鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その1

2011-08-09 06:55:35 | Weblog
 「浅間神社前」バス停を過ぎると、「←浅間神社」の案内標示とともに「吉田口登山道440m」の標示がありますが、それを確認したのは7:29でした。

 この杉の巨木が両側に立ち並び、また古い石灯籠がやはり両側に立ち並ぶ富士吉田浅間神社の長い参道を歩くのは、4回目となります。天気は曇り。鬱蒼とした杉木立のために、いつもやや薄暗い参道は、今朝もやや薄暗く、参道を歩く人もほとんどいません。

 初めて気付きましたが、巨大な石鳥居を潜る時見上げた額には「冨士山」と浮彫りされており、「富士」ではなく「冨士」でした。

 参道を歩いて次に潜った朱色の大鳥居には、「三国第一山」と黒く記された額。その大鳥居の向こうにある建物が「随神門」で、その「随神門」の間から見える建物が「神楽殿」。

 富士吉田浅間神社の正式名称は「北口本宮冨士浅間神社」であり、案内板によると、この神社は、富士山吉田口登山道の起点にあたる諏訪の森に鎮座しています。同じく案内板の記述によると、「戦国時代以後、富士山登拝が盛んになると、その登山拠点としてこの社の地位は一層向上し、近世以降は富士講の隆盛を背景として境内はさらに整備され、今もその威容を誇って」いるとのこと。

 江戸時代の富士講の人々は、上吉田の御師(おし)の宿に宿泊し、早朝に宿を出発してまずここに参拝をして、それから登山道を登って行ったのです。

 傍らのエリア・ガイド・マップを見ても、社殿右奥から登山道が始まり、その登山道は「大塚丘」の右手(西側)を南へとまっすぐに延びていることがわかります。その「大塚丘」のやや先に右手へと入る道があり、それがまもなく左折して吉田口登山道とほぼ平行する形で南へと延びていますが、これが「吉田口遊歩道」。この「大塚丘」と「吉田口遊歩道」の入口については、以前に確認したことがあります。また、「大塚丘」の先、やや左手に入ったところにある「富士山遭難者慰霊碑」についても、以前に確認したことがある。

 清冽に水が流れる小川を石橋で渡り、「随神門」を潜って「神楽殿」の前に出ると、その「神楽殿」のところにも案内板が掲げられています。それには「北口本宮冨士浅間神社」の「御祭神」と「御由緒」などや、「北口本宮冨士浅間神社太々神楽」(山梨県指定無形民俗文化財)の説明などが記されていました。

 「神楽殿」の横を回って現れるのが「拝殿」と、その両側にある大木。左手のが「冨士太郎杉」で、右手のが「冨士夫婦桧」。どちらも注連縄(しめなわ)がめぐらされており、この巨木には何度見ても圧倒されます。案内板によれば、大杉(冨士太郎杉)の方は樹齢1000年くらいと推定され、山梨県を代表する杉の巨樹として山梨県の天然記念物の第一号に指定され、樹高は30m。ヒノキ(冨士夫婦桧)の方は、合着木ではあるが、県下で最大のヒノキの巨樹であり、市内の代表的な巨樹であるといい、樹高は33m。ヒノキの方には推定樹齢は記されていませんが、やはり数百年以上の歴史を持つ古木であり、浅間神社に早朝参拝した富士講の人々が、感動をもって仰ぎ見たものであるはずです。

 その巨木のうち、右手の「冨士夫婦桧」の前を通って、その右側にある「←Yoshidaguchi Climbing Trail 吉田口登山道」の標示板に従い、登山道へと続く小さな石鳥居を潜ったのは、7:41でした。 


 続く


最新の画像もっと見る

コメントを投稿