鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その12

2011-08-28 06:09:40 | Weblog
 「御来光」を眺めてから、再び登山を開始して、「冨士山頂上浅間大社」と刻まれた標柱の前に立ったのが5:40。

 北口の頂上は登山者で溢れていました。前回の御殿場口からの富士登山でも感じたことですが、富士山の登山者にはなぜか若い人たちが圧倒的に多い。また外国人も多く、その二点において、他の山の登山者層とは異なります。

 北口の頂上でしばらく休憩をとった後、前回は出来なかった「お鉢めぐり」をすることに。

 「お鉢めぐり」とは、富士山頂の峰々をたどり、噴火口を一周することですが、その本来の意味合いは「八葉めぐり」であり、「お鉢めぐり」は「お八めぐり」から転化した言葉であるという。

 『絵葉書にみる富士登山』には、次のように解説されています。

 「八葉は仏像の台座にみられる蓮華の八弁のことで、仏教信仰が中心であった江戸時代以前の富士信仰では、噴火口を内院と称し、その周囲の峰々は八葉の蓮弁になぞられた。それぞれの峰には仏の尊名があてられ、これらを順拝しながら一周することが本来の八葉めぐりであった。進行方向は時計回りが一般的である。」

 ①地蔵岳→②阿弥陀岳→③観音岳→④釈迦岳→⑤弥勒岳→⑥薬師岳→⑦文殊岳→⑧大日岳

 という順番。

 ところが、明治元年の神仏分離令によって廃仏毀釈運動が展開され、江戸時代まで存続した冨士山中の仏教関係の地名や施設名は変更され、仏像は噴火口に廃棄、あるいは里に降ろされたという(『絵葉書にみる富士登山』解説による)。

 この神仏分離令による廃仏毀釈運動は、かなり徹底的に行われたようで、富士山中だけでなく丹沢山中においても行われているし、全国各地で行われています。

 修験者や修験道関係で命名されてきたと思われる仏教的な山の名前も、変更を余儀なくされました。

 吉田口登山道の頂上右手には「薬師岳」があり、「薬師堂」がありましたが、それは「久須志岳」と「久須志神社」となり(明治7年〔1874年〕)、同様に村山口登山道の頂上右手には「大日岳」と「大日堂」がありましたが、それは「浅間岳」と「浅間神社奥宮」となりました。

 江戸時代の登山道や頂上の様相は、神仏分離令による「廃仏毀釈」以前と以後とでは大きく異なります。

 吉田口(北口)登山道の頂上にあるのは「久須志神社(東北奥宮)」であり、そこから時計回りに、「お鉢めぐり」という富士山頂の早朝ウォーキングを開始しました(6:00)。

 久須志神社の方にお聞きすると、「お鉢めぐり」のお勧めコースはやはり「時計回り」であり、その理由は「剣ヶ峰」(最高点)を越えてしまえば、あとは下りになるからだとのこと。逆回りだと、「剣ヶ峰」へ徐々に登っていくからきついコースになる、ということでした。

 「御殿場口登山道」の案内標示があるところに出たのが6:22。

 案内板には、

 「御殿場口の誇る最大の特色は、下山道『砂はしり』です。箱根山・駿河湾を見おろしながら一歩3メートル余りで下る下山道は他の口では味わえない醍醐味が満喫できます。」

 とありました。

 ここから「砂走り経由」の御殿場口新5合目までの所要時間はおよそ3時間。

 浅間大社奥宮を右手に見て、「剣ヶ峰」へのかなりきつい上り坂を登り、最高点を左手に見て、稜線を上り下りしていきます。

 残念ながら霧のために、下界の方はまったく見えず。噴火口にわずかに残る雪渓などはよく見ることができました。

 「←0.8km剣ヶ峰 →0.4km久須志神社」の案内標示が現れたのは7:55。

 右手、「西安ノ河原」にポツンと見えてきた施設は「金明水」。「浅間ヶ岳」の麓に「銀明水」がありましたが、この両方とも、日照りでも涸れず雨が降っても溢れることはない山中の霊水であり、諸病に効果があるとされてきたという。

 遠目には水はないように見えましたが、登山道沿いには、水を汲み上げるための電動機のようなものが設えてありました。

 もとの吉田口(北口)頂上にある久須志神社の前に戻ったのは8:06。

 「お鉢めぐり」は、一周約2時間のコースでした。

 そこから、「←須走口五合目6.2km160分 須走ルート」の案内標示に従い、そのルートへと足を踏みだしたのは8:11でした。


 続く(次回が最終回)


○参考文献
・『富士山御師』伊藤堅吉
・『絵葉書にみる富士登山』


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