今回は、あまり時評らしくは見えないですが、私が現代では貴重な俳人と思っている柿本多映の俳句(今回、『夢谷』から『白體』まで)について、鑑賞していきます。ご一読いただければと思います。
・『夢谷』(書肆季節社)
1.立春の夢に刃物の林立す
夢を見た。刀や包丁など、あらゆる刃物が、刃先を宙に向け、林立している。明晰夢の中で、この人は、立春のちょうどその日に、奇妙な夢を見たと冷静に思っている。もしかしたら、この風景は、私が春という季節に抱いている畏れの象徴かもしれない、そう思いながら林立する刃物らを見ている。春は草木が萌動し、自然が活発化する季節である。「林立」という文字は、森の樹々を連想させ、夢の中の刃物と現実の草木とを二重写しにしているようだ。しかし、目の前の刃物たちはどこまでも冷たい金属に過ぎないというギャップが、やはり寒々しい。
2.蟇鳴きて少年青きメロン食む
生命力を感じさせる句。ギョッとするような見た目の蟇が、間の抜けた鳴き声を上げるなか、少年が高級そうな、みずみずしいメロンを味わっている。俗でグロテスクな蟇と、青々しい高級メロンとでは、一見風景として調和しないように見えるが、この句では、強烈な生命感という点で、蟇・少年・メロンの三者は重なり合っている。「蟇鳴くや」では、三者が調和したこの感覚は出てこないだろう。「鳴きて」という軽い切れが本句の世界を形作っているように思えた。
3.真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ
真夏日の日差しに、茹だるような暑さを感じている。ふと上空を見上げると、遥か遠くにその鳥はいた。陽に透けるかのように、羽ばたくたび見え隠れする羽の骨。実際問題として、骨が見えたかどうかは関係がない。「骨まで」には、骨が見えるまで力強く飛んでいる鳥のエネルギーを感じ取った驚きが込められている。夏の日差しに生命力を奪われている自分からすれば、鳥の力強さに畏れをも感じる。命あるもののダイナミズムを描いた句である。
・『蝶日』(富士見書房)
4.口中を舌のすべりて朧の夜
口の中をひたすらに舌が滑っている。舌を左右にうごかしながら、滑らかに口中を湿らせている。そうした潤いの感覚が朧の夜の艶かしい雰囲気と合っている。本来、下品であろう上五中七の仕草に、ある種の品格が備わっているのは、朧の夜に漂う雰囲気によるものだ。それと、「口中」という人から見えないところでの所作であることにも起因する。不可視の小空間で起こる、密やかな色めき。
5.空蟬を拾へば水の零れけり
ふと目に付いた蝉の殻を拾ってみると、偶然にも背中の穴から水が零れた。よく見ると、背中の穴に並々と水が入っている。一瞬の驚きにとどまらず、この人は、その一滴の雫に感動をしている。どうして水が入っているか、わざわざ考察する必要はないだろう。既に役目を果たした蝉の殻に、生命の源である水が入っているということ、そして、その水を一滴零したことで、体感した生命の原点に触れたような感動。
6.我が母をいぢめて兄は戦争へ
無季の句。柿本多映は、自身の家族のことも頻繁に詠んでいる。幼少期を回想してつくられた句だろう。母を泣かせながらも、どうしても行かねばならないと母を説得する兄。そうした風景に対する、「いぢめて」という把握が悲しい。別の側面では、いじめられているのはその兄である。ただ、家族間のミクロなスケールでは、母と兄とが、被害者/加害者の関係に見えてしまう。下五「戦争へ」には、そうした家族間の小さな世界を、丸ごと巻き取りながら戦争へと回収していくような無情さがある。
・『柿本多映句集』(ふらんす堂)
7.万愚節ひとりふたりとけぶりけり
エイプリルフール、いたずらレベルの嘘をいつついてもいいという日。何処となくもったりとした空気の流れる春昼のその日、火葬場に集まる機会があった。ひとり、ふたりと荼毘に付され、煙となっていく彼らを見ると、この句の風景自体が、どことなく嘘のようにも思える。中七下五のひらがな表記からも、うすぼんやりとした視界のなか、彼らの煙を眺めている様子が窺える。それから、火葬される時間を「ひとりふたり」と圧縮することで、この人にとって彼らの煙は、一瞬の夢のような風景であったことが表現されていると思う。
8.形代となるまで伏せむ雪の原
形代と雪、二つの季語があるが、超季の句として読みたい。形代は人間の身代わりとして用いるものであるにもかかわらず、この人は自身が形代となろうとしている。穢れをうつす人間よりも、うつされる形代の方が浄らかだ。「形代になるまで」には、気の遠くなる時間がかかるだろう。そうした永遠で浄らかな時間を体感させてくれる句だと思う。
・『花石』(深夜叢書社)
9.天体や桜の瘤に咲くさくら
桜の枝を見てみると、瘤が生まれている。調べてみると、サクラこぶ病というらしい。この瘤より先端の枝は、やがて枯死してしまうそうだ。そう思うと、この「さくら」はどうにも弱々しく感じられてくる。しかし、それでも猶と咲いている生命感。「天体や」の切れが、この句の眼点である。「天体」というものがその場にあるわけではない。遥か遠くに、しかし、ある意味ではすぐ近くにある「天体」をこの人は思い浮かべている。その「天体」のエネルギーを付与するための「や」である。宇宙スケールの広さが、そっくりそのまま目の前に立つ桜の樹の姿に当てはまる気持ちよさ。世界そのもののエネルギーを指摘しているようだ。
10.生前を覚えてゐたる利腕や
無季の句。柿本多映の俳句では、前世・来世の存在が前提視されている。利腕はあまりに自分の意思通りにコントロールできるため、かえって違和感を覚えているのだろう。逆に利腕じゃない方の腕の方が自然にも思えてくる。違和感がないことについての違和感に対する、素朴な驚きを詠んだ。
11.頭蓋いま蝶を容れたるつめたさよ
柿本多映は蝶の句をよく詠む。この句も、自分の分身である蝶を、頭蓋のなかに容れている。句意は明快。一匹の蝶が、頭蓋のなかに入り込む。その際に、寒々しい感覚を覚えたという句だ。「頭蓋」「いま」「容れたる」の「い」の韻律からは、頭蓋のなかが冷たいながらも、独特の華やかな雰囲気で満ちていることを感じさせる。
・『白體』(花神社)
12.提灯の骨のくづれて瓜祭
ひどく殺風景な様子を思い浮かべる。全国で有名な祭りというよりは、村か町単位でのローカルな祭りだろうか。もしかしたらインターネット以前に途絶えてしまった祭りかもしれない。ともかくとして、せっかくの祭りにもかかわらず、人混みもなく、閑静としているなか、晩夏、神前にぶっきらぼうに瓜が置かれている。一応祭祀であるはずだが、「瓜」という季語は、そうした好い加減さを許容する大らかさがあるように感じた。
13.天才に少し離れて花見かな
なんの天才だろうか。学業の天才なのか、仕事の天才なのか、はたまた俳句の天才なのかはわからない。しかし、どうにも才能について劣等感を感じる相手がいるようだ。相手が花見に合わせてある程度羽目を外してくれていても、それはおさまらない。だから花見の際でも少し遠ざけてしまう。そうした人間味を詠んだ句。もしかしたら相手も自分を「天才」と思っているから離れているのかもしれないという自負心がはたらくのも、花見という場だからこそだろう。
14.薬瓶さげてみてゐる狐火や
アンバーガラスの薬瓶だろう。それを手にさげながら歩いていると、不意に青白い火が見えた。狐火である。狐火は、狐の提灯ともいうが、片手に提灯をさげている、架空の狐を想像してみる。薬瓶を片手に歩いている自分とまるで鏡合わせだと感じた。薬瓶を下げながら異常現象に立ちあった際の興奮が下五の「や」には現れている。