宮田登さんの『山と里の信仰史』によれば、「講」は、仏教寺院の講会に発し、講経に際して集会する仲間を意味しており、「講」の名称は中世以来の民間社会に広範囲に見られたものだという。「講」は大別すると、「ムラ内部から発生した講」と、「外部から伝播・導入された講」があり、「代参講」は、一般に近世中期以降簇生(そうせい)したといわれ、中でも豊富なのは「山岳代参講」であったと、宮田さんは指摘されています。三峯講・御嶽講・戸隠講・秋葉講・出羽三山講・富士講・大山講などがそれにあたります。江戸幕府は「新義異宗の禁」を徹底し、すみずみまで檀家制度を行き渡らせましたが、「実際には多様な呪者としての宗教家たちがムラに流れこんで」おり、宮田さんはそれらの宗教家たちを「徘徊する宗教者」とも表現しています。各山岳信仰の元締である「御師」は、毎年、時期になると護符を配布して回って信仰圏を拡大していきましたが、その「配札圏」は「御師」たちの生活基盤でもありました。特に関東地方において活発に活動し、その「配札圏」を拡大していったのは、大山信仰の元締である大山の御師たちであり、また富士山信仰の元締である富士山の御師たちでした。しかし、この「御師」たちとつながる「大山講」や「富士講」といった「代参講」の場合、地域住民(農民や町人など)の積極的な宗教活動が優先し、「在俗信者の側にイニシアチブをにぎられてい」たという点において、檀家制度で守られた既成仏教における信徒のつながりとは大きく異なる特色を持っていました。 . . . 本文を読む