鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その7

2011-08-17 06:29:43 | Weblog
甲州街道を経て上吉田に至り、御師の宿坊に泊まって富士山頂に登り、須走へと下山して足柄峠を越えて大山経由で戻る、という富士講の人々のもっとも一般的なコースには、いくつかのポイントがありました。まず最初のポイントは高尾山(薬王院山坊)に参詣すること。富士講は必ず高尾山に登り、尾根伝いに小仏峠へ出るコースを辿りました。富士講の人々にとって高尾山は「富士山の前立ち」という意味合いがあったのです。2つ目のポイントは小仏峠。この峠の上には「身禄茶屋」があって、店内には身禄像などを祀っていました。尾根伝いにここへやってきた富士講の人々は、ここの「身禄茶屋」に必ず立ち寄りました。3つ目のポイントは、大月宿から上吉田に向かう途中の小沼宿で休憩すること。ここにも「身禄茶屋」があって、そこには身禄の旅姿の像が置かれていました。4つ目のポイントは七合五勺の烏帽子岩の元祖室。ここの石室には烏帽子岩近くで入定した身禄の遺骨が納められたとされ、富士講徒は必ずこの元祖室を参詣しました。五つ目のポイントは、吉田拝所で内院(噴火口)に向かって拝みを上げ、初穂(お賽銭)を投ずること。六つ目のポイントは、帰途、大山に詣でること。大山は「富士山の後立ち」であり、富士山を参詣したら「片参りはいけない」とされました。したがって、高尾山・小仏峠・甲州街道・ふじ道・上吉田・吉田口登山道・須走口登山道・足柄峠・矢倉沢往還(大山街道)は、富士山が「山開き」ともなると、おびただしい数の富士講徒たちで賑わったのです。甲州街道・ふじ道・足柄道・矢倉沢往還などの各宿の繁栄は、この富士講徒たちの「富士山道中」と深く関係していました。 . . . 本文を読む