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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評191回 第70回角川俳句賞を読む    横井 来季

2025年01月14日 | 日記

 今回の角川俳句賞の受賞作・次作、佳作を鑑賞する。といっても、既に審査員による鑑賞の上で決まった受賞であるため、もし水を差してしまっていたら申し訳ない。それでは、まずは受賞作、若杉朋哉「熊ン蜂」を鑑賞する。



若杉朋哉「熊ン蜂」

 自然体を、自然体に表現していると感じた。選考では、句の配列を瑕疵としていたが、私としては、現実世界における四季の何気なさ(本当に、いつの間にか一周する)が表されていると思う。

 何気なさ、嫌みのなさが眼目の連作だが、裏返すと、毒にも薬にもならない印象に繋がるため、本作の受賞に消極的な対馬の感覚もわからなくなかった。小澤は本作を「一物仕立の復権に繋がる」と、評価しているが、一見、そうした大仰な評が適切な作品には見えない。

 一物仕立てといっても、例えば〈流れゆく大根の葉の早さかな/高浜虚子〉のような、鑑賞の幅を、個別→普遍へ移行できる象徴性を持たず、〈川を見るバナナの皮は手から落ち/高浜虚子〉のような、小さくまとまりつつも、諧謔性で読者を惹きつけるタイプの句がほとんどのためだろう。だから、作品が小さくまとまることを嫌い、鑑賞の幅を求める読者からすると、物足りなく感じるのだと思う。



をぢさんの声かと見れば春の鴨



 こういう種明かし的な諧謔の句が多かったように思う。低い声が聞こえてきて、そちらの方を見ると、取り残された鴨が鳴いていた、というだけの句。「をぢさん」という自然な言い方にも平易なものへの偏愛が見られる。



朝顔に近づいてみて微風あり



 仁平は、二物衝撃の句は二句しかなかったと言っていたが、こうした句を一物に含めればいくらでも作れる気がする(無論何が一物で何が二物かは鑑賞次第であり、掲句も一物として鑑賞することは可能であるが)。朝顔の颯爽とした感覚がよく表されていると思う。些細な発見のように演出しつつも技巧的な面があるように思った。





三橋五七「ヒーローショー」

 エンタメを意識している書き手のように思えた。俳句をエンタメとして面白く書こうとするならば、こうなるのであろうという書きぶりだった。



蜻蛉やヒーローショーの殴る蹴る



 健全なエンタメ性を感じ、笑った。蜻蛉という季語に助けられているというか、保険めいたものを感じなくはないけれども、「殴る蹴る」の勢いが面白い。群れた蜻蛉の中、いきおいよく殴られている。



輪ゴムぷと切れて建国記念の日

 破壊(輪ゴム)と創造(国)の対比という、基本的な手法をおさえた句である。輪ゴムがふいにちぎれるのを見て、ふと国の調和も、崩れてしまう感覚を覚えてしまったのだろう。





野城知里「螺子の箱」

 対馬が叙情性を評価していた作品。たしかに、感覚的な叙情性というところをかんじるところはある。偉そうな言い方になってしまって申し訳ないけれども、対馬が評価していた〈彫像の歩くかたちの焼野かな〉のような句を洗練させていき、自分の作風をもっと打ち出せばより良いものになるのではと感じた。



複製の土偶すべらか雹を聴く



 「雹を聴く」という下五がまさしく感覚的な叙情という感じがした。「すべらか」という触感と聴覚とを合わせてきた句である。雹という季語に「聴く」という動詞を合わせてきた点が、うまく言語化できないが、言語化できないところこそがおもしろいと思う。



整髪の手は首に触れ蜃気楼



 これも、作者の作風がよく表れている作品だと思う。こちらも感覚的な俳句である。どうして整髪の手が首に触れたか、どうしてそこから蜃気楼が発生したかはわからない。蜃気楼という季語の本意からはずれるだろうが、手が首に触れる妙な居心地の悪さを感じさせ、魅力的な使い方をしているように思った。





千野千佳「宝塚」

 華やかな軽さを感じさせる句が多かったように思う。「宝塚」という題名もそれを意図したものだろう。ユーモアのある連作で、回が違えば受賞していたようにも思う。



虚子の句のやうな句があり初句会



 私は、あまり句会には行かないのだが、納得感があった。「去年今年貫く棒の如きもの」のような句が出ているのか、文体が虚子風なのか。句の中で明かされているわけではないが、なんとなく、新年の雰囲気に乗せられて空回りをした句なのではと思う。主体の把握が面白い。



白菜の黒点ほどの物思ひ



 こちらも主体の把握がおもしろい句。大して重大な悩みではないのだろうが、それを白菜と重ねる点に、面白さがあった。



山口遼也「啄む」

 山口の作品は、〈にはとりの舌のみじかき時雨かな〉が特に好きだ。取り合わせを詠めば、絶妙な距離感の季語を持ってくることができ、一物で詠めば物体を面白く把握できる作者だと思う。ただ、今回は「人日や~」など、無理矢理な感覚をおぼえる句もあった。



働いて一日早し春の鴨



 共感する。新入社員だろう。大学では、一日の時間のほとんどを自分のための仕事に費やせるが、社会人になれば他人のために時間を費やすことになる。自分のために、という意識をもって働くことができれば、もう少しマシな一日を送れるのだろう。が、そうした意識をまだ持てていないことを、晩春に残っている鴨が象徴している。



描かねばならぬ揚羽と思ふなり



 仁平は、「持って回った言い方」と評価していたが、私はむしろこれほど直裁な句はないと思う。揚羽を見たときの感動、俳人としてのある種使命感をそのまま詠んだ句。





 垂水文弥「The bird crossed twilight moon」

 五〇句すべてを見ないことには連作としての評価は難しいが、作者がnoteに五〇句すべてを公開してくれているため、鑑賞する。

 なんとなく既視感のある句が散見するが、アンニュイな作風で五〇句かためており、いいと思う。



生きるのが下手で詩人で草の花(note)



 作者の詩に対するスタンスが、よく表れた句のように思う。詩人を理想化せず、生きるのが下手という、生物としては致命的な弱点を持った存在として書いている。単純に、社会に馴染めない、ということでなく、(たとえば向日葵のように)生のエネルギーを思い切り表出するのが下手なのだろう。草の花の何気なさ・地味な印象を詩人と重ねている。



瓶ビール犬もさびしいのだと知る

 



 動物の寂しさに思いを寄せる句。そういう思いを抱くこと自体は、誰にでもあることだろう。ただ、「のだと知る」の言い切りには、単なる共感や主体の投影をこえ、アルコールを媒介に、一生物として、犬の寂しさと交感している様子を描いていると感じた。





 他に、推薦作品一〇句抄にも、五〇句鑑賞したいと思う連作がたくさんあった。

 選考の中で対馬は、「全体では、粒が揃った、横並びの印象を受けてしま」ったということを述べている。

 その感覚については、わからなくはないけれども、だとすれば「非常に個性的な表現が目立つ作品」と評価する斉藤秀雄の「劈開」に点を入れ、議論の俎上に上げるべきだったと思う(結果として岸本が点を入れたため、話題に上がりはしたが)。

 また、垂水の他にも、作品五〇句すべて公開している作者がいたら、申し訳ない。

 最後に、今回で、俳句時評の私の連載は終了する。

 ご笑覧いただきどうもありがとうございました。


俳句時評190回 令和の酒俳句鑑賞 三倉 十月

2024年12月02日 | 日記

 酒を飲むのが好きだ。と、言うと何故かお酒が強いと思われがちなのだが、そんなことは全くない。上限はだいたい四杯。一杯目はできればビールで、その後は気分によって白ワイン、ハイボール、レモンサワー、あとは焼酎の水割か、お湯割など。顔はけっこうすぐ赤くなる。お酒の強い人たちの、ワインボトルを一人で空けたトークにはとても混じれない。しかしこう言うと飲めない人からは「酒が弱いとは『ほろよい』で真っ赤になる人のことを言うんだ!」と異論が上がったりするので、なかなか難しい。ま、飲み始めてしまえば、そんなことはどうでもよくなるけれども。と言うことで、忘年会シーズンでもあることだし、今回はお酒の俳句を鑑賞してみたい。

 忘年会といいつつ、夏の句から。


缶チューハイ女子寮のみな洗ひ髪   西山ゆりこ

 大学の女子寮だろう。みんなお風呂でさっぱりした後の、それぞれ好きな「缶チューハイ」のひと時。甘い味、甘くない味、度数の低いもの、高いもの、最近はノンアルも色々ある、とにかく種類が多い缶チューハイは誰も置いて行かないお酒だ。気の置けない仲間と重ねていく時間の愛しさに、楽しい色を添えてくれる。


冷し酒がちやりがちやりと運びて来  斉藤志歩

 こちらはお店で、お酒が運ばれてくるのを待っている景。器が「がちやりがちやり」と、少し大きな音を立てている。それが既にもう涼しげで、冷酒への期待が膨らむ。繊細な玻璃の器と言うより、少し遊びのある無骨な器か、琉球グラスのようなイメージが浮かぶ。


テキーラや胡瓜の種のやはらかく   佐藤文香

 お次はテキーラ。佐藤文香さんがアメリカでの生活を詠んだ句集『こゑは消えるのに』からの一句。日本ではテキーラと言えばショットで半分は遊び感覚で飲むものと言うイメージがあるが、こちらはゆっくり飲んでいる景として詠んだ。添えられた大ぶりの胡瓜は、日本とは少し食感が違って、異国の酒とよく馴染む。


あたらしきもののすべてにライム絞る 佐藤文香

 こちらも同じ句集から。「あたらしきもののすべてに」と書かれているが、むしろ因果がひっくり返り「ライム絞る」ことで、目の前の全てが新しく生まれ変わって見えるような、清々しくて気持ちの良い句だ。お酒とは言っていないけれど、ライムを絞るお酒として、コロナビールを思い出す。


ガーベラ挿すコロナビールの空壜に  榮猿丸

 その「コロナビール」のおしゃれな壜に「ガーベラ」を挿している。花瓶が無い、普段は花を飾ったりはしない家なのだろう。そんな家にやってきたガーベラは、誰かからのプレゼントだろうか。それはもしかしたら、コロナビールを一緒に飲んだ相手なのかもしれない。と、ただ花を挿しているだけなのにドラマを感じる一句である。麒麟ビールの空壜じゃなくて良かった。


山川にビール冷やすやケースふたつ
山水にビール重は大薬罐       小澤實

 こちらは日本のビール、しかも瓶ビールだ。山の家に、親戚が集まるのだろうか。「ケースふたつ」分を、つまりはかなりの量を沈めている。冷蔵庫で冷やされたビールよりもとびきり美味しそうに感じるのは、私が都会住まいだからだろうか。途中で追加した数本に、転がって行かないように薬罐が乗っているのも景としてユーモラスだ。


盛り上がるビールの泡は口で吸ひ   若杉朋哉

 ビールと言えば泡である。今日も日本中で、あるいは世界中で起きているビールの現場を、きっちり写生したのがこちらの句。生ビールの泡も愛おしいけれども、こちらはどちらかというと勢いよく注いだ瓶ビールの景が浮かぶ。小さなコップでビールの髭をつけている大人は、何故か牛乳の髭をつけている子供の満足げな顔を彷彿とさせる。


去年今年カルアミルクに水の層    後藤麻衣子

 甘いコーヒー牛乳を思わせる「カルアミルク」。お酒初心者の頃によく飲んだ懐かしいカクテルで、あまり強くないので、久しぶりに楽しむお酒としても、良いチョイスである。年末の家族の集まりで、産後に初めてお酒を飲んでみたけれど、甘さをちびちび楽しんでいたらいつの間にか氷の層ができていた。そんなイメージだ。楽しい気持ちを味わうには、これでもちょうどいい。


サバランに染みゆくラム酒春灯    このはる紗耶

 お酒は製菓にも使う。オレンジの香りのコアントローや、甘く華やかな香のラム酒は、その代表とも言える。「サバラン」はブリオッシュをラム酒入りシロップに漬けた大人のケーキだ。じゅわっとした艶が、春の夜に美しく輝いている。


ウーロンハイたつた一人が愛せない  北大路翼

 重いのか、軽いのか。真面目なのか、いい加減なのか。そんな悩みに寄り添うのは、やっぱりビールでも日本酒でもワインでもなく「ウーロンハイ」程度に、甘くなく、手頃で、肩の力の抜けたお酒なのだなと思う。


昼酒が心から好きいぬふぐり     西村麒麟

 何の予定もない休日の、ぼんやりとした昼の光の下で飲むお酒は、現代の多忙な(そしてお酒が好きな)大人にとっては間違いなく、確かな幸福の形の一つである。しかも、昼酒には特別な準備もいらなければ、お金がとってもかかるわけでもない。その気やすさが季語の「いぬふぐり」と合っている。なんとなく、どちらも人前で大声では言いにくいところも似ている。


猿酒をかかへ祭の尾に蹤けり     石寒太

 「猿酒」は『猿が木の実を蓄えていた樹木の空洞や岩の窪みに雨や露が溜まり、自然に発酵して酒になったもの(角川合本俳句歳時記第四版)』という、空想の季語である。その不思議で蠱惑的な酒を抱えて、祭の列の尾に付く。山奥からさらにその奥へ、此岸と彼岸の境界へと迷い込んでいきそうな、色彩が豊かで幻想的な景だ。ほろ酔いで夢を見ている、揺蕩うような心地よさを感じる。

 


出典
角川俳句 2024 年 11 月号(株式会社 KADOKAWA)
同人誌 『詩IA』 砕氷船(斉藤志歩・榊原絋・暮田真名)
同人誌 『編むvol.1』 後藤麻衣子
同人誌 『カルフル 創刊号』 カルフル(土井探花・古田秀・このはる紗耶)
『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック Born after 1968』(左右社)佐藤文香編著
句集『こゑは消えるのに』佐藤文香(港の人)
句集『澤』小澤實(KADOKAWA)
句集『鶉 新装版』西村麒麟(港の人)
句集『あるき神』石寒太(百年書房)

 


俳句時評189回 川柳時評(13) 柳文のゆくえ 湊 圭伍

2024年11月02日 | 日記

 締め切りをオーバーしている。まことにすみません。猶予をいただきタイトルだけを先に送ることになったので上のタイトルを送ったのだが、さて。
 そもそも、〈柳文〉ってあるのだろうか。
〈俳文〉というのは確かにあるらしい。『俳句四季』の最新号(2024年11月号)の特集は「俳文とは何か」である。ちょっと前から川柳+散文の表現について何か書こうかしらと思っていたので、これは! ということで買いに走った、というのは大げさで、街中に出かけて行ったときにジュンク堂に行ってみた(私の住む松山は「文学のまち」「俳都」を標榜しているが、俳句雑誌を買うにはジュンク堂まで行かなければならない。何とかならないものか)。
 で、買いませんでした。特集とあるから、最初のグラビア(?)が終わった後に論考が並んで数十ページ熱く〈俳文〉を語っているのを期待していたのに、ほんの8ページ、立派な書き手が並んでいるものの、ぜんぶが短文なのだもの。つい、立ち読みで済ませてしまった(他の本はたっぷり買ったので、立ち読みの罪は是無きものとする)。『鶉衣』(江戸時代の俳文をまとめた本です。岩波文庫)を買う決心がついたという収穫はあったものの、現代の俳文の好例だと私が思っている坪内稔典氏の『高三郎と出会った日』への言及もなかったしなあ(ネンテン先生は執筆者に入っているが、自著を出さないのは謙虚ですね)。
 とりあえず〈俳文〉とは「〈俳味〉のある散文で、しばしば俳句が入っている」ということを再確認できたということにしよう。ということは、〈柳文〉とは「〈柳味〉のある散文で、しばしば川柳が入っている」と言えそうである。言えたからといって、〈柳味〉って何やねんとすぐにツッコミが入るのではあるが。
(ついでに書いておくと、「歌文」(「〈短歌味〉のある散文で、しばしば短歌が入っている」)ってあるんですかね? 「歌物語」「歌日記」とかになるのかな?)
 脱線の多い文章ですみませんが、何でこんなことを考えているかというと、短詩文芸では「一句(首)独立」―一句(首)だけでも独立して読まれうるものでなければならない―という一種の理念があるのだけれど、実際問題として散文や他の支えがないと一般に広く読まれないのではないかという疑いを持っているからです。かんたんに言うと、松尾芭蕉に『奥の細道』がなければ芭蕉、俳句はこんなに広く読まれなかっただろうね、ということです。
 あるいは、普通の状態の短詩文芸は、専門雑誌や句集にだいたい同じ詩型の作品が並んでいるからそのジャンルの作品として熟読吟味されるのだけど、その状態は外部からの視線を拒んでもいる。川柳誌や俳誌を「ふつう」の人が開けると、ちいさな文字で林立しているほとんど同じ印象の言葉の羅列を見て、すぐ閉じて、何も見なかったことにするでしょう。私にとって、理系の本で数式がびっしり並んでいるのに等しい(だろう)。
 というわけで、川柳や俳句や短歌が(広く)読まれるには、何らかの〈環境〉がいるだろうと思うのである。その〈環境〉は散文や他の周辺の情報によって整備されていると考えられる。(短歌ブームの中、SNSでつぶやかれた短歌一首に「撃ち抜かれる」人もいるのでしょうけど、たいていは短歌ではなく「エモさ」を読んでいるのだろう。皮肉っぽい見方でスンマセン。)
 では、芭蕉『奥の細道』のように、ジャンル(とその中の作品群)に〈環境〉を与えるような、川柳が入った文―それがあれば〈柳文〉の代表例と言ってよかろう—があったかというとまあ、見つけるのは難しそう。(時実新子の文は、合う人にとってはそれに近いものがありそうか。短歌だと、穂村弘の文は現代の短歌にとってそういった機能を果たしていそうですね。)
 さて、〈柳味〉という言葉はどのぐらい使われているのかなと検索してみると、それなりの用例はありそうです。

本誌[「稀書」というタイトルの雑誌]の特徴の一つは、バレ句集として著名な「末摘花」ではなく、「柳の葉末」を取り上げたことであろうか。川柳と言うよりは狂句集であるため、「末摘花」以上のバレ句集であるが、柳味に乏しいため余り顧みられることのなかったものである。

(「雑誌資料 稀書」(閑話究題 XX文学の館)
https://kanwa.jp/xxbungaku/Magazine/KisyoImo/KisyoImo.htm より)

現代社会への風刺が効いていて柳味を添えています。

(小金沢綏子「幸せ探し文化展 川柳の部 選評」
  https://www.rengo-ilec.or.jp/event/09culture/senryu/index.html より)

あと、剥げたらへんは文法的にありでしょうけど、読んで、ん??と意味を一瞬考えなくてはならない、意識の立ち止まりがあるということかなと。そのへんのちょっとした違和感に柳味があるのかもしれません。[湊注:「剥げたらへん」は評をしている句の中の語。]

(石川聡「Twitter現代川柳アンソロ2~鑑賞~8」note
 https://note.com/satoshi_pinot/n/n663ac70dc80f より)

 用例はあるとはいえ、上の3つを見る限り、みな別の性質を〈柳味〉といっている。①は初期『誹風柳多留』の句にあるような風情、②は風刺的要素、③は違和感や飛躍、といったところである。それぞれ川柳として世にある作品群の一部の魅力ではあるけれど、〈柳味〉がもし「川柳が川柳であるところの川柳性」(石田柊馬)といったものを指す言葉だとすると、どれも不十分であろう。
〈柳味〉という語を出してしまうと泥沼であることが分かった。〈俳文〉を「〈俳味〉のある散文で、しばしば俳句が入っている」というとある程度会話になるが、〈柳文〉を「〈柳味〉のある散文で、しばしば川柳が入っている」というのはちょっと難しそうだ。
 そこで思い切っていい加減に、川柳が入って(添えられて)いて、川柳がそこにあることで面白くなっている文章を〈柳文〉ということにしてはどうだろうか。  
 そうすると例えば、今田健太郎(ラジオ・ポトフ)が自作・他作の川柳に反応して日々書きつづってnote の「ラジオポトフ(おしゃべり大好き作家と俳優で美術家のラジオ)」(https://note.com/radio_potofu) で発表している記事、「シリーズ・現代川柳と短文」、「シリーズ・現代川柳と短文NEO」はまさに〈柳文〉だろう。
 


 シリーズ・現代川柳と短文NEO/215

 もらう側がいるのはすなわちあげる側がいるからで、当然、それぞれにいろんな人がいるのだけれど、ひとたびそれを、もらう側の視点で言おうとしたとき、「くれる」という表現が生まれ、それで世界はリセットされ聖火も消えるが、またすぐに灯されるから、その日まで研鑽研鑽。

【きょうの現代川柳】
いろんな人がメダルをくれる  暮田真名 

 

 シリーズ・現代川柳と短文NEO/204


 かの一休宗純は達筆だったようだが、字を書きまちがえるくらいのことはあっただろう。室町時代、紙はいまよりずっと貴重だった。消しゴムも修正液もない。真の意味で一発勝負だ。それでもつい書きまちがえてしまう。一休は嘆く「なぜなんだ。ぜったいにまちがえないように気をつけていたのに。一休全体、どうしておれはまちがってしまったんだ」

【きょうの現代川柳】
一休全体            栫伸太郎

 

 シリーズ・現代川柳と短文NEO/166

 小津安二郎。その作品の画面はどこまでも作りものである。むろん、どんな映画も作りものではあるが、小津のそれは、はっきり言えば、アニメ的な意味での作りものである。素材に生身の役者がありはするが、あれはアニメ的な作為だらけの画面だ。だからこそわたしは、すべての小津作品が真の意味でアニメ化されるといいなと思っている。ロトスコープでなく、手描きで。つまり、アニメ的な実写作品を、改めてアニメに召喚しなおす試み。これはおもしろいものが観られる。

【きょうの現代川柳】
テーブルに名刺だぜ「小津安二郎」 今田健太郎

 

 このシリーズで散文の部分は句の注釈や評に見えることもあるが、特に面白く読めるのは句を説明しているように見えていつの間にかすれ違っている回である。つけくわえるならば、先に引用した3つの〈柳味〉への言及にあった性質―時代を反映した軽み、風刺性、意外性―も、ここではしっかり示されている。「柳文のゆくえ」というか、これは十分に、「柳文の現在」と言ってもよいのではないだろうか。〈柳文〉という語のほうがこれらの試みについて行けさえすれば、の話だが。
 あれ、いま書いた「説明しているように見えていつの間にかすれ違っている」は、川柳の核としての〈柳味〉に意外と近いような気がするのだが、どうかなあ。

すれ違いながら世界を折った鶴


俳句時評188回 多行俳句時評(13) 靴の底と話しことばについて 斎藤 秀雄

2024年11月01日 | 日記

 本年度の多行俳句時評の担当となることを、当初、固くお断りしていたのですが、その、いくつかある理由のひとつは、たんじゅんに自分がふさわしい書き手だとは思われなかったからです。このときに想定した、「ふさわしい」書き手とは、多行俳句の現状が広く見えている俳人(言い換えれば専門家)か、「俳句図書館」のたぐいへのアクセスのよい人物か、ということになります。広く見えているか、広く見ようと思えば見ることができるか。で、結局のところ引き受けてしまったわけですが(僕が引き受けなければならない、という事実をもって、多行俳句が置かれている現状、というよりもむしろ俳句という営みの本邦における現状が、うっすらと透けて見えるのではないかと思います)、引き受けたからにはやってみたい試みというものはあり、それは、「いわゆる多行俳句」の本流、からは距離がある多行俳句を読んでみる、という試みであります。具体的には、「多行俳句の作家」とはみなされていない作家や、そもそも俳句に強くコミットしているかどうかにかかわらずカジュアルに多行も書く人物の多行作品、ということになります。
 いま、「いわゆる多行俳句の本流」と書いてみて、ずいぶんつらいことを考えたものだな、と思うのですが、というのも、僕がこう述べたときに想定している「本流」とは、高柳重信、林佳、大岡頌司、酒卷英一郞、と名前を挙げて、もうこのあたりで「あれ、他に誰がいたっけ」となってしまい、若手で外山一機、亡くなったけれど木村リュウジ、ぐらいは思いつくものの、やはり広く見えていないために、どのあたりまでを「多行の本流」と考えればよいのか、正直よく分からないわけです。
 今回とりあげようと思っているのは、沙羅冬笛の『靴の底』(四季出版、1988年)という句集なのですが、この句集における「多行表記」は、著者のことばによれば《故高橋由紀夫先生の句集『玩具のない家』(1968年)の体裁を踏襲したもの》とのことで、いわば高橋由紀夫に私淑(同じ「青玄」の同人ではありますが)したうえでの「多行」ということになります。このとき、高橋由紀夫の俳句が「多行界隈」でどう受け止められたのかとか、どのような経緯で高橋は多行を試みたのかとか、つまり「本流」なのか、その外なのか、というはなしになると、僕にはまったく不案内な領域になってしまい、うかつには何も言えない、ということになってしまいます。
 そうしたことを投げ捨てて、ともあれ、『靴の底』に言及していきたいと思います。たまたま本棚にあって、たまたま多行俳句が掲載されていたから、というのが、この句集をとりあげる動機です。
 句集の略歴によれば、沙羅冬笛は1942年神戸生まれ、「青玄」「海程」の同人。「海程創刊50周年アンソロジー・物故同人」に名前があることから判断すると、(海程創刊50周年だった)2012年の時点ではすでに亡くなっているようです。
 目次は

序・伊丹三樹彦
靴の底(128句)
Exercise 1. 素子モノローグ(20句)
Exercise 2. 照葉樹林(26句)
あとがき

となっていて、このうち「靴の底」の128句が(三行で書かれた)多行俳句、ということになるのですが、じつは「素子モノローグ」の20句も、二行で書かれた多行俳句になっています。ただし、多行か否かというのとはまた別のコンセプトを備えた、独特の連作です。もしかしたら脱線になるかもしれませんが、個人的にここが面白いと思うので、紹介したいと思います。「Exercise 1. 素子モノローグ」の冒頭に置かれた、著者のことばを丸ごと引いておきます。

俳句誌『青玄』にはかつて単に現代語ではなく、現代の話しことばを駆使してすばらしい青春俳句を残した若者たちがいました。1960年代後半以後の複雑な状況のなかでこの系譜はいったんかげをひそめたようです。しかし、新井素子の小説『星へ行く船』や俵万智の歌集『サラダ記念日』のように、他のジャンルでは、話しことばによって現代を表現するというアプローチが続けられていますし、最近『青玄』にも松本恭子というすぐれた書き手が現れています。以下の20句は、話しことばを駆使したら俳句にどんな可能性があるか、を考えるための作者なりの実験です。内容は新井素子の小説や身辺の会話にヒントを得たフィクションにすぎません。

 このまえがきを読んで分かるように、「素子モノローグ」の「素子」とは、新井素子(もとこ)のことであって「そし」ではないようです。本句集の出版は1988(昭和63)年、つまり昭和末期(翌1989年の1月に、平成へと改元)のことです。当時、僕は中学生でしたが、「新井素子」という固有名に、ウッとさせられるところがあります。夏休みに町の駅前の書店へ、コバルト文庫の新井素子を、一日一冊ずつ、買いに出かけていた思い出があります。こんな小さな町でも、団塊の世代が住宅を建て、われわれ団塊ジュニアを生み育て、巨大な消費を作っていた時代なので、個人経営の書店も成立していたわけです。いまでは町が一個のターミナルケア施設のようなものになってしまっていますが、本邦の縮図のようなものです。新井素子の名前は、『Fanroad』とか『月刊OUT』とかの「その手の雑誌」で知ったのだと思います。真っ黒な歴史です。
 話が逸れました。いくつか作品を引こうと思います。

さびしいとか
  そーゆーんじゃなくて さ 秋は

んでもってボトル空けちゃった
        (って あのね!)

(そのまま抱かれていた訳?
          うっそだあ!)

彼が……ううん
     あたしも好きよ 谷村新司

あたしの下手なウィンクで喜ぶなっ!
              つうの

♡風がはこんだ物語♡って
      ホテルなの? アハ……

やさしい嗚咽……?
  あたし フルーツパフェ食べたい

 いまの若い人は知らないだろうと思うのですが(いや、いまでも新井素子の著作は、昔のものも含めて売れているようなので、分かるのかもしれませんが)、「確かに当時の新井素子の文体はこんなだった」という強い印象を与える作品群です。
 詩的に高く評価するか否かはともかく、奇妙な面白みがあります。「滑稽」というのでもない。「この句には滑稽味がある」と述べるとき、その読者も、作品の語り手も、完全なとは言わないまでも、作品が創出する世界への、一定の没入、一定の真面目なコミットメントがあるのではないかと思います。が、ここにあるのは非コミットメントの感覚(あるいは再帰性を強いてくる感覚)であるように感じます。もちろん「俳句に『好きよ』だの『つうの』だの書いて、馬鹿じゃないのか」と思ってもよいのかもしれませんが、そうした(サルトルのいう)「くそ真面目な精神(esprit de sérieux)」を拒むニュアンスに満ちている。例えるなら、小説の登場人物の胸中の描写のようでもある(小説の主人公や登場人物が愚かであるときに、「愚かな小説だ」とは、ふつうは思わない)。現代アート、例えばエルヴィン・ヴルムの作品群に接するときのような、奇妙に居心地の悪い感じ、といえばよいでしょうか。先に「詩的に高く評価するか否かはともかく」と述べましたが、ヴルムは少なくとも評価されているわけで、評価の文脈の設定に依存するのだろうと思われます。そして、現代の本邦の俳句の状況は、そこまで成熟していない、ということになるだろうと思います。
 もう一点、ここに感じられるのは、「強度としての話しことば」の感触です。われわれが「これは話しことばで書かれている」というときに、そこに書かれているのは、人々がじっさいに日常的に口から漏らした言葉を、一言一句、テープ起こしをしたかのように書き起こしたものではなく(そうしたものは、厳密には不可能なものです。「口から漏らした言葉」を「内心」と言い換えても同じです)、「話しことばらしさ」の感覚を強く与えるように作られた言葉です。難しくいえば「話しことばのシミュラクル」ということになります。「らしさ」を強めるために用いられるのが、修辞なのだと思います。より強く「らしさ」を感じさせることに、新井素子は長けていたのでしょうし、それを沙羅冬笛はかなり上手くトレースしているように思います。もしも「ハリー・ポッターの翻訳も真っ青の、ジェンダー化された文末詞に満ちている」と批判するとするなら、「強度」がキーワードになるかもしれません。
 ついでに、と言っては失礼になりますが、「Exercise 2. 照葉樹林」からも数句引いておこうと思います。

酔芙蓉わが体臭のうちで睡る
十三夜かの胎内のみづけむり
柿熟れてをり火消し壺濡れてをり
かなしみをかくす帽子なり無地なり
禿頭を粉雪滑るは猥褻なり

 ふつうに上手く、好ましい俳句だと思います。おそらく僕は、「俳句検索」のたぐいで、こうした俳句を好ましく思い、名前もまったく知らなかったこの俳人の句集を、古本で買い求めたのだろうと思うのですが、いきさつは忘れてしまいました。
 前置きが長くなりましたが、「靴の底」から引いて、読んでみたいと思います。「靴の底」はすべてが縦書きの三行表記となっているのですが、上端揃えのものと下端揃えのものとがあります。上端揃えのばあい、ここで(横書きに変換されますが)再現できますが、下端揃えのばあい、表示が崩れるだろうと思います。一文字目が揃っていないばあい、下端揃えの作品だと思ってください。

鳶の輪までの
 円錐空間も
   初夏だ

 一羽の《》が、空に《》を描いている。この《》を頂点とした《円錐空間》が、空間内に見出される。頂点は円を描いているから、《円錐》は(斜円錐として)ぐるぐると回り続けている。そのような《初夏》の景だ、ということなのだと思います。初読、《鳶の輪》で円錐を切断したような、円錐台を想起してしまったのですが、もしかしたらそれでも間違ってはいないのかもしれません。ともかくこの空間把握が、よいと思います。《鳶の輪》ときたら、僕などは円柱だとか螺旋だとか、なにか簡単な図形をそこに見出してしまいそうになりますが、《円錐》を発見する、というよりどうしてもそれが見えてきてしまう、その目の力に感心させられます。
 《》というからには、他のなにかも《初夏》であるのでしょう。まずはこの《円錐空間》の外側が、《初夏》なのでしょう。厳密に客観的に見るならば、すべての空間が《初夏》の空気に満ちていて、その一部に、《円錐空間》があり、当然のこととして、その内部も《初夏》だ、ということになるのかもしれません。語り手の体験としては、「初夏だなあ」という感慨があり、《》を発見し、《円錐空間》を発見し、「その内側の空間も初夏だなあ」となるはずです。しかし、作品を読む体験は、この順番には、必ずしも、ならない。作品から読みの体験領域に《円錐空間》を与えられ、この立体図形からにじみ出るように、空間全体が《初夏》となってゆく。もうひとつ、本作の優れている点は、明確には記述されていない、《円錐》の底面が強く把握されている点だと思います。万物が動きはじめる春が過ぎ、大地が、空間全体の「動き」を支えている。《鳶の輪》の動きに合わせて、空間全体が回転運動をしている。そのような把握が、よろしさになっていると思います。

アーケードから
      傘
奔放に拡散して

 シンプルではありますが、《奔放》《拡散》という漢語の連続が、多数の人々の活動を、どこかメカニカルで、しかしそれゆえにダイナミックなものとしてうまく表現していると思います。ここで《》は「傘をもった人々」の換喩表現ですが、この修辞もまた、メカニカルな感触に貢献していると思います。
 僕は本作を読むとき、ふたつの景を同時に体験します。ひとつは、雨の日の《アーケード》の出口を正面から捉え、無数の人々が《》をひらき、四方八方に散ってゆく、いわば水平のカメラアイ。もうひとつは、この景を上空から捉えた、垂直のカメラアイ。前者が生活世界に密着した情景だとすると、後者は観察対象を異化する情景と言えるでしょうか。この二重の体験が、奇妙な感触を手渡してきます。僕には、筒状の生物が、無数の幼生を産み散らしているように感じられます。メカニカルな表現・描き方に反して、どこか、ぬめりのようなものさえ描かれているように思います。

  音無川
その夏草に
 耳を埋め

 日本中に《音無川》という名称の河川は存在するため(歌枕となっているものもあります)、ここでは特定する必要はないのかもしれません。じつはひとつ前の句に《白雲荘》という湯河原温泉の宿の名前があるため、神奈川県の湯河原町の《音無川》なのだろう、という推測は働くのですが、ここでは考えなくともよい気がします。《音無川》であるがゆえに不要となった《耳を埋め》という論理、ないし、《耳を埋め》たがゆえに《音無川》であるという論理が、少々駄洒落めいてはいるものの、あるいは句会用語でいえば「つきすぎている」ものの、ここでは「よいつき方」をしていると感じられます。ひどく穏当に、「河原の夏草に寝転んで、耳を澄ましている」と読んでもよいでしょうし、「殺人の証拠が残らぬように、ばらばらにした死体の一部を埋めている」と読んでもよいのかもしれません。しかしまずは、語り手がみずからの《》をなんらかの象徴的なやりかたで《埋め》たのだ、と読みたいところです。もうひとつ、個人的には、《音無川》が、その《耳を埋め》たのだ、と読みたくもなります。それゆえに《音無川》はみずからの音を聞くことができず、みずからの音を失ってしまったのだ、と。これはやや読みすぎかもしれません。


と見れば
男 おぼろを梳る

 前述のように、沙羅冬笛は「青玄」の同人でした。ここでは「青玄」らしく、一字空け表記をも採用しています。とはいえ、目立つのは一字空けよりも、一行目の《》という一文字ではないでしょうか。このひとつ前の句は《花に手を拍つ/凡庸な末路に/か》というものです(とても好きな一句ですが、内容がありすぎる気がしたので、読む対象からは外しました)。この三行目の《》を受けての、《》である、と読んでも、間違いではないでしょう。むしろ詩的流れとしては、かなりスムーズに、そう読めてしまう。しかしながら、前の句がなくとも、何かの動作・様子が《》の前に省略されていると思えばよいのでしょう。「かと思えば」の《》。
 ここでは、《》にはなんらかの動作・様子が見てとれたけれども、その動作・様子を変え、《おぼろを梳》りはじめた、というわけです。前の句を受けるなら、《花に手を拍》った《か/と見れば》ということになるかもしれないし、《おぼろ》を見つけた《か/と見れば》、《おぼろ》にみとれていた《か/と見れば》、ということかもしれない。もっと飛躍した省略を想定するなら、『古今和歌集』を受けての、「暮るる」《か/と見れば》かもしれない。いずれにせよ、髮に対して行うのが通例の《梳る》という動作を、《おぼろ》に対して行う、この《》は、奇妙なことをしていると言えるのかもしれません。さはさりながら、《おぼろ》とは夜にみられる春の現象ですから(同じ現象が日中であれば「霞」と呼ばれます)、縁語の連関から、「男はぬばたまの夜闇の朧に、黒髪を見出したのだろうなあ」と読むことは比較的容易です。むろん、個人的には、黒髪を見出したのではなく「おぼろであるがゆえに梳るのだ」と読みたいところですが、ここでは個人的な「読みすぎ」は差し控えることにいたしましょう。


俳句評 句会と歌会と心理的安全性 沼谷 香澄

2024年10月22日 | 日記

 今回は句の引用ありません。俳人と歌人の違いについて私の経験した狭い範囲の人たちから得た印象など語ってみたいと思います。 
 先にお断りしておきます。タイトルに「心理的安全性」とありますが対面合評会におけるハラスメントの話はいたしません。そういうところはクリアして、純粋に作品を相互批評する場における両者の差の考察ですのでまずはご安心ください。
 そもそも私は対人関係の対処能力がお粗末で、つまり人間観察力も劣るのですが、そういう鈍い人間にも感知できたくらいに明らかな特徴と思って読んでいただけるとありがたいです。コミュ力の低さはあくまで個人的な特性で、ここで「歌人」の経験とはいわないでおきます。歌人にもいろいろなひとがいますので。

◎俳人はコミュ力が高い

 改めての定義です。俳人はコミュ力が高い。
 ある超結社の句会に参加しました。参加者がみんな着席して会が始まるまでのあいだに、受付を済ますなり端から「こんにちは、はじめまして、○○と申します。ふだんは□□に出ています。よろしくお願いします」という自己紹介を始める俳人がいました。(全面的に日時場所人物は臥せますので敬語も略で失礼します)ナチュラルに受けて「**と申します、よろしくお願いします。□□でしたら★★さんとかご存じですか」みたいに挨拶を続ける俳人がいます。私もその会に俳句の新参者としてお邪魔していたのですが、自己紹介されて「あわわ、あわわわ」と言葉も出ないまま頭をひょこんと下げるのが精いっぱいで、名前を言うところまでいかないうちに挨拶は終わってしまいました。そんな感じで、歓談は手練れの俳人たちのリードで滑らかに進んでしまい、会が始まってから「そういえば自己紹介まだでしたね」みたいな後付けの時間ができたりしました。会が始まってからの自己紹介が抜けるのは司会の、句会なので宗匠の、キャラの問題ではありますが、開始前の自己紹介ムーブは、2回の別々の会にて目撃したことを強調しておきます。
 勝手に考察をつけると、俳句は層が厚いので、いろんな人がいらっしゃるのは当たり前のことですが、句会に参加される方は、俳句の友だちを作ろうという明確な意図があってそれを実践できるような人間力の高いひとが多いのだろうな、と思います。ただ、あとからじっくり言い訳をつけますが、俳句という文藝の性質がそれを可能にしているのだということは強調しておきたいと思います。いいなあ俳句、と思いますが、だから俳句、とは必ずしもならないところですがそれも後述します。

◎歌人はコミュ力を発揮しない

 歌人はどうか。歌会に――今回はいろいろある短歌の合評会のうち、有志で開催する超結社・小規模の無記名詠草歌会を想定して書いています――歌会において自己紹介は、全員がそろってから順番にやります。開始の前から参加者同士の初対面の挨拶会が繰り広げられるところは、見たことがありません。歌人は無駄に笑わない。歌会こわいというネットミームがありますが、歌に関して以外の必要事項は話さない傾向にあることがその印象につながっているかもしれない、と思います。その場のみんなで共有できない話題は安易に出さないという配慮が働くと感じます。
 以下はごく個人的な意識なのですが、ネットで公募の歌会に申し込んで参加してみると、自分がダントツの最年長であることが見て取れることが非常に多いです。そういう場で自分を語ればマウントになるかも、相手を語ればパワハラになるかも、ちょっと人間的に好意や愛情を表せばセクハラかますおばさんと思われる、歌の話をしに来たのだから歌の話をできればよしとする、と、要するにたいていの初参加の会においてはガチガチに緊張しているところから入るのですが、回を重ねても言わないことは言わないまま続くので、結局いつまでたっても歌人と仲良くなることはない、多分今後も永久にないと思います。対面で良好な空気を保ちながら業務を遂行する関係を、ともだちとは言いません。個人の事情として、身体を壊して酒を無制限に飲むこともなくなり、家も遠いし、二次会に参加しないで歌会が終わったらさっさと引き上げることが普通になったことも大きいとは思いますが、それだけではない空気が、やはり、あると思います。もっとも学生短歌会と結社は、たぶんまた違う空気があるのだろうと思いますが、知らないことは書けません。
 そして私は、その歌会の空気がきらいではありません。また、これから句会に参加する経験が増えていったとしても、自分からぐいぐい友達を作りに行くようには、ならないと思います。

◎考察

 ここまで、句会と歌会に参加する人たちの対人力の差について書いてきました。自分が歌人の友達を作れないことをぐちぐちと書くうちに、まるで二種類の短詩合評の集まりにおける雰囲気の差が、それぞれの詩形に携わる人の属人的な対人能力に由来するかのように読めたと思います。
 ちょっと違うんです。原因は詩形にある。
 俳句と短歌はどちらも広義の詩ですので、句会と歌会は、作者の美意識や問題意識が表出する創作物を持ち寄って合評するという行為において、琴線か逆鱗かわかりませんが、作者という人間の心の無防備な部分に他人の言葉を入れていくという側面は必ずあります。問題はその程度に差ができる、これは必ずできるといってよくて、その理由は詩形の創作上の要求と強くつながっている、ということが言いたいわけです。
 先に短歌について説明しますが、約三十一文字を使って一つの詩をかこうとすると、それは一個の文になりうるし、説明ができる。かなりの分量のことがらを盛り込むことができます。そして、手紙の代わりにも使えるくらいですから、一首の短歌作品にて、人の思い、感情、意志を表現することができますし、また、そのような何らかの作者の思いを読者に伝えうる作品がよい歌と言われます。もうおわかりでしょうか。短歌を書くほうが、自分の心の柔らかい部分を、俳句と比べて、より多く外に持ち出すことになるので、それを合評するときの心理的安全性が損なわれやすい性質を持つと言えます。しつこいようですが人格攻撃の話はしていません。作者自身への言及を避けて、純粋に作品に関しての評をつけ合うその内容が、作品を持ってきた作者の心に入ってしまうという意味です。
 俳句の場合、季語などのハイコンテクストな語を駆使して一個の景を立てるという創作ですので、作者が句会においてさらされるのは、主に、句に持ち出した教養だと思います。ものを知っているか知らないか。大事ではありますが、人の心の根幹とは切り離して考えることが可能です。句作というのは、作者が自己の教養を総動員して、最小の語句を組み立てて見せる新しい美意識の提案、なのだと私は思っていて、その作品の面白さを語る限りにおいて、作者の心に傷がつく余地は小さいことでしょう。
 また、句作は多作多捨が一般的なようで、そのことも、創作上の不出来が人の心を傷つけることがない理由となっていると思います。出来の悪い作品について長く思い悩むことはなく、さくっと捨てて次へ次へと進むのが句作で、句会もそれを前提としているのだなと納得しました。一回の句会で一人が複数の作品を提出し、選の入らなかった句は評されず作者も開示されません。人の眼にとまらなかった作品はそっとしておかれる。評のなかった句をどうするかは作者にそっとゆだねられる、やさしい対応だと思います。 
 短歌はそうではなく、零点歌も全部評されるのが一般的です。一般的な歌会で参加者は一人一首ずつ作品を出す。そして出された作品すべてに合評する時間を設ける。歌会の擁護になりますが、点が入らなかった歌の評のほうが勉強になります。作者は、どこが悪かったか言語化して受け取れるし、評者は完成度の低い歌の可能性をみいだす良い訓練になります。
 また個人の経験ですが、句会の席で俳人さんたちに、このことを、つまり歌会では点の入らなかった歌も評することを説明したときに、ひどく驚かれてしまい、私はそのことに驚いたのですが、零点歌の評は、言うほうも聞く方も、確かに大変です。句会における心理的安全性の確保は有効にはたらいていることが感じられました。

◎結論

 まとめます。俳句好きが句会に出るときの楽しさと、短歌好きが歌会に出るときの楽しさは、相当違うようです。ずっと昔に、歌会での私は、コメントが辛辣なことでいつも会う人たちの間で警戒されていたと思います。「そこまで言わなくても」というたしなめは、何度も聞きました。一方で自分の作品もずたずたにされて持ち帰るわけです。歌人ドM説、真理だと思います。俳人のほうが人生を謳歌してる印象、多分間違ってないです。