鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その4

2011-08-12 03:29:14 | Weblog
 私が歩き出した「吉田口遊歩道」に続く森は、「諏訪森(すわのもり)」と呼ばれます。現在、北口本宮冨士浅間神社の摂社となっている諏訪神社は、もともとは上吉田村の産土神(うぶすなかみ)で、浅間神社が建立される以前から「諏訪森」に祀られていたものだという。有名な「吉田の火祭」も、古くはこの諏訪神社の祭礼であったとのこと。

 北口本宮冨士浅間神社は、富士山の遥拝所であった「大塚丘」に祀られていた浅間明神を起源とし、延暦7年(788年)に「諏訪森」に社殿を建立したもの。

 もともとは富士山の北の麓に広がっていた広大な林があり、そこに諏訪明神が祀られたことにより、「諏訪森」と呼ばれるようになったのでしょう。

 「秋葉原」が、「秋葉神社」が建立されて「秋葉神社」のある原っぱ、すなわち「秋葉原」と言われるようになったのと通じます。

 はじめはまわりは雑木林だったのが、やがて赤松林が目立ってきます。

 15分ほど歩いたところで、「諏訪森のアカマツ林」という案内板が現れました。

 その案内板によると、諏訪森のアカマツ林は、寛永年間(1624~1643)、当時の谷村城主秋元富朝(とみとも)が、信州からアカマツ3万本を取り寄せ、領民により植林されたと言われているという。これは、春先の急激な気温上昇により、富士山の積雪が一気に融解し発生する土石流=「雪代(ゆきしろ)」による被害を防ぐためのものでした。

 『甲斐国志 富士山北口を往く』によると、現在の上吉田の集落は、元亀3年(1572年)に集落・寺をあげて移転したもので、もともとの上吉田の集落は、地蔵寺の東側、現在の字古吉田・字上古吉田の境の道に沿って東西に展開していたという。

 移転以前から「御師(おし)」を中心とした賑やかな町場が形成されていた(「千軒ノ在所」)のが、なぜ集落ぐるみ移転したかというと、それは「雪代の被害を避けるため」でした。移転に際しては、綿密な町割りと屋敷割りが行われ、新しい宿は道を挟んで短冊状に地割りされ、道より東側の東町には31軒、西側の西町には39軒の合計70軒に御師や神職・商人・職人などが住み、富士山への登拝拠点としての町場が再形成された、と記述されています。

 古吉田から新しい吉田への移転は、「雪代」すなわち土石流による被害を避けるたるのものであったのですが、その再形成された町場を、さらに「雪代」の被害から守ろうとしたものが、領主である谷村城主によって植えられた3万本のアカマツであったということになります。

 それほどに、「雪代」という雪解けによる土石流が怖れられていたということ。

 第一の木柵を抜けたのが8:20。有料道路の高架を潜り抜け、ふたたび「吉田口遊歩道」と記された看板のある木柵の間を入って「遊歩道」を進んで行きます。

 そこから進むこと20分、木柵を抜けて左右に走る舗装道路にぶつかります。道路に出て左手を眺めると、その道路は吉田口登山道の舗装道路とぶつかり、右手を見るとまっすぐに樹林の間を西方向へ延びています。乗用車やトラックなどが、吉田口登山道から右折して、この舗装道路を西方向へと走っていきますが、案内マップを見ると、この舗装道路は「富士北麓公園入口」へと続いているものであるらしい。

 まずここで1回目の長めの休憩をとることにしました。

 道路の傍らに、「ゴミを捨てないでください!! この場所は平成21年6月13日清掃をしました ゴミを捨てないようお願いします 富士に学ぶ会」と記された立札があり、「平成21年6月13日」のところが取り外せるようになっていました。

 見回してみた限り、幸いにゴミが散乱しているような気配はありませんでした。

 「吉田口登山道」の方に、「中の茶屋1km→」と記された案内板がありましたが、「吉田口登山道」の舗装道路は歩かず、しばし休憩の後、8:52にふたたび「吉田口遊歩道」へと入りました。

 ここまでの行程で出会ったのは、鈴を鳴らした軽装で手ぶらの男性一人だけであり、「富士山に登るの?」と私に聞いて、私をさっさと追い抜いていきました。


 続く


○参考文献
・『富士講の歴史』岩科小一郎(名著出版)
・『ご近所富士山の「なぞ」』有坂蓉子(講談社+α新書)
・『富士山と日本人の心性』天野紀代子・澤登寛聡編(岩田書院)所収「身禄派師職の継統と江戸十一講の成立」(澤登寛聡)
・『甲斐国志 富士山北口を往く』(富士吉田市歴史民俗博物館)


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