鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その12

2011-08-28 06:09:40 | Weblog
「富士山御師」は、甲州平から御坂(みさか)峠を越え、河口湖を隔てて富士山が真正面に見える河口湖北岸山峡の富士山遥拝地が、その「揺籃の地」であり、その遥拝地の一つに「浅間社」が創建され、その神職中の祈禱師として発生。そして吉田村や須走村、須山村にも広がっていったようであることを伊藤堅吉さんの著書で確認しました。「富士山御師」の宿坊がある村は、江戸時代初期、川口村・吉田村・須走村・須山村であったことになりますが、須山村のある須山口登山道の方は、宝永の富士山の大爆発によりそのルートが失われ、江戸時代中期以降は、「富士山御師」の宿坊のある村として賑わったのは、川口村・吉田村・須走村の三つであったと考えられます。そのうち江戸時代後期の「富士講」の隆盛により、その登山ルートの起点として、また下山ルートの終点として繁栄したのは、吉田村と須走村でした。「富士講」にとって、富士信仰の祖とされる長谷川角行は、富士山の人穴で自己流の厳しい修行をした行者(ぎょうじゃ)であり、仏教とも神道とも儒教とも関係はありませんでした。その角行の富士信仰の系譜から出てきた食行身禄も、富士信仰の行者であって、その修行によって得た世界を「御身抜」や「三十一日之御伝」として残したものの、仏教や神道とはあまり関係がない。身禄以後の富士講の隆盛により、吉田の御師の世界は変質を迫られることになります。北口浅間社の神職中の祈禱師でありながら、角行や身禄の教えを説くことが必要になり、さらに山開きとともに大量にやって来る富士講徒たちの宿泊や登山の世話もしなくてはならなくなったからです。江戸後期からの吉田宿や須走宿(御師や御師の宿坊など)の繁栄は、富士講の隆盛とともにあったことになります。 . . . 本文を読む