鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その5

2011-08-15 06:58:42 | Weblog
「代参講」というのは、全講員が旅費を掛け金して、それで代参者の旅費を賄う仕組み。岩科小一郎さんによると、たとえば5年満期の「5年の講」の場合、講員100人として、毎年20人ずつが登山をして5年で全員の登山が終わる仕組みでした。「20年の講」となると、ほぼ「一生に一度の講」であり、登山は一度きりの機会でした。一生に「三十三度の登山」ともなると、講員を毎年富士山へと連れて行く「大先達」や「先達」でないとなかなか無理なことでした。ちなみに「食行身禄」こと伊藤伊兵衛は、富士山に45回登ったらしい。といっても、富士講の「先達」として登ったのではなく「富士の行者」として登ったのです(身禄以前には「富士講」という名称はない)。では、人々はどういうルートをたどって富士山に登ったのか。岩科さんの『富士講の歴史』に紹介されている事例をまず挙げてみます。①天保9年(1838年)の上総国奈良輪の鳥飼弥三郎の場合。自宅→江戸の行徳河岸→甲州街道→高尾山→小仏峠→上吉田→富士山頂→下山。②明治22年(1889年)の神奈川県都筑郡柿生村の早野講の場合。早野村→八王子→高尾山→小仏峠→上吉田→富士山頂→須走口→足柄峠→蓑毛(大山)→厚木→早野村。③明治26年(1893年)の早野講の場合はもっと詳しい路程がわかります。この年の下山ルートは例年の須走口へと出るものではなく、上吉田に戻っています。『小谷三志日記』にみる小谷三志の場合はどうか。①寛政11年(1799年)。鳩ヶ谷→神田→甲州街道→府中→津久井道→甲州街道→上吉田→富士山頂→須走口→木賀温泉→道了尊→大山→保土ヶ谷→江戸→鳩ヶ谷。②文化5年(1808年)は、鳩ヶ谷→江戸→甲州街道→上吉田→富士山頂→須走→蓑毛→田村→神奈川宿→江戸→鳩ヶ谷。『儀三郎日記』にみる黒川儀三郎の明治5年(1872年)の場合は、あきる野→甲州街道→上吉田→富士山頂→須走口→足柄峠→道了尊→大山→八王子→あきる野(※儀三郎は不二道と接触をしていますが、講員であったかどうかはわからない)。一般的に富士講の人々は、出立→甲州街道→高尾山→小仏峠→大月宿→上吉田(御師宿坊)→富士山頂→須走口→足柄峠→大山→帰宅というコースを辿っています。つまり吉田口登山道→山頂→須走口下山道というコースは、富士講の人々が富士山を歩いたもっとも基本的なルートであったということになるのです。 . . . 本文を読む