鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その11

2011-08-27 06:02:56 | Weblog
 七合目、標高2800mにある「富士一館」を出発したのは、真夜中の零時過ぎ。

 御殿場口から登山した時には、山小屋に一泊して深夜2時頃に出発して、山頂での「御来光」を眺めることを目指したものの、実はそれからの標高差800mほどの登りが厳しく、頂上から100mほど下の登山道のところで「御来光」を眺めることになりました。

 それはそれで美しく感動的であったのですが、目的は達することができず、今回は1時間前の零時に出発することにしたのです(というか、目覚めたのが零時前だったので、これ幸いと出掛けることにしたのです)。

 山小屋の前の登山道は、LEDのまぶしいヘッドライトを灯した登山者がひっきりなしに上へ向かって通り過ぎ、あるいは休憩しています。これは御殿場口から登った時と同様ですが、圧倒的にその数はこちらの北口登山道の方が多い。

 私も、その中に加わりました。

 あとは、ジグザグに石や岩の多い登山道を、ライトの光と、先を行く人についていく形で登っていくだけ。

 前回で覚悟はしていたものの、やはりこれからの標高差1000mほどの登りがきついものでした。100歩数えて歩いて立ち止まって息を整える。その繰り返し。やがて100歩数えるのもきつくなって、50歩数えて歩いて立ち止まって息を整える。後ろから上がってくる登山者を、息を整えながらやり過ごして、その後について登って、また休憩してやり過ごす。それを繰り返していきます。

 そうしながら八合目にある山小屋の前を通過したり、あるいは山小屋の近くで長めの休憩をしていきますが、途中の景色は暗闇だからもちろん見えない。

 夜行登山であるから、七合五勺にあるという烏帽子岩神社も、八合目の大行合(吉田口登山道と須走口登山道が合流するところ)も、見ることはできませんでした。

 早朝に上吉田の「御師」の宿坊を出立した「富士講」の人々は、やはり七合目か八合目あたりの「石室」(山小屋)で一泊したはず。山小屋を出発するのは、おそらく未明の4時頃あるいは4時前だったのではないか。

 夕暮れの中で、あるいは薄明の中で七合五勺の烏帽子岩や烏帽子岩神社、「元祖室」を拝し(食行身禄が断食修行に入り入定したところであり、また遺骨が埋められたところとされる)、それから富士の頂上を目指しました。

 とすると、彼らが「御来光」を拝した場所は、頂上ではなくて、八合目から九合目の登山道の途中ではなかったか。

 5時前に始まる「御来光」を頂上で拝むためには、零時から遅くとも2時前までに、七合目ないし八合目の石室(山小屋)を出発していないと厳しいからです。

 『絵葉書にみる富士登山』のP51の中と下の写真には、八合目から九合目付近を集団で登る富士講徒の人たちの姿が写されています。20人から30人の集団で、みな同じ格好をしています。中の写真で、最後尾を歩く黒い衣服を着た3人ほどが見えますが、これは荷物(弁当など)を持つ「強力(ごうりき)」でしょう。

 この本の表紙にも富士講徒の登山風景の写真が掲載されていますが、この写真では先頭を「強力」が歩いています。白装束の講徒たちの先頭を歩くのは、富士登山の経験者(7回以上の富士登山体験を持つベテラン)である「先達(せんだつ)」であったでしょう。

 甲州街道をずっと歩き、大月宿からの「富士みち」を歩き、そして上吉田を出発して吉田口登山道をひたすら登ってきた富士講徒たちにとって、実は、ここからがもっとも厳しい登山体験でした。

 目指す頂上は、ほんすぐ上に見え、すぐにでも頂上に至りそうなものの、ここからが長い。しかも登山道は険しくなり、酸素は薄くなって、すぐ息が切れる。

 いくら歩いてもなかなか近づかない頂上は見ないようにして、ただひたすら足元を見て、一歩一歩足を踏みだすしかありません。一歩一歩、とにかく踏み出さないことには、頂上にはたどり着かない。一歩一歩、小幅でもとにかく踏み出せば、それは着実に頂上への距離を稼ぐことになる。

 その胸突き八丁の辛い登山の最中にも、それを忘れてしまうような感動がありました。それは地平線の彼方から、あるいは雲海の果てから差し昇ってくる「御来光」の荘厳な景観でした。あるいは雲がなければ、眼下に広がる下界の景観であり、またあるいは「御来光」前後の澄み切った上空の美しい色彩の変化でした。

 富士山は独立峰であり、しかも「天地界」から上は「焼山三里」となる。つまり樹林帯が全くなくなってしまうことによって、他の山とはまったくそこからの眺めや様相を異にしました。

 鳥の鳴き声はなく、せせらぎの音もしない。あるのは風の音と、登山道を歩く自分や自分たちのザクザクという踏み音だけ。

 こういう体験は、大山や筑波山などに登っても、また近くの信仰の山に登っても、味わうことのなかった初めての体験ではなかったか。

 頂上という目標は、富士山の場合、そこに手が届くように見えるものの、息を切らし、そして息を整えながら、一歩一歩足を踏み出すしかない。その自分の足元のザクザクという踏み音や、ゼイゼイという呼気音を聞きながら、そして心臓の激しい鼓動を胸内に感じながら、仲間と一緒に「六根清浄」を唱えながら、ひたすら前へ進む。

 これこそが「修行」を実感する瞬間であったに違いない。

 当時の人々は、上吉田までの長い道中を、各地から宿泊を重ねながら歩いてやってきて、そして上吉田からもちろん歩いて登り続けていることを忘れてはなりません。

 街道筋→「草山」→「木山」→「焼山」と、その景観や自然の著しい変化を眺めつつ、自分の呼吸や鼓動の急激な変化を実感しつつ歩いているのです。

 この体験こそが、「富士山道中」の大きな魅力ではなかったか。

 私は、というと、吉田口から登ってきた疲れもあって、休憩して息を整える時間が多く、今回も頂上での「御来光」を見ることはできず、「御来光」の始まる4:45には、九合目と頂上の間の登山道におり、そこに腰を据えて「御来光」を眺めました。

 雲海の果てから、ちらりと赤い太陽の上端が現れ、それはすぐにあかあかと、まわりに光芒を放ちながら、その姿全体を、うねるように広がる雲海上に現しました。

 すぐ上の頂上からも、またまわりからも、一斉に大勢の登山者の歓声が上がったのが印象的でした。


 続く


○参考文献
・『富士山御師』伊藤堅吉
・『川口村の口碑・史料』本庄静衛
・『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)


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