鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その2

2011-08-10 06:29:45 | Weblog
 拝殿の奥に本殿があり、その玉垣の左側に東宮本殿、右側に西宮本殿があり、その西宮本殿右側の石段の上に石鳥居があって、それが富士登山門となっています。額字は「冨士山」で、天和2年(1682年)8月に朝鮮人春斎が書いた文字を彫ったものという。

 この石段の手前右手には、「冨士北口登山本道」と刻まれた石柱が立っています。

 石段を上がって、富士登山門である石鳥居を潜ると、そこにある広場の両側には富士講関係の記念碑が数多く立っていました。記念碑を立てた講社の所在地を見ていくと、船橋市・千葉市・群馬県新田郡・埼玉県秩父市・谷村町など、東京以外の関東地方のものが多く、「市」や「町」とあるように、見た目は古そうであるけれども、大正・昭和など比較的新しいもので、「三十三度大願成就」を記念したものが圧倒的に多い。

 明治から大正・昭和にかけて、富士登山を33回行った各富士講の講員の「大願成就」を記念したものということになります。33回登山を行うということは、当時においてやはり大変なことであったに違いない。

 その奥に、「大塚・富士自然探索コース起点 泉瑞 自然探索コース」と記された案内板があり、それに従って舗装された道を進むと、ふたたび「→Climbing Trail 吉田口登山道」とマジックで記された案内板が現れました。

 その舗装道路の両側にも、「三十三度大願成就」などと刻まれた富士講関係の記念碑が林立しています。

 まもなく左手に現れた案内板が「大塚丘(おおつかおか)」と記されたもの。それによると「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が「東征」のおり、相模国の足柄坂本から甲斐国酒折宮に向かう途中、この丘に登って富士の霊峯を遥拝したところと伝えられているとのこと。

 要するに、かつてここは富士山を遥拝する絶好の地であり、この丘に登れば、真正面に富士山を仰ぎ見ることができたところだということになります。

 同じく案内板によれば、延暦7年(778年)に、甲斐守紀豊庭が丘の北東に社殿を創立して浅間大神を遷座(せんざ)させたのが、今の北口本宮冨士浅間神社のはじめであるという。

 かつては丘だけがあって、それは霊峰富士山を遥拝する場所であって、後に人工の社殿が出来ていったという順序になります。

 自然の霊威を強く感じるところにそれを望む遥拝地があって、その場所やその近くに後になって社殿が造られていくというのは、私が今まで各地で見てきた経験から言っても、きわめて一般的なものであるように思われます。自然の霊威を人々に感じさせるものは、山であったり滝であったり岩であったりと、さまざま。

 この「大塚丘」、現在は木々で覆われていますが、かつては平地に突き出た丘で、見晴らしが効いたところであったと思われます。

 「富士吉田市指定天然記念物 大塚山のヒノキ」という案内板も立っていて、丘の東隅に立ち市内のヒノキを代表する巨樹であると記されています。樹高は22メートル。周囲も木々が茂っており、かつての富士山の絶好の遥拝地であった(つまりビューポイントであった)という面影はほとんど失われています。

 舗装道路になっている道が、かつての吉田口登山道であり、本来はそこを進むべきなのですが、かつての登山道はもちろん未舗装の道であったことを考えて、進路を変え、右手の道へと入り、「吉田口遊歩道」をたどっていくことにしました。


 続く


○参考文献
・『富士講の歴史』岩科小一郎(名著出版)
・『富士講と富士塚─東京・神奈川─』神奈川大学日本常民文化研究所編
・『甲斐国志 富士山北口を往く』(富士吉田市歴史民俗博物館)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿