。難しくいえば「話しことばのシミュラクル」ということになります。「らしさ」を強めるために用いられるのが、修辞なのだと思います。より強く「らしさ」を感じさせることに、新井素子は長けていたのでしょうし、それを沙羅冬笛はかなり上手くトレースしているように思います。もしも「ハリー・ポッターの翻訳も真っ青の、ジェンダー化された文末詞に満ちている」と批判するとするなら、「強度」がキーワードになるかもしれません。
ついでに、と言っては失礼になりますが、「Exercise 2. 照葉樹林」からも数句引いておこうと思います。
酔芙蓉わが体臭のうちで睡る
十三夜かの胎内のみづけむり
柿熟れてをり火消し壺濡れてをり
かなしみをかくす帽子なり無地なり
禿頭を粉雪滑るは猥褻なり
ふつうに上手く、好ましい俳句だと思います。おそらく僕は、「俳句検索」のたぐいで、こうした俳句を好ましく思い、名前もまったく知らなかったこの俳人の句集を、古本で買い求めたのだろうと思うのですが、いきさつは忘れてしまいました。
前置きが長くなりましたが、「靴の底」から引いて、読んでみたいと思います。「靴の底」はすべてが縦書きの三行表記となっているのですが、上端揃えのものと下端揃えのものとがあります。上端揃えのばあい、ここで(横書きに変換されますが)再現できますが、下端揃えのばあい、表示が崩れるだろうと思います。一文字目が揃っていないばあい、下端揃えの作品だと思ってください。
鳶の輪までの
円錐空間も
初夏だ
一羽の《鳶》が、空に《輪》を描いている。この《鳶》を頂点とした《円錐空間》が、空間内に見出される。頂点は円を描いているから、《円錐》は(斜円錐として)ぐるぐると回り続けている。そのような《初夏》の景だ、ということなのだと思います。初読、《鳶の輪》で円錐を切断したような、円錐台を想起してしまったのですが、もしかしたらそれでも間違ってはいないのかもしれません。ともかくこの空間把握が、よいと思います。《鳶の輪》ときたら、僕などは円柱だとか螺旋だとか、なにか簡単な図形をそこに見出してしまいそうになりますが、《円錐》を発見する、というよりどうしてもそれが見えてきてしまう、その目の力に感心させられます。
《も》というからには、他のなにかも《初夏》であるのでしょう。まずはこの《円錐空間》の外側が、《初夏》なのでしょう。厳密に客観的に見るならば、すべての空間が《初夏》の空気に満ちていて、その一部に、《円錐空間》があり、当然のこととして、その内部も《初夏》だ、ということになるのかもしれません。語り手の体験としては、「初夏だなあ」という感慨があり、《鳶》を発見し、《円錐空間》を発見し、「その内側の空間も初夏だなあ」となるはずです。しかし、作品を読む体験は、この順番には、必ずしも、ならない。作品から読みの体験領域に《円錐空間》を与えられ、この立体図形からにじみ出るように、空間全体が《初夏》となってゆく。もうひとつ、本作の優れている点は、明確には記述されていない、《円錐》の底面が強く把握されている点だと思います。万物が動きはじめる春が過ぎ、大地が、空間全体の「動き」を支えている。《鳶の輪》の動きに合わせて、空間全体が回転運動をしている。そのような把握が、よろしさになっていると思います。
アーケードから
傘
奔放に拡散して
シンプルではありますが、《奔放》《拡散》という漢語の連続が、多数の人々の活動を、どこかメカニカルで、しかしそれゆえにダイナミックなものとしてうまく表現していると思います。ここで《傘》は「傘をもった人々」の換喩表現ですが、この修辞もまた、メカニカルな感触に貢献していると思います。
僕は本作を読むとき、ふたつの景を同時に体験します。ひとつは、雨の日の《アーケード》の出口を正面から捉え、無数の人々が《傘》をひらき、四方八方に散ってゆく、いわば水平のカメラアイ。もうひとつは、この景を上空から捉えた、垂直のカメラアイ。前者が生活世界に密着した情景だとすると、後者は観察対象を異化する情景と言えるでしょうか。この二重の体験が、奇妙な感触を手渡してきます。僕には、筒状の生物が、無数の幼生を産み散らしているように感じられます。メカニカルな表現・描き方に反して、どこか、ぬめりのようなものさえ描かれているように思います。
音無川
その夏草に
耳を埋め
日本中に《音無川》という名称の河川は存在するため(歌枕となっているものもあります)、ここでは特定する必要はないのかもしれません。じつはひとつ前の句に《白雲荘》という湯河原温泉の宿の名前があるため、神奈川県の湯河原町の《音無川》なのだろう、という推測は働くのですが、ここでは考えなくともよい気がします。《音無川》であるがゆえに不要となった《耳を埋め》という論理、ないし、《耳を埋め》たがゆえに《音無川》であるという論理が、少々駄洒落めいてはいるものの、あるいは句会用語でいえば「つきすぎている」ものの、ここでは「よいつき方」をしていると感じられます。ひどく穏当に、「河原の夏草に寝転んで、耳を澄ましている」と読んでもよいでしょうし、「殺人の証拠が残らぬように、ばらばらにした死体の一部を埋めている」と読んでもよいのかもしれません。しかしまずは、語り手がみずからの《耳》をなんらかの象徴的なやりかたで《埋め》たのだ、と読みたいところです。もうひとつ、個人的には、《音無川》が、その《耳を埋め》たのだ、と読みたくもなります。それゆえに《音無川》はみずからの音を聞くことができず、みずからの音を失ってしまったのだ、と。これはやや読みすぎかもしれません。
か
と見れば
男 おぼろを梳る
前述のように、沙羅冬笛は「青玄」の同人でした。ここでは「青玄」らしく、一字空け表記をも採用しています。とはいえ、目立つのは一字空けよりも、一行目の《か》という一文字ではないでしょうか。このひとつ前の句は《花に手を拍つ/凡庸な末路に/か》というものです(とても好きな一句ですが、内容がありすぎる気がしたので、読む対象からは外しました)。この三行目の《か》を受けての、《か》である、と読んでも、間違いではないでしょう。むしろ詩的流れとしては、かなりスムーズに、そう読めてしまう。しかしながら、前の句がなくとも、何かの動作・様子が《か》の前に省略されていると思えばよいのでしょう。「かと思えば」の《か》。
ここでは、《男》にはなんらかの動作・様子が見てとれたけれども、その動作・様子を変え、《おぼろを梳》りはじめた、というわけです。前の句を受けるなら、《花に手を拍》った《か/と見れば》ということになるかもしれないし、《おぼろ》を見つけた《か/と見れば》、《おぼろ》にみとれていた《か/と見れば》、ということかもしれない。もっと飛躍した省略を想定するなら、『古今和歌集』を受けての、「暮るる」《か/と見れば》かもしれない。いずれにせよ、髮に対して行うのが通例の《梳る》という動作を、《おぼろ》に対して行う、この《男》は、奇妙なことをしていると言えるのかもしれません。さはさりながら、《おぼろ》とは夜にみられる春の現象ですから(同じ現象が日中であれば「霞」と呼ばれます)、縁語の連関から、「男はぬばたまの夜闇の朧に、黒髪を見出したのだろうなあ」と読むことは比較的容易です。むろん、個人的には、黒髪を見出したのではなく「おぼろであるがゆえに梳るのだ」と読みたいところですが、ここでは個人的な「読みすぎ」は差し控えることにいたしましょう。