鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その8

2011-08-18 10:18:33 | Weblog
「三合目 三軒茶屋(現・中食堂)」の案内板が現れたのは12:57。その案内板によると、ここには江戸時代から茶屋(山小屋)が2軒あったが、古くから三軒茶屋と呼ばれていたという。見晴らしがよく、また麓の上吉田を出発すると、時間的にここで昼食をとることが多かったため、後には中食堂(ちゅうじきどう)とも呼ばれたとあります。

 例の『絵葉書にみる富士登山』のP21~22に、中食堂の写真が3枚掲載され、またP9には彩色されたカラー写真の中食堂が載っています。

 この写真を見ると、登山道の両側に茶屋があり、軒先や室内には富士講の「マネキ」(講旗)が多数垂れ下がっています。右側の茶屋前の柱には「北口三合目 中食堂」と赤地に白く記された看板があり、その下の奥に小さな祠が見える。この小祠が、道了・秋葉・飯綱の三神の銅像を祀るもの(三社宮)。

 解説によると、この小祠は元禄元年(1688年)に富士講五世にあたる行者が造立したものとありますが、もちろん「富士講」という名称は身禄の後に生まれているから、長谷川(藤原)角行から五世の「富士の行者(藤原角行)」が造立したものということになります。

 右側が谷側で、ここから下界のの景色(河口湖など)がよく見えたという。

 現在、この茶屋の建物も三社宮も立入りは出来ないようになっており、また朽ち果てて傾いています。多数の「マネキ」が風に揺れ、多くの登山者が小憩をとっている、まだ吉田口登山道が盛んに利用されていた頃の中食堂を写した古写真の面影は、ほとんど失われています。

 それにしても彩色された絵葉書写真に見る中食堂の「マネキ」は、赤・黄・水色・紺色等さまざまな色で、その布地に講名などが染め抜かれており、賑やかな雰囲気を醸し出しています。馬に乗った紳士が写っているということは、この写真が撮られた頃までには、「馬返」からさらにここまで、馬に乗って登山が出来るようになっていたことを示しています。

 コメツガやダケカンバの林を通って、「四合目 大黒天」の案内板にぶつかったのは13:27。その案内板によると、ここには茶屋が一軒あり、屋内に古くから大黒天像(開運大黒天)を祀っていたために「大黒室」あるいは「大黒小屋」と呼ばれていたという。

 絵葉書で見ると、左側の茶屋と右側の涼み小屋の間の突き当りに、「大黒天像」を祀った祠があります。この茶屋にも、また涼み小屋にも富士講の各講が奉納した「マネキ」が多数垂れ下がっています。

 「四合五勺 御座石」の案内板が現れたのは13:51。登山道の左手にある大きな岩が「御座石」で、『絵葉書にみる富士登山』の解説によると、この大岩は富士講の開祖といわれる長谷川角行の修行場であったとも伝えられているとのこと。写真を見ると、ここにも茶屋があり、登山道を遮るように両側から「マネキ」がずらりと垂れ下がっています。馬に乗った紳士が写っているということは、ここにも馬で来ることができるようになっていることを示しています。

 P23下の「五合目休泊所」の写真にも、馬に乗った登山者が写っているから、明治末年頃までに、五合目まで馬に乗って登ることができるようになっていたのでしょう。

 「御休憩宿泊所」と記され雨戸の閉まった建物や、「五合目焼印所」と記されやはり雨戸が固く閉めめられた建物が現れたのは、それからまもなくのこと。朽ち果ててはいませんが、長らく登山者に使われてはいないと思われる建物です。

 この建物は『絵葉書にみる富士登山』P23中の「五合目天地界 刑部」「天地界 五合目ホテル 刑部東吉」と記された建物に似ているようにも思われますが、確証はありません。この写真には女の子と男の子、二人の子どもが写っていて、印象に残ります。

 登山者の子どもには到底見えないから、おそらくこの二人は、この「天地界 五合目ホテル」を営む刑部東吉さんの身内の者(子ども)ではないか。山小屋の営業期間中、上吉田から家族ごとここに移って、一緒に過ごしていたのかも知れない。

 「五合目中宮」の案内板が現れたのは、14:11。ここは「木山」と「焼山」の境界にあたり、ここから連続して4軒の山小屋があり、江戸時代には総称して中宮役場と呼ばれていたという。

 現在はほとんどの山小屋が朽ち果て、屋根がある一軒は残っていても、その中は生活道具が散乱し、使われなくなって長い年月が経っていることを物語っていました。


 続く


○参考文献
・『富士浅間信仰』平野榮次編(雄山閣出版)所収「江戸富士講の房総への進出」沖本博
・『富士の信仰と富士講』羽田光
・『鳩ヶ谷市の古文書 小谷三志日記Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(鳩ヶ谷市教育委員会)
・『茨城新聞』2009.4.14「古河育ちの作家永井路子さん『富士講』資料 茨城大へ」
・『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)


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