『富士山御師』(伊藤堅吉)によれば、富士山御師の「揺籃の地」は、現在の「山梨県河口湖畔北岸の山峡」であったという。ここは「富士遥拝の霊地」であり、御坂(みさか)峠を越えてこの山里に入った者が真正面にそびえる富士山を遥拝した場所であり、そこに創建されたのが浅間社であるとされています。また富士山の手前に広がる河口湖は「ミソギ」の場所であったに違いない、ともされています。「御師」は、その「河口の浅間神社神職中の祈禱師として発生」し、やがて「御師」は、吉田村・須走村・須山村にも居住するようになったらしい。つまり「富士山御師」は、まず河口(川口村)に発生して、その後、吉田村・須走村・須山村にも発生するようになったということのようだ。『川口村の口碑・史料』(本庄静衛)によれば、川口村には慶長10年(1605年)頃に「十二坊」と称される12軒の御師がいたといい、幕末の文化7年(1810年)には128人の御師がいたとのこと。しかし、幕末になって「富士講」が爆発的に拡大していくと、その繁栄は吉田村に奪われ、川口の御師たちもその宿坊も急速に衰退していったという。では吉田村の御師を中心とした町場はいつ頃成立したのかといえば、元亀3年(1572年)に古吉田から現在の上吉田に「雪代(ゆきしろ)」対策のために移転しているから、それ以前には成立していることになる。室町時代の末に記された『勝山記』の天文23年(1554年)の条に吉田は「千軒ノ在所」とあり、それ以前からすでに大きな町場が形成されていたことがわかります。しかし吉田村の御師を中心とする町場が大きく変貌していくのは、やはり富士講の隆盛以後であったと思われる。その富士講による吉田村の隆盛とは対照的に、古くからの御師の宿坊が存在していた川口村は、幕末以後、急速に衰退していくことになりました。 . . . 本文を読む