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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評195回 第32回西東三鬼賞について 横井 来季

2025年04月02日 | 日記

 前回の俳句時評で、連載が終了することになったと述べたが、続けることになった。今回は、西東三鬼賞について論じていく。現代俳句協会の【イマココ現代俳句】という企画で、語りきれなかったところも、語っていく。

全て空に放ち風船売り辞める   西田克憲(大賞)

 この句の景は、人間がただ突っ立っているだけだが、解放感が凄い。
 上五の「全て空に」の前には、(風船を)という文言が本来は入るのだろうが、それが省略されているため、「全て」の範囲に広がりが生まれている。「全て」には、自分の存在全てを空に放っているかのような感覚がある。

 「風船売り」辞めるも効いている。俳句において、季語は特権を持つ。季語の参照性にも繋がるが、「風船」という季語を使えば、「風船」というファイルにその句が登録される。そうして、その句は、その前に作られた「風船」句に多かれ少なかれ影響を受け、逆に、その後の「風船」句の読みに多かれ少なかれ影響を与える。
 また、俳句には、季感さえあればいいのだという論もある。「しんしんと肺碧きまで海の旅/篠原鳳作」などは、本来無季のはずだが、季感がある。「万緑の中や吾子の歯生え初むる/中村草田男」も元々無季であるが、夏の季語ということになっている。
 俳句における言葉は、「単語」→「詩的単語」→「季感単語」→「季語」(俳句の公的文書=歳時記に登録)という順で参照性が強くなるかもしれない。

 「風船売り辞める」には、そうした季語としての自分を捨てるという意味合いもある。単に「自身の職務」を捨てるだけでなく「季語である自分」や「季感を放つ自分」をも投げ捨て、ただ一人の人間、「私」だけが今この場に残っている。そう感じさせるのは、句跨りの勢いの良さもあってのことだろうが、ともかく解放感が良い。
 また、【イマココ現代俳句】の中では、解放感だけでなく、「辞める」という行為に、主体の痛みを見出す鑑賞者もいた。私はあまりそう思わないのだが、一意見として参考になった。

手品師の指いきいきと地下の街  西東三鬼
道化師や大いに笑ふ馬より落ち  西東三鬼

 また、これらの句を見るに、三鬼には、風景を描写する際、極めて冷徹に、職業者をオブジェクト化して見る傾向がある。これらの句と比べると、〈酌婦来る灯取虫より汚きが/高浜虚子〉の方が、主体と客体とが(一方通行ではあるが)結びついている分、温かみがある。
 しかし、受賞作は、この「風船売り」が、客体が主体の象徴になっているという点で、職業者に対するある種のリスペクトが見られると感じた。

 秀逸以下は、玉石混交という感覚がした。入選から四句選んで鑑賞する。

露の世に減塩醤油買ひ足して   芝野和子(入選)

 「露の世に」という、儚い世にも、減塩醤油を買い「足す」行為が良い。塩というものは古代では貴重なものだろうが、現代ではそれは毒として扱われる。だから減塩醤油を買っているわけだ。なるべく寿命を長引かせるために、というと理屈が過ぎるが。
 もしも「露の世に」が「露の世へ」の意味合いも兼ねているなら、より面白いと思う。「露の世」の透き通ったイメージにやや濁った土色を付与するような、そうした感覚がする。

活断層を起こさぬやうに髪洗ふ  松尾初夏(入選)

 髪洗ふの静かさが見えてきて良い。慎重さというか、主体の人柄が見えてくる句。子供を起こさないように……とかならベタだけれども。もしかしたら、主体は被災をした過去を持っているのかもしれない。そう想像すると、作品に重みが出てくるのかなと思う。「髪洗ふ」の質感も少し変わってくる。髪を洗った時にふと感じた水の恐ろしさ、そうした原始的な感覚も感じられてくる句だった。

レトルトの粥絞り切る天の川   杏乃みずな(入選)

 生活感が見える句。天の川という季語は感傷に流れやすいところもあるが、それを抑えて、変に美化していないところが良い。天の川の一粒一粒がレトルトの粥の米粒みたいにべちゃべちゃとしたものに見えてくるところが良いと思う。

三鬼の忌プレタポルテを着た小犬 松山りさ(入選)

 言語化しづらいけれども、二物衝撃が成功している句だとは思う。犬が高級服を着ているというチグハグ感が、三鬼の忌と合っているのだと思う。弱々しい子犬が、高級な服を着ているという違和感というか、支離滅裂性、それが良いと思う。

 今回、秀逸以下はあまり唆られる句が正直少なかったが、大賞は良い句のように思えた。
 また、報告にはなるが、【イマココ現代俳句】では、【クィアな夜ふゆねこの目に銀河あり/江口久路(秀逸)】という句が議論の中心になっていた。私は正直、「クィアな夜」とは、どんな夜なんだろう? と疑問に思い、それで終わってしまった句ではあるが、読みの広がりを評価する意見もあったことを、報告しておく。
 これにて、擱筆をする。
 今後一年間、連載を続けていきます。何卒よろしくお願いします。


俳句評 くりかえしくりかえす、再生のために 新井 啓子

2025年02月27日 | 日記

三笠配られ阪神忌のうららかに   橋本昭一

 阪神淡路大震災から9年後の2004年、大阪でイベントがあり、私もパネラーとして参加することになった。詩人4人で話をしてから最後に質疑応答となった時、会場の老紳士から私に、「神戸はまだ回復していない」と発言があった。私が不用意に「街が復興してよかった」という言葉を発したことに対するストレートな怒りであった。前日に訪れた、私がかつて仕事場として通っていた辺りが、震災前よりは整備され、一見街の機能が復元されたように思ったのはとんでもない間違いだったと、その発言は示していた。お詫びして祈りの言葉を続けながら、その老紳士がうっすら涙を浮かべているようで、私は足の震えが止まらなかった。なんという想像力のなさよ。復興・回復という言葉の多層な意味合いに配慮を欠いた自分が情けなく腹立たしかった。「うららかに」と謳えるまでにどれだけの歳月が経っただろう。和菓子「三笠」の粒餡の甘さにも、塩っぱさが混じっていたかもしれない。

鬼ゆりのあふれる花粉渇水日    坪内捻典『坪内捻典句集』

 上水道の完備した昨今では渇水の実感は薄れただろうが、高度成長期には、ちょっとした日照りが続くと水道から水が出なくなることがあった。非常時に備え町内のどこかに鍵付きの共同水道栓が設置されていた。そしていざというときには、その鍵を持つ町内会の役員が定時に開栓するまで炎天下、住民は各自バケツを持参し列を作って並ぶのだった。私の実家は高台にあったので、1日分の水を得るために、草の茂る小径を子供には重いバケツを提げて、往復しなければならなかった。日差しと草いきれと、そう、オニユリのむせるような香りが、零れた水で濡れたサンダルの足元に纏わり付いた。水道栓から頼りなく出ていた水は、きゅっと鍵が締められるともう出ない。その不足を補うかのように、花粉から発せられる豊満なユリの香りが私を労い、慰め、坂の上まで背を押してくれたのだった。

浸水の引きし一線家々に      右城暮石

 水の過少も困るが過剰も困る。1972年7月、郷里では未曾有の水害が起こった。町の中央を占める湖が連日の大雨のため氾濫し、死者12人、家屋全半壊114戸、浸水家屋24953戸という惨事を引き起こした。実家の周りの崖は崩れたが、高台にあったため水の被害はなかった。それでも水を含んだ土が粘り気を増して、辺りを凌駕しているように思えた。大事を取り時間を置いて町に出てみると、あっという間に足元が汚れた。異臭がしていた。今まで見たこともない光景が広がっていた。異様な興奮と脱力感とでふらふらしながら歩いていると、大人達が騒いでいた。「ここまで来た」と誰かが言った。「うちもここまで」と指さす人がいた。「浸水の引きし一線」、どの家にも水が住宅を襲った爪痕が同じ高さに残されていた。被災間もなく、引き去った水に等しく傷み、手を伸ばし合う人たちを繋げる印が残されていた。

みちのくの今年の桜すべて供花   高野ムツオ『萬の翅』 

 2011年は忘れられない年だ。3月11日に東日本大震災が起こった。これは地震だけの災害ではなかった。地震を起点とする津波だけでもなかった。震源地に近い福島県には原子力発電所という爆弾が置かれていた。平時では電力を生み出し人々の生活を活性化し豊かにするものであるはずのものが、大地震によってひとたび軌道を逸すると、手綱を操ることを拒む暴れ馬のように制御不能となり、人々の生活だけでなく命までも危険にさらした。渦中の人々は勿論のこと、遠巻きに見守る人々にとっても、その過程と影響を知るまで多くの時間を要した。だから、4月、目の前にあるのはただ、失ったものいなくなってしまった人たちの存在の空洞であった。いなくなってしまった人たちのかつていた場所さえなくなっていた。何に向かって手を合わせればよいのか途方に暮れるなか、桜だけが例年通り美しく咲いたのだ。せめてもの弔いの祈りとして。

 災害は遠いものだと思っていたが、振り返れば筆者のすぐ側にもそれはあった。身近に災害が起こった当時は、それが冬に雪が積もるのと同じで当たり前のように思っていた。けれども、地域によって冬でも晴天が続いたり、雪が積もらないところがあったりすることを体感すると、急に当事者としての痛みが全身を襲ってくるのだった。そして、年中途切れない災害の知らせに、耳を澄ませ、身をこわばらせ、体を丸めて無事を願う。
 また、こんなにも災害は頻発していた、何故、という疑問も生じる。単に知らなかっただけでは済まされないザワザワとした思いが日常の隙間をすっと突き刺す。そのように敏感に構えていても、真の当事者でなければ(当事者であっても)、整理することも消すこともできない形のない痛みがあって、そこを癒やすのには計測不能の時の経過が想像される。そのとき詩歌はどうしているだろう。

津波のあとに老女生きてあり死なぬ 金子兜太『百年』 

 津波の去ったあと老女がそこに生きている、と歓喜すると同時に、「死なぬ」と続く熱量の高い言葉の強さが読み手だけでなく、作者自身の気持ちをも奮い立たせる。生きよ、生き続けて欲しいという切実な願いもある。何があっても俯いていないで前を向こうというエールが、わずか18文字に凝縮されて放たれる。放たれた言葉の無限の光が、残された私たちを生かす。平常非常にかかわらず、作歌の姿勢が作品の真価を糺す。俳句の器はとても小さなものだけれども、盛られるのは底の知れない命への祈り、そして悲喜こもごもの生に寄り添うひとことひともじなのである。


俳句時評194回 令和のかわいい俳句鑑賞 三倉 十月

2025年02月25日 | 日記

 この詩客・俳句時評の「令和の俳句鑑賞」シリーズも、もう丸3年書かせていただいている。しょっちゅう締め切りを勘違いして、森川さんにはご迷惑をおかけしているのだが、ありがたいことに今年も引き続き書かせていただけることになった。

 俳句を鑑賞することがとても好きなので、とても張り切っている反面、今まで「妻」「親子」「SF」「食」「ファッション」「旅」「クリスマス」「酒」など、色々とあげてきたお題のネタが思い浮かばなくなってきた。そのため、今回は少し趣旨を変えて、形容詞をお題とし、「かわいい」俳句というものを、自分なりに掘り下げてみることにする。何故「かわいい」を選んだかと言うと、単純に私がかわいいものが好きだからである。

 ここで挙げるかわいいは、あくまで私基準なので、異論がある方もいらっしゃるかもしれない。しかし「美味しい」に絶対的な正解がないように、「かわいい」にも正解はないので、なるほど、そういう人もいるんだなと受け流してもらえたら幸いである。

 ちなみに「かわいい」を辞書で引くと、以下のように書いてあった。

かわいい【可愛い】
〔「かわゆい」の転。「可愛」は当て字〕
①深い愛情をもって大切に扱ってやりたい気持ちである。
②愛らしい魅力をもっている。主に、若い女性や子供・小動物などに対して使う。
③幼さが感じられてほほえましい。小さく愛らしい。
④殊勝なところがあって、愛すべきである。
⑤かわいそうだ。いたわしい。ふびんだ。
※例文は省略


『スーパー大辞林 3.0』三省堂

 どれもそうである気もするし、なんとなくズレている気もする。意味が①〜⑤まであるところから見ても、かわいいの絶対的な明確な定義はなく、どちらかと言えば主観で決まるものなのだろう。

 ただ、③④⑤の意味の印象からか「かわいい」と言うと、まるで対称を下に見ていると捉えられることもある。私にとって「かわいい」は感嘆の意味が大きく、今回の鑑賞では、対象を下に見るような意図は持っていない。また、そうに受け取られないように書いたつもりではあるが、至らぬ部分がありましたらすみません。

 久々に前置きが長くなった。
 句を鑑賞しながら、あくまで私の思う「かわいい」の輪郭を少しずつクリアにしていけたらと思う。なお、できるだけ控えようとは思いつつ、鑑賞文にも「かわいい」を連発してしまっているので、「かわいい」が苦手な方はご注意ください。

 


春の虹ひとすじクリームソーダ色   神野紗希

 まずは「かわいい」が似合う世界観の句。「春の虹」と「クリームソーダ」は、まさに「ゆめかわ」と呼ばれるジャンルの雰囲気が表現されている(ゆめかわ(夢かわいい)をご存じない人は画像検索してみてください)。ただ、かわいい、甘い単語を並べれば詩になるのかと言うわれると、もちろんそんなことはない。この句は「ひとすじ」と言う言葉で、空を描く弧をくっきり見せたことで、淡く優しい色合いの春の虹と、誰の思い出の中にもあるクリームソーダが結びつき、溶け合っていくところに妙があるように思う。


嘘つくは楽し白玉よく冷えし     箱森裕美

 この句も私が「かわいい」句を想う時に、真っ先に浮かぶ句の一つ。(大好きな句なので、多分前にも鑑賞したことがある)この句の、毒っぽさがある「」と言う言葉と、よく冷えた、カラフルなフルーツと共にある白玉が、少女(あるいは少年)の悪戯心と、ポップな視覚的なかわいさを絶妙に響き合わせている。厚いガラス越しに見つめるような、レトロな色彩と、ひやりとした冷たい感覚。これも私の大好きな「かわいい」だ。


絵日記のキリンに睫毛ハンモック   後藤麻衣子

 また少し変わって、こちらはおそらく育児の景。小さな子どもを描写した句は、もちろんかわいいのだが、その反面、甘くなりすぎてしまうことも多い。しかしこの句の景は子どもそのものではなく、子どもが発見した「キリンの睫毛」の絵日記のこと。発見の発見。世界を懸命に見ている子どもへの、親の丁寧な眼差し。季語のハンモックで、夏の休日に優しい風が吹き込む。

 

 次は、世界観ではなくて詠んでいる対象がかわいい句。ここでは動物の句を選んだ。

こはがりのおほきな犬と夕桜     福田春乃

 きゅん、としてしまう。大きな犬が怖がりであると言うギャップ。夕方、いつものお散歩中に桜が咲いていた。怖いところなどは何もなさそうなのに、飼い主だからこそ知っている「怖がり」という犬の性格が、ひたむきで健気な景になる。恐る恐る味わう桜。この子が安らいでいたらいいなと思う。


なめくぢの雨を嫌がりつつ雨へ    西村麒麟

 実物のなめくじを見てかわいいと思ったことは、ほとんどないのだが「雨を嫌がりつつ雨へ」という措辞は、どこか必死さがあって、いたいけな愛おしさを覚えてしまう。生き物が懸命に生きる姿に、こちらが勝手に意図を想像でつけてなぞっているだけなのだが。なめくじに塩振って悶絶しているところをかわいいと見ていないだけ、許されたい。


蟹が蟹素早く踏んで行きにけり    西村麒麟

 こちらも、踏まれた蟹に「イテッ」と吹き出しをつけることができるような、漫画っぽい景におかしみを感じる。小さきものたちが、小さきものたちだけで作り出す世界が、かわいいのである。ただ、ディズニーよりはスポンジボブを思い浮かべてしまうのはご愛嬌だ。


東風吹くや鞄を出づる犬のかほ    斉藤志歩

 これはもう、(犬が苦手な人以外)誰が見てもかわいいと絵面だと思う。東風は春の到来を告げる風のこと。春風と書くと甘くなって「犬のかほ」のかわいさが引き立たない気がする。かわいいものをかわいく描写しているわけではない、むしろさっぱりとした言葉を使っているところが、この犬のかわいさをた余すことなく表している。


 さて次は、少し変わって子どもが詠んだ句。最近発行された句具さんの『俳句アンソロジーHAIKU HAKKU2025』を読んでいたら、子どもの俳人を三名見つけたので、それぞれ鑑賞してみる。(もししたら他にも子どもの俳人がいたかもしれない、プロフィールの確認漏れがあったらすみません)

 子どもが作った句だから、それだけでかわいい俳句!と、安直なことを言うつもりは無い。だが、これらの句には、小学生、あるいは保育園児の彼らが、世界をじっと見つめて得た発見がある。そこに大人の目では拾えない愛おしさがあることは間違いないだろう。


いもうとを背負ひて走るひなまつり  想レベル7

 かっこいいお兄ちゃんの句である。ひな祭りに何か事件があったのだ。いもうとはかわいい。そしてその妹を助けるために、背負って走っているお兄ちゃんも、大人から見るとかっこうよくて、そして、やっぱりかわいい。そして、これがひなまつりの出来事だというのが本当にかわいい。


なつがきたよこどもはおとなとちがう 野口士朗

 こちらも小学生の句。大人は何かと「大人にも子どもの心が」とか「少年の心を忘れず」とか(図々しいことを)言いたがるが、子ども側から見れば、一緒にするなという話なのである。このきらきらした目の前の夏を何の濁りもなくわくわくと楽しむ心は、間違いなく子どもしか持ち得ないものだろう。そしてこの句は、子ども側からそれをキッパリと言ったことが偉い。大人が持つのはいつかの夏の記憶と、それに伴う憧憬。実際は暑いし、仕事もあるし、ビールは苦くも美味しい。それを知っている者には入れない領域があるのだ。


ゆうやけはいつもかわいいね     野口語生

 夕焼けはいつもかわいい。その発見を、句にしてくれたことが尊いと思う。夕焼けの赤と、揺らいで沈んで行く太陽、橙に染まる町を見て、作者の中に今ある語彙の中での、最大限の賛辞としての「いつもかわいい」という言葉は、愛されているからこそ零れたものなのかなと、想像してしまったりもする。


 さて、最後にいくつか高浜虚子の句を鑑賞してみたい。そもそも今回のテーマを「かわいい」句にしようと思ったのは、最近私が読んでいる高浜虚子の全句の中で「何だかかわいいな」と思う句が多いからである。

 虚子については勉強中なので、俳句史の中の彼の立ち位置や功績、人物像について、知らないことが多いので、ここで触れることはしない。ただ、純粋に読んでいて「かわいい気がする」と思った句を取り上げて、そのように鑑賞することだけは許してもらいたい。


蚊帳の月忽ちくもり蚊帳の雨     高浜虚子

 この句のどこがかわいいのか、と言われて上手く表現できるのかわからないのだが、強いて言うなら、思い通りにならない目の前の世界をそのまま素直に受け入れて書かれているところに、かわいい、という気持ちが浮かんだ。蚊帳の中から月を見上げて、詩を待っていたらあっという間に雨が降ってきた。「……」という吹き出しのあとに「これはこれでよし」という言葉が聞こえてきそうな、世界観である。


秋の蚊の大きな声をにくみけり    高浜虚子
手を洗ふにも昼の蚊のつきまとふ

 嫌いという感情を大の大人が醸し出している時、その対象がささやかであるほどギャップにちょっとしたかわいらしさが滲む。蚊はもちろん、誰にとっても鬱陶しい存在だ。一句目は昭和5年。「にくみけり」と、かなり強く感情を詠嘆しているところがかなり面白く感じた。あのぷ〜んという音が本当に嫌だったんだな、と。二句目は昭和13年、わざわざこの場面を句にしているところが、感情が滲み出ている気がして気になった一句である。


くはれもす八雲旧居の秋の蚊に    高浜虚子

 虚子の蚊の名句としてよく上がっているのはこちらの句であると思う。小泉八雲の旧居の蚊であれば、喰われもする。むしろ喜んで、とはいかないかもしれないが、蚊の嫌いぷりを知った後だと、この句もより深く味わえる気がする。


弁当うまし以ての故に紅葉よし    高浜虚子

 さて、こちらはどちらかというと、好ましいという感情の発露。昭和15年11月25日の修善寺にて。美味しいものを食べたら、世界は輝いて見えるのである。それを、つなげてわざわざ句にしているところが面白い。「以ての故に紅葉よし」の中にある、おちゃめな感じというか、遊び心が好き。


焼芋をたしめる老となりにけり    高浜虚子

 同じ時期の句である。昭和15年の11月。虚子は67歳。「たしめる」は「嗜む」の意味として受け取った。これまでに、様々な美味しいものをたくさん食べてきたであろう虚子が、焼芋をしみじみ味わっている姿が良い。


焼甘藷の味は主客に分ちなし   高浜虚子
 
 昭和18年。お客さんにも焼き芋を振る舞い、皆で和やかに食べている様子が浮かぶ。この句に「美味しい」とか「好き」とかそうしたことは書かれていないが、省略されている部分に焼き芋に対する大きな好ましい感情があるのが、滲み出ているところが良いなと思う。


目悪きことも合ッ点老の春    高浜虚子
足悪きことも合ッ点老の春
たいがいの事は合ッ点老の春

 昭和27年、11 月ごろから「老の春」の句を多く作っている。おそらく全部で二十句以上ありそうだが、その中で並んでいた三句。少しやけっぱちになっているようにも思うし、この「合ッ点」を作りつつ、ちょっと楽しくなってきたような感じも受ける。「たいがいの事は」と、割と大雑把にまとめたところに、おかしみがある。

こ の句を一つ読んで「かわいい」と評するのは違うのかもしれないが、続けて読んだら「なんだかかわいいな」と思ってしまった。老いることとは、弱ることでもある。その弱さを、どこか俯瞰して、諦めつつ受け止めている、それどころかそれをどこかユーモアを持って読んでいるところに、おかしさと親しみやすさを覚える。高浜虚子はこの時79歳。年があければ数えで80歳である。

 

出典
俳句アンソロジー 『HAIKU HAKKU 2025』 句具
同人誌 『編むvol.1』 後藤麻衣子
句集『すみれそよぐ』神野紗希(朔出版)
句集『鳥と刺繍』箱森裕美
句集『鷗』西村麒麟(港の人)
句集『水と茶』斉藤志歩(左右社)
『定本虚子全句』高浜虚子著 松田ひろむ編(第三書館)


俳句時評192回 多行俳句時評(14) 海辺と絶巓 斎藤 秀雄

2025年01月29日 | 日記

 かつて、安井浩司は、高柳重信を《どこまでも自らの手で病んでいなければならない》俳人と呼んだ。

われわれの歴史において、魂を鎮めることが、人間の上昇観念としてメタフィジックなものへ昇華してゆくのに反し、嘆きの投企は、どこまでも下降観念として、人々の血の中に誘導されてきたように思う。高柳重信の俳句作品を冥くよどむものは、どこまでも、この嘆きを呼び交わす血というものであるような気がしてならないのだ。
(略)氏の多行形式にうかぶ言葉や、さらに氏の俳句風景を逆算するかぎり、人間精神史の鬱積したところを暗澹と流れる血のようである。だから、そこをとっこにとれば、現実の俳句風景においても、俳句の革新とか、俳句日常の健康法とは、まずは絶対に結びつきがたい運命を感ずる。氏は、どこまでも自らの手で病んでいなければならないのだ。(「俳句形式の彼方――高柳重信の作品の性格について」『海辺のアポリア』邑書林、264頁。引用中、太字部分は原文では傍点)。

 自らの手で病むこと、すなわち、「健康」を積極的に拒否すること。この「健康」という言葉も、現代の我々にとっては、どこまでも鍵括弧つきで用いられなければならない類いのものではあるが、安井によっても、多分にニュアンス含みの言葉として用いられている。「健康」な俳人は、反復する。書いて、書き継ぐ。反復するとは、俳句を日常とすることであり、俳句を生活とすることである。それによって、俳句の側は、自己保存を成し遂げ、延命する。そしてまた、俳句自身の保存に貢献した俳人に、俳句は、楽しみを与え、慰藉を与え、鎮めを与え、救済を与える。かくして、俳人は「俳句の健康」に絡め取られ、俳句は「俳人の健康」を保証するようなやり方で、俳人や俳人の風景を布置・配置する、そうした平衡状態の円環が完成する。
 安井は、「俳句とは何か」という《正しい》問いに隠れている、「一人の俳人にとって、なぜ俳句なのか」という《きわめて邪まな悪意に満ちた問い》を発見する(「海辺のアポリア――なぜ俳句なのか」前掲書、12-3)。しかし、「健康な俳人」は、いともたやすく、この残酷で、危険な問いに、俳句の健康法の側が、俳句の生存戦略の側が用意した、「生活」という答えをもって、答えてしまう。彼等は、実存的にではなく、単独者としてではなく、俳句一般の、布置連関の内部の特殊として、あらかじめ俳句がしつらえた風景の内部において、自分に見えているものを見て、記述し、そこからの帰納として「俳句とは何か」の問いに「生活」と答え、しかるのちに、「なぜ俳句なのか」の問いに、同じ答えをしてしまう。自明である。彼等は共同体の内部においてしか考えていないのだから。否、「考える」ことを非‐俳句的な残余として、拒絶する。共同体に、俳句的世間に埋没するとは、そのようなことなのだから。

ささやかな俳句史をふり返るとき、俳句の詩論と称される類いのものは、みな、俳句とは何かを主題とした潤色と変奏であり、そこを踏みはずすものはない。俳句が自らに抱えたどんな文学的かつ生理的な問題も、この隧道に収斂されてゆくことである。たとえば、近代における山口誓子の詩論と実践、石田波郷・西東三鬼・加藤楸邨等にみられる彼等の詩論と俳句生活は、俳句をひとつの価値観の高みに引き上げることによってそれに答えており、彼等にとってなぜ俳句なのかという俳句形式からの根源的な問い返しにも、躇うことなく俳句の価値観をもってその答えに代えようとしたのである。しかし、どんな偉大な価値観も、それが価値観であることによって、所詮は価値観に屈した人生論を側杖にして立っている。彼等が詩論即生活をふとらした自明を知ることができるであろう。そこでは、自分が俳句に発し、遂に俳句がそれに相応した分を答える筋のものとして、俳句と己れの魂の正なる照応関係が結ばれる。己れの魂は、俳句形式との正なる照応によってのみ証明される。そして、その魂を支えるものは、俳句内方位に立てられた俳句的人格や、そういう人格を支える生活を待つほかはない。要するに、問うことと答えることの一致点に、俳句とそれに殉ずる己れの魂を契約することである。これもひとつの俳人格だと思うが、そういう俳句即魂が、彼等のためになぜ俳句なのかを程よく代弁してゆくのである。(同前、13-4頁)

 安井が《俳句と己れの魂の正なる照応関係》と呼ぶ、個々の俳人における諸現象(回避だとか防衛だとか呼んでもよいであろう。むろん縮減と呼ぶことを私は好む)は、容易に俳句の自己保存・均衡のメカニズムに利用されてしまう。このメカニズムのことを、安井は《定型詩の健康と日常を支える栄養作用》(同前、17頁)とも、《俳句形式の、あの小利口な自己保存の論理》(「渇仰のはて――俳句の文体と構造」前掲書、32頁)とも呼んでいる。

俳句は、生活以上のものを教えてはくれなかったのである。そればかりか、形式保存のために、一人の詩人の在りようを、生活とこそ答えるように俳句は影のように私を強迫するのである。(略)そういう俳句行為の持続の中に、俳句を書き続ければ書き継ぐほどに、俳句とは何かという命題は肥厚し、なぜ俳句なのかという命題はうすめられ、矮小化してゆく。形式へ殉ずるというきわめて詩の本質に捉えられた逆説が、遂には絶望としての正説に循環し、帰納してゆくのだ。(前掲「海辺のアポリア」、15頁)

 ところで、安井が《詩論即生活》とか《俳句即魂》とかといった言葉で指し示す、いわゆる「俳句即生活」というアイディアつまり発明物は、歴史的なものであることは確かだと思われるのだが(つまり進化論的な過程において、偶発的に獲得された、意味的リソースであって、普遍的な、ア・プリオリなものではない)、私にはそれをあとづける準備がない。しかし、重信が『弔旗』創刊号(1948(昭和23)年)に寄せた俳論では、すでに「俳句即生活」という用語・術語がやり玉にあがっているから、少なくとも70年以上の歴史は持つようだ。

俳壇で生産される多くの文章(略)には、あまりにも俳壇化され、都合よく俳壇的規模に和訳された文芸用語が、ほとんど無反省に氾濫している。(略)
たとえば「俳句即生活」という言葉が、まず誰かの身辺に誕生すると、それは、ちょうど戦争中に「天皇帰一」とか「一億一心」という言葉が、何の検討も批判もなく流行し慣用されたのと同様に、至極あっさりと受けいれられ慣用されてしまう。(略)俳壇が一段と向上するためには、私は、まず、この種の標語的な慣用語を検討し(略)なければならないと思う。言葉に対するあまりに素朴すぎる信頼を、ここで一度放棄して、それを徹底的に疑ってみること(略)(「大宮伯爵の俳句即生活」『高柳重信全集Ⅲ』立風書房、107頁)

 そしてまた、重信の他なるドッペルとでも呼ぶべき、大宮伯爵をして《「この頃、しきりに俳句即生活なんて言葉をきくがね、あんたは知っているかい。それはね、自活するくらいなら自殺するぞということなんだよ。本当は」》(同前、106頁)と語らせている。これもまたニュアンス含みの言葉である。もちろん、非常にシンプルに、身も蓋もなく、「俳句は食わせてくれないだろう。結社宗匠か、総合誌の編集者でもないかぎり、死ぬ以外にない」と解することも、可能かもしれない。これは《自活》を卑俗な意味で読んだ場合だが、あるいは仏教的な「自活の放棄」を含意しているようにも見える。反転して、自分の魂ぐらい、神や仏や俳句に頼らず、自分で救え、と言ってもよいかもしれない。しかし、安井が宗教的なニュアンスを籠めて記述したように、「俳句即生活」とは、まさに宗教的隠遁生活という隠れ蓑ではなかったか。「他力本願であります」と返答されるのがオチだ。重信の「自分の手で病む」道行きとは、「救われてたまるか、ざまあみろ!」という矜持ではないだろうか――という推論は私による過剰な自己投影に過ぎないだろうか。
 矜持、とうかつにも書いてしまった。重信についてしばしば言われるように、これは、態度の問題なのだろうか、と疑問に思う。つまり、ある種の「ヒロイズム」、「破れかぶれの気分」に過ぎないものなのだろうか。おそらく、そうではないだろう。私の考えでは、重信の認識論に根ざす事態である。ここで、問題のアスペクトを、高原耕治の重信論の側に差し向けてみる。

高柳重信は、自我意識、事物、言語の存在によって形成される一切の関係概念が、多行形式に顕現する《空白》や《虚性》、或いは〈ノッペラボウ〉に呪縛されてゆくのを認めざるを得なかったであろう。もはや、そこでは、存在観念が自足することは許されない。存在観念の《空白》や《虚性》。それは、自我意識の亀裂を意味するだけではない。自我意識が芽を噴き、発育する土壌である根源的存在基盤、要するに、己れの現存意識を育み、絶えず支えている根源的存在観念、そのロゴスのゆゆしき亀裂をこそ意味する。(高原耕治『絶巓のアポリア』沖積舎、335頁)

 そして、重信は、「身をそらす 虹の」の句の創造において、《絶対的空無性に、宿命的に遭遇する》(同前。太字部分は原文では傍点)のである(現在、句集『蕗子』の巻頭句として知られる「身をそらす虹の」の句は、初出の『群』昭和22年11・12月合併号においては、高原の表記するように、一字空白を含んでいた。本句の三つのバージョンについては、高原同書314頁を参照されたい)。
 私が言う「重信の認識論」の内包と、おおむね一致しているとはいえ、高原のターミノロジーについて、私の立場からの予防線を張っておきたい。高原の言う「空白」「虚性」「絶対的空無性」と、「ノッペラボウ」は、異なる。「ノッペラボウ」であることは、何かが存在することが可能である(ありえたかもしれない)という可能性と関係づけなければ、知覚することができない。これは「絶対的空無性」とは言えない。自我も、社会も、言語も、存立する基盤・地盤を持たない。俗に「社会の底が抜けている」などと言う。が、この言い方もまた、「底が存在する可能性もある(あった)」ことを不当前提しており、不正確である。社会(自我)が存在しない、のではない。社会(自我)の基盤などというものは、存在し得ない、のである。社会の基盤に「道徳」や「連帯(帰属意識)」を据えようとする形而上学者(あえて理論家とは呼ぶまい)はあとをたたない。彼等は、「俳句即生活」を唱え、生活に埋没し、自明性の内にまどろむ、世人(das Man)の姿に重なる。

 ここ〔引用者注:重信の論文「前衛俳句をめぐる諸問題」〕には、近代主義の主知的色彩を多分に纏った「主体性」とか自我などという漠然とした概念が、容赦なく、さも当然と言わんばかりに縦横に切り崩されている、と言うよりも、実のところ、この言説は、すでにこうした概念が成立し難いことを暗黙の前提とした上で、用意周到に吐かれている。そんなふうにみえる。(略)「主体性」の確立とは、まさしく「主体性」の崩壊に他ならぬという撞着(略)〈非在性〉を核に、あらゆる言辞が屈折と含羞を伴いながら循環しているようにみえる。(同前、352頁)

 ここでも術語上の予防線が必要になる。まず「近代主義」なる言葉の外延は、高原にとって「主知的色彩」「主体性」「自我」なのだろう。しかし「近代」のメルクマールとしてこれらを持ち出すのはむしろ近代初期・転換期・移行期・鞍点期的な振る舞いである(「自我」はともかく――自我とは「われ」である。古代ギリシアにさえ「われ」は在った)。現在ではもっぱら、近代の近代性と呼びうるものは、「再帰性(reflexivity, recursivity)」に求められる。すなわち、みずからを見ること。社会は、社会に基盤がないことを観察し、自我は、自我に基盤がないことを観察する。そのうえで、そうした「絶対的空無性」を埋め合わせる、ないし「展開する」やり方で、次の社会的・心的作動(Operation)を接続させてゆく。私は近代主義者である。術語上の予防線が必要となる次のものは、「非在性」である。前述のように、非在であることは、存在の可能性を前提とするゆえ、退けられる。高原は、みずからの道行きを「存在学」と名付けていた。これに対抗し、私は自分の立場を「ポスト存在論的認識論」と(ニクラス・ルーマンから借りて)呼んでおくことにする。
 ほんらい、こうした記事においては、私の「多行論」を展開するのが筋なのかもしれない。しかし、以上行ってきたような、長々とした前提の整理が、どうしても必要となる。この点が、私をして疲弊させる点であり、ある種の「絶望」をもたらすのである。
 しかし、それにしても、重信の「絶望」とは、俳句形式の不毛さの、非在の核に逢着したとか、そうした性質のものだったのだろうか。いや、むろん、重信がそう書いているのだから、それを疑っても詮無いことだし、疑っているわけではない。《それは、不可能を可能に変えるに等しいほどの、絶望を常に伴なう作業でもあった》(高柳重信「前衛俳句をめぐる諸問題」『高柳重信全集Ⅲ』、163頁)。しかし目下のところ、私が自己投影的に見出す「絶望」は、《徹底的に疑ってみること》なしに、《言葉に対するあまりに素朴すぎる信頼》が氾濫する状況に対するものである。この記事で読んだ安井浩司の論文は、コミュニカティヴであり、私には「光芒」に見えた。安井は、みずからが用いる図式(というのもあまりにも古典的なタームだが、古典的であることは、読者にとってアクセシブルであるということだ)を示している。〈健康/病〉〈魂鎮め/嘆き〉〈上昇観念/下降観念〉〈正しい/邪ま〉などなど。図式は、それが見ることができるものを見る。すなわち、その図式が見ることができないものを見ることができない。新しく、別の図式を導入するというのでなければ。したがって、図式は当該図式にとっての盲点(排除された第三項)となる。この盲点を利用して、観察者は観察することが可能となるのだ。かくして、安井の論文はコミュニカティヴなものとなる。次の作動(俳論というコミュニケーション)を接続させることができる。安井は、俳句の世界においてはほとんど奇跡と言ってよい程度に、「論の手続き」を踏まえている。
 こうした「論の手続き」の欠落という事態が、私の絶望の源泉なのだ、という念押しをして、この稿の締めくくりとしたい。


俳句時評193回 川柳時評(14) 時代性の消失以後という時代に―原田否可立について 湊 圭伍

2025年01月23日 | 日記

 今回は(今回も?)、個人的な視点、主観的な「見え方」からの文になります。
 髙良真美『はじめての近現代短歌史』(草思社)を読んだ。のっけから「短歌史とは秀歌の歴史のことです。」と宣言(?)があり、そっかあと一時停止してしまった。というのも川柳作家としては、同じように、「川柳史とは秀句の歴史のことです。」と断言できるとはとても思えないからだ。もっとも、上の宣言の後は、「その時代の色眼鏡をかけてみると、いままでピンとこなかった歌がおもしろく読めるようになるかもしれません。」とつづき、秀歌とされている歌を単に並べると短歌史になる、という簡単な話ではなく、微妙なニュアンスが入ってくるのだけれども。
 それにしても、「その時代の色眼鏡」が「短歌」という独自の世界である意味連続(そして断絶)しているのだから、「短歌史とは秀歌の歴史」という断言が出てくるのだろう。川柳史において「その時代の色眼鏡」があるとしても、それは川柳の中でのつながりや断絶ではなく、むしろ、外の世界のうつりかわりによって濃く色づけられている。そうなると、それは、そもそも川柳史は不可能だということに帰結する気がする。
 もちろん、前句付(あるいは、その前史?)から始めて、狂句、「新川柳」以降の近現代川柳の動きをたどり、各時点、各傾向における興味深い作品を並べることはできるし、さまざまなかたちでそれはすでに為されている。それを川柳史と呼んでも別に悪くはない。ただし、それは「川柳」なるものの本質(があるのか?)とは関係ない「様々な意匠」を併置しただけになりそうだ。
 『はじめての近現代短歌史』は他にも学ぶところや考えさせられるところが多い本だった(特に自由律短歌や短歌におけるフェミニズムの展開など)。
 ただ、大きな違和感、正直を言えばかなりのショックを覚える部分があった。それは、1990年代の社会事象への関心の薄さだ。
 1970年代前半生まれの私にとっては、現在までの日本における決定的な転換点は、阪神大震災と地下鉄サリン事件があった1995年(それとその手前のバブル経済とその破裂)である(異論はぜんぜん認めますよ)。『はじめての近現代短歌史』においては、これらの出来事は、岡井隆が歌会初めの選者になったことと同格に一パラグラフのみの扱いで並べられている。そのバランスを確認するために以下に引いてみる。

 一九九二年末には岡井隆が翌年から歌会始の選者に就任すると発表され、前衛短歌の批判精神は天皇制にまで及ばないのかと衝撃を与えました。歌壇では様々な発言が飛び交いましたが、特に知られているものには佐々木幸綱による時評の「俺は行かない」(『現代短歌雁』二七号)です。短歌と天皇制の問題については、内野光子が多くの評論を書いています。
 九五年に起こった阪神淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件も、世紀末の感覚を強めていきました。これに際しても多くの社会詠が読まれています。そして明治末創刊の『アララギ』は一九九七年一二月号で終刊となります。九〇年代は短歌の世界が激変していることを否応なしに感じることになった時期だと言えるでしょう。(髙良真美『はじめての近現代短歌史』、pp.254-255)

 さすがに一歌人に関する短歌界の出来事(国家が絡んでいるとはいえ)と、上の2つの大事件が同格ということはありえないと私は思ってしまう(よく見ると、後者は二行のみで分量として半分以下か―「多くの社会詠が読まれています」とありつつ一首も引かれていないから、その中には「秀歌」はなかったのだろう)が、それも世代(場所も?)による経験の違いによるものとすればしょうがないのかもしれない
(比べて、2011年(3.11)は重視されている・・・私にとっては2011年は転換点となりえたかもしれないがなり損ねて、1990年代からの流れを継続したに過ぎないのだが)。
 もうひとつ、やはり短歌の世界の人間ではないものからすれば、「ニューウェーブ」の評価(位置づけ)が大きすぎるのも気になる。というか、「ニューウェーブ」主導の時期が短歌史に占めている時間を長くとっているというべきか。1990年代を通じて(ということは私が感じた1995年における歴史の裂け目)と関係なくのっぺりと、1980年代から2000年代にかけて「ニューウェーブ」が短歌の世界を覆い、ある意味、時代の変化に気づくことなく短歌は21世紀にうわすべりしていった、というように読めてしまった。
 実際には、「ニューウェーブ」の中核の一人、荻原裕幸は次のように述べている。

 一九九〇年代のはじめころ、ぼくの分析では一九九四年、大震災と地下鉄サリン事件の前年まで、従来の短歌定型に対して、口語を入れる、記号を入れる、あるいは過剰なオノマトペを入れるというかたちでの異化効果を狙った表現が、定型を壊すのではなくて新しいかたちで定型を生かすという効力があったのですが、その後、バブルが崩壊したかのように効力が失われたような感じがしています。https://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/times14.html

 初期「ニューウェーブ」の試みは失効したという感覚は歌人にあったようだ。また、「ニューウェーブ」以外の短歌の流れも、1995年の断絶に挑みながらたいした成果をあげられなかった、という私個人の感覚もある(検証抜きですみませんが)。
 「短歌史とは秀歌の歴史のことです。」という断言に戻ると、1990年代の大きな出来事に対する「秀歌」は同時代的にはなかったのではないか(のちに、サリン吸い堕胎を決めたるひとのことそのはらごのことうたえ風花/鈴木英子『油月』(2005)のような「秀歌」―というよりも、より現在の痛みに直結する歌―が書かれたとは言え。「阪神淡路大震災に際しての歌」として引かれている「破壊もまた天使であるとグレゴリオ聖歌が冬の神戸を駆ける/尾崎まゆみ『酸っぱい月』(1998)」はよい歌だが時代を軽々と超えてしまっているように思える)。おそらくそれがありえたとしたら、私にとっては(←ここ強調)、もっとも共感と驚きをもってくりかえし立ち返る短歌史的時点となっただろう。
 言い換えると、『はじめての近現代短歌史』は良書で、一読というか数読をおすすめする本ではあるものの、私にとっては、私がいちばん読みたいことが書かれていない本だった。著者の記述が不十分であるというよりは、私がいちばん読みたいことは、短歌史=「秀歌の歴史」には存在しない、という意味だ。
 というふうに、短歌史について個人的な視点から考えさせられたわけだが、川柳史(というものがありえるとして)において同じような時代の裂け目を考えてみると、その一歩手前のバブル経済期にそれはあるのだと思う。そして、川柳の「秀句」がその裂け目に立ち向かって書かれたかというとそれも心もとない。
 別の観点から言ってみる。「川柳史において「その時代の色眼鏡」があるとしても、それは川柳の中でのつながりや断絶ではなく、外の世界のうつりかわりによって色づけられている」と書いた。ということは、川柳史が成立するのは、「外の世界のうつりかわり」がある種の連続性をもつものとして世の中に直覚されているかぎりにおいてである。そして、このある種の連続性というやつが、1970年代から80年代にかけて消失していったのである。
 そして、その消失に向き合った句は同時代的には書かれず(あるいは、注目されず)、私たちがいま書きつつある川柳が、ようやく、その消失の(変な言い方だけれども)余波を写しとっている気がするのである。

 1998年から愛媛・松山で発行されてきた川柳誌『せんりゅうぐるーぷGOKEN』が2024年12月号で終刊となった。そのすぐ後の2025年1月8日(水)に、ぐるーぷのリーダーであった原田否可立が亡くなった。1973年から川柳を始め、保守的な川柳が多いと言われてきた愛媛の川柳界で、「前衛的」な作句を最後まで貫いた、と月並なことを書いてもよいかなと思う。
 ただ、本当は「前衛的」(とはだが、今さら何だろう?)かどうかは関係なく、否可立さんは上で述べたような「消失」に向き合おうとし続けていた作家だった。その意味で、いま川柳を書き始めようとしている世代とまったく変わらない地平で川柳を書き続けていたのだ。改めて、驚異的なことだと感じる。
 私の手元にある『せんりゅうぐるーぷGOKEN』より、否可立さんの句を引く。( )内は発行年月と号数。

赤い半紙に書ける句はあるか (2020年10月 第114号) 

死後硬直のような川柳を目指す (同)

四国の雪廃仏毀釈の後 (2021年6月 第118号)

内股にバラの刺青ささやきだす (2021年8月 第119号)
 
金魚用の目薬 乾いている (同)

天秤の片方に骨 軽い白い (2021年2月 第116号)

紙パンツの「うしろ」が読めるだけでも (2022年8月 第125号)

夏は終わった裏声で逃げる (2022年10月 第126号)

落語会のチラシは落としてもいいかも (2022年12月 第127号)

命令形が増えるどちらかが急ぐ (2023年2月 第128号)

生きている宗教学者 若い (同)

手製の銃 無駄な弾使わない (2023年4月 第129号)

人間の恋じゃなかったとも言えず (同)

人差し指 リセットボタン押したがる (2023年6月 第130号)

考えは変えない 次のページは薄い (2023年10月 第132号)

地球儀の輪切りは燃えるか燃えないか (2023年12月 第133年)

体育会系の声が先 その他おおぜい (同)

心音の完成 音遊び男遊び (2024年2月 第134号)
 
シンパシーテレパシー 頭で作る音楽 (同)

赤がない 少しだけ軽い闇 (2024年6月 第136号)

時計が鳴る 起承転結 (2024年10月 第138号)

永かったGOKENが飛んでいる (2024年12月 第139号)

意味のないGOKENは続く意味のないままで (同)