鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その最終回

2011-08-29 06:03:32 | Weblog
『小山町史(第九巻民俗篇)』によると、文政13年(1830年)、須走村には東表冨士浅間神社の御師として17名がいたという。この御師たちは自分たちの家を富士講中の宿にあてており、昭和初期においても、富士講の宿は以下のように10軒を数えたという。富士本屋・扇屋・武蔵屋・大甲学・小申学・半山館・大米谷・甲州屋・穂積館・高村屋。この須走村の御師の経営する宿の繁栄は、おそらく富士講が爆発的に広がって「富士山道中」が盛んになった寛政年間から文化年間になってからのことと思われますが、特に明治中期に東海道本線が開通し、さらに御殿場馬車鉄道が新橋(にいはし)~須走間まで明治32年(1899年)に開通すると、それを利用する富士講徒たちや一般の登山客で賑わったものと思われます。明治末から大正の頃と推測されますが、宿は7~8月の2ヶ月で1年分を稼いだといい、ある宿では、16の客間計210畳の畳の上に最高350人を泊めたこともあったとのこと。登山客の昼食のために女中たちはほとんど徹夜で1000個以上のお握りを作ったといったことも記されています。手伝いの男衆や女衆(女中)を夏の時期だけ近辺の村々から雇い入れましたが、それは周辺の村々の貴重な収入源になっていました。しかしその須走の宿が賑わいを見せたのも、戦勝祈願を兼ねての参拝があった太平洋戦争の半ば頃までのことであったらしい。 . . . 本文を読む