富士スバルライン五合目の駐車場から延びてくる登山道と、吉田口登山道が合流する地点あたりから、登山道は幅広となって整備され、スバルライン五合目から上がってきた登山者たちで登山道はいっぱいとなりました。
山ガイドの青年に案内されたツアー客のような集団もいて、ガイドの指示・指導のもとにゆっくりゆっくりと登山道を登っていきます。歩幅を小さくして、石ころや大きな段差を避けて、なるべく平たいところを踏みしめて、途中定期的に休憩を入れながら登っていくのが山登りの鉄則ですが、ガイドの青年は、その基本を押さえて集団を率いています。
集団の中には、カラフルな装いのいわゆる「山ガール」たちも含まれています。またツアー客ではないけれども、3、4人連れの典型的な「山ガール」たちもいて、着用している登山着も登山靴も、ほとんど汚れていなくて新品同様。
4年前に御殿場口登山道を利用して富士登山をした時よりも、確かに若い女性の登山の装いはオシャレでカラフルになったことを実感しました。
登山道の周囲は灌木さえもまったくなくなり、背の低い高山植物が石ころまじりの火山状の赤黒い斜面に点在して広がり、下界も上の方も霧のために視界が効きません。
ようやく午後4時を過ぎて、上空の澄んだ青空が見えてくるようになりました。
七合目の「花小屋」に到着したのは16:26。「ここは七合目(標高2,700m)」と案内標示があり、ここが標高2,700mであることがわかります。この先には「日の出館」「七合目トモエ館」があることも、その案内標示からわかります。
ここからの下界の眺めは、一面雲海で、雲海の上には白く薄い雲とそこから垣間見える青い空。
「七合目日の出館」を過ぎ、「七合目トモエ館」に着いたのは、16:46。
ここには「山小屋ミュージアム」と記された看板があって、「トモエ館」の名前の由来や「富士講」、「マネキ」についての説明が書かれていました。「トモエ館」という名前は、小屋の所有者の家紋から来ているとのこと。もとは五合目の「天地境館」にあり、そこから昭和30年(1955年)に移築したものだという。
この「天地境館」というのは、『絵葉書にみる富士登山』P23中に写っている「五合目天地界 刑部」「天地界五合目ホテル 刑部東吉」と記された看板が掛かっている山小屋のことだと思われます(二人の子どもが写っている写真)。
その五合目にあった「天地界館」が、昭和30年に五合目からこの七合目に移って、「トモエ館」と名前を変えたのでしょう。
「富士講」の説明では、「富士講には基本的に専業の宗教者がおらず、指導者も生業を持つ半僧侶的存在であるような庶民による信仰だという特徴を持つ」というところに興味が惹かれました。この「指導者」とは、「大先達」や「先達」のことを指していると思われ、確かに彼らは信仰上での指導者であり、また登山(富士山同中)の指導者でもありましたが、通常は自分の仕事を持ち、自分の生業に励む庶民の一人でもありました。「半僧侶的存在」とも言えるかどうか。彼らは「僧侶」ではありません。
「富士山七合目救護所」の横を過ぎ、「鎌岩館」に着いたのが16:55。ここにも「山小屋ミュージアム」があって、「鎌岩館」の名前の由来が記されています。それによれば「鎌岩」は、七合目一帯の岩場を指す「鎌岩尾根」から来ているという。確実に「鎌岩館」のことが書かれている文献は、万延元年(1860年)の『富士山道知留辺』で、茶屋(山小屋)として当時から親しまれていたことがわかるとのこと。相当に長い歴史を持つ山小屋のようです。ちなみにここの標高は2,790m。
私たちが目指す山小屋は、さらにその上にある「富士一館」でした。到着したのは17:09で、ここにも「山小屋ミュージアム」があり、昭和15年(1940年)に火災で小屋が焼失した後、四方が石で覆われた「石室(いしむろ)」から、近代的な建築を富士山の山小屋の中で一番早く導入したことから、「富士一館」と名付けられたものであるらしい。現在の「富士一館」の建物は2010年に建て替えられたばかりであり、富士山で一番新しい山小屋となっているといったことも記されています。
80歳を超えたという「うちのばあさん」がやっている山小屋というのは、この「富士一館」でした。五合目の佐藤小屋のところから後になり先になり、吉田口登山道を登ってきた二人連れのうち、五十代のおじさんの母親が、今も元気に山小屋を切り盛りしており、電話連絡をすることなしに3年ぶりに突然訪れた息子の来訪に、一瞬おどろきつつもその来訪をとても喜んでおられる。
「お客さんを連れてきた。浅間神社から吉田口登山道を登ってきた人だ」
と私を紹介してくれました。
汗と高さで体が冷えてきて震えが出てきたので、中で着替えをし、焼印を熱するための入口隅にある囲炉裏のところで体を温めながら、その息子さんからいろいろと興味深い話を聞かせてもらいましたが、私事にわたるためここでは紹介しません。
千葉県の木更津にお住まいという。
「木更津からは富士山が見えるでしょう。富士山が見えると、山小屋で働いているお母さんのことを考えませんか」
と聞くと、
「いや、考えたことはないよ。ただ富士山が見えると、今でも寂しい気分になる」
と、意外な言葉が出てきました。
「へぇー、どうしてですか」
と聞くと、
「子どもの頃、山開きの一ヶ月ほど前から山小屋の準備で両親は家からいなくなり、夏いっぱい、そのまま家には帰ってこなかったから、子ども心に両親がいないことがとても寂しくて、その気持ちが今でもよみがえってくるから」
といった答えが返ってきました。
子どもにとってはたしかにそうであったかも知れない、と私は納得したのですが、その話が、お聞きしたたくさんの興味ある話の中でも一番印象に残りました。
「富士山を見ると寂しく感ずる」という人は、しかし、おそらくごく少数であり、そういう特別な事情を抱えている場合に限られるのではないかと思われました。
それでも、私にとってちょっと意外な感想であったことはたしかです。
続く
○参考文献
・『山と里の信仰史』宮田登(吉川弘文館)
・『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)
山ガイドの青年に案内されたツアー客のような集団もいて、ガイドの指示・指導のもとにゆっくりゆっくりと登山道を登っていきます。歩幅を小さくして、石ころや大きな段差を避けて、なるべく平たいところを踏みしめて、途中定期的に休憩を入れながら登っていくのが山登りの鉄則ですが、ガイドの青年は、その基本を押さえて集団を率いています。
集団の中には、カラフルな装いのいわゆる「山ガール」たちも含まれています。またツアー客ではないけれども、3、4人連れの典型的な「山ガール」たちもいて、着用している登山着も登山靴も、ほとんど汚れていなくて新品同様。
4年前に御殿場口登山道を利用して富士登山をした時よりも、確かに若い女性の登山の装いはオシャレでカラフルになったことを実感しました。
登山道の周囲は灌木さえもまったくなくなり、背の低い高山植物が石ころまじりの火山状の赤黒い斜面に点在して広がり、下界も上の方も霧のために視界が効きません。
ようやく午後4時を過ぎて、上空の澄んだ青空が見えてくるようになりました。
七合目の「花小屋」に到着したのは16:26。「ここは七合目(標高2,700m)」と案内標示があり、ここが標高2,700mであることがわかります。この先には「日の出館」「七合目トモエ館」があることも、その案内標示からわかります。
ここからの下界の眺めは、一面雲海で、雲海の上には白く薄い雲とそこから垣間見える青い空。
「七合目日の出館」を過ぎ、「七合目トモエ館」に着いたのは、16:46。
ここには「山小屋ミュージアム」と記された看板があって、「トモエ館」の名前の由来や「富士講」、「マネキ」についての説明が書かれていました。「トモエ館」という名前は、小屋の所有者の家紋から来ているとのこと。もとは五合目の「天地境館」にあり、そこから昭和30年(1955年)に移築したものだという。
この「天地境館」というのは、『絵葉書にみる富士登山』P23中に写っている「五合目天地界 刑部」「天地界五合目ホテル 刑部東吉」と記された看板が掛かっている山小屋のことだと思われます(二人の子どもが写っている写真)。
その五合目にあった「天地界館」が、昭和30年に五合目からこの七合目に移って、「トモエ館」と名前を変えたのでしょう。
「富士講」の説明では、「富士講には基本的に専業の宗教者がおらず、指導者も生業を持つ半僧侶的存在であるような庶民による信仰だという特徴を持つ」というところに興味が惹かれました。この「指導者」とは、「大先達」や「先達」のことを指していると思われ、確かに彼らは信仰上での指導者であり、また登山(富士山同中)の指導者でもありましたが、通常は自分の仕事を持ち、自分の生業に励む庶民の一人でもありました。「半僧侶的存在」とも言えるかどうか。彼らは「僧侶」ではありません。
「富士山七合目救護所」の横を過ぎ、「鎌岩館」に着いたのが16:55。ここにも「山小屋ミュージアム」があって、「鎌岩館」の名前の由来が記されています。それによれば「鎌岩」は、七合目一帯の岩場を指す「鎌岩尾根」から来ているという。確実に「鎌岩館」のことが書かれている文献は、万延元年(1860年)の『富士山道知留辺』で、茶屋(山小屋)として当時から親しまれていたことがわかるとのこと。相当に長い歴史を持つ山小屋のようです。ちなみにここの標高は2,790m。
私たちが目指す山小屋は、さらにその上にある「富士一館」でした。到着したのは17:09で、ここにも「山小屋ミュージアム」があり、昭和15年(1940年)に火災で小屋が焼失した後、四方が石で覆われた「石室(いしむろ)」から、近代的な建築を富士山の山小屋の中で一番早く導入したことから、「富士一館」と名付けられたものであるらしい。現在の「富士一館」の建物は2010年に建て替えられたばかりであり、富士山で一番新しい山小屋となっているといったことも記されています。
80歳を超えたという「うちのばあさん」がやっている山小屋というのは、この「富士一館」でした。五合目の佐藤小屋のところから後になり先になり、吉田口登山道を登ってきた二人連れのうち、五十代のおじさんの母親が、今も元気に山小屋を切り盛りしており、電話連絡をすることなしに3年ぶりに突然訪れた息子の来訪に、一瞬おどろきつつもその来訪をとても喜んでおられる。
「お客さんを連れてきた。浅間神社から吉田口登山道を登ってきた人だ」
と私を紹介してくれました。
汗と高さで体が冷えてきて震えが出てきたので、中で着替えをし、焼印を熱するための入口隅にある囲炉裏のところで体を温めながら、その息子さんからいろいろと興味深い話を聞かせてもらいましたが、私事にわたるためここでは紹介しません。
千葉県の木更津にお住まいという。
「木更津からは富士山が見えるでしょう。富士山が見えると、山小屋で働いているお母さんのことを考えませんか」
と聞くと、
「いや、考えたことはないよ。ただ富士山が見えると、今でも寂しい気分になる」
と、意外な言葉が出てきました。
「へぇー、どうしてですか」
と聞くと、
「子どもの頃、山開きの一ヶ月ほど前から山小屋の準備で両親は家からいなくなり、夏いっぱい、そのまま家には帰ってこなかったから、子ども心に両親がいないことがとても寂しくて、その気持ちが今でもよみがえってくるから」
といった答えが返ってきました。
子どもにとってはたしかにそうであったかも知れない、と私は納得したのですが、その話が、お聞きしたたくさんの興味ある話の中でも一番印象に残りました。
「富士山を見ると寂しく感ずる」という人は、しかし、おそらくごく少数であり、そういう特別な事情を抱えている場合に限られるのではないかと思われました。
それでも、私にとってちょっと意外な感想であったことはたしかです。
続く
○参考文献
・『山と里の信仰史』宮田登(吉川弘文館)
・『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)
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