鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

1000回を振り返って その最終回

2011-08-03 04:57:01 | Weblog
 幕末日本の風景写真や人物写真を写したカメラマン(写真家)として著名な人物に、フェリーチェ・ベアトという人がいます。

 この人物が写した写真を集めた写真集との出会いも、私にとって、「もの」との出会いのうちの大事な一つでした。

 幕末や維新期の人々が、実際どういう景色を眺めていたか。それを確かめる最も有効な手段が「古写真」でした。それよりも前においては、写真機は存在しないから、それ以前の人々がどういう景色を眺めていたかは、絵画資料や文献資料などによるしかありません。

 幸いに幕末以後は、地域的には限られる場合がありますが、当時の人々がどういう景色に接していたか、どういう景観の中で生きていたかを知る手がかりとして、風景写真が登場してきます。

 フェリーチェ・ベアトの写真は、幕末の日本の風景を写したものとしてきわめて貴重なもので、私のこのブログでもいろいろなところで、その写真や、またベアトのことについて言及してきました。

 私にとって特に参考になったのは、横浜開港資料館が発行している『F.ベアト幕末日本写真集』でした。その「写真編」は、「Ⅰ.横浜とその周辺」「Ⅱ.金沢と鎌倉」「Ⅲ.東海道」「Ⅳ.箱根と富士」「Ⅴ.江戸とその周辺」「Ⅵ.琵琶湖と瀬戸内海」「Ⅶ.長崎」「Ⅷ.風物・風俗」と八つに分かれていますが、それぞれが興味深く、ⅥとⅧとを除いては、それぞれの撮影場所を、全部ではありませんが、かなりの場所を実際にその地に行って確認したほどです。

 その繰り返しの中で浮かび上がってきたことは、あたりまえのことですが、この幕末から150年ほどのうちに、その地の「景観」が大きく変貌してしまったいうことであり、もう一つは、特にその「景観」の変貌は、戦後の昭和30年代以後にきわめて激しい勢いで進んでいったということでした。

 つまり戦後の高度経済成長が進展していく中で、江戸時代以来明治・大正・昭和戦前期とまがりなりにもかつての名残を留めてきた地域の景観が、すさまじいほどに変貌していったということです。

 そのことは、実際に取材先で目にしても感じられることでしたが、ベアトの写した写真と現在の景観を対比してみると、愕然とするほどに、痛感させられることでした。ベアトの写した風景写真の風景が、戦後しばらくまで跡を留めていたことは、その地の図書館で、その地域を写した写真をむかしのものから現在のまでを収録した写真集を見て、知ることができました。

 前に紹介した宮本常一さんの『宮本常一が撮った昭和の情景』(毎日新聞社)の写真群を見ても、全国的にそうであることは明瞭にわかることです。

 また、昭和33年(1958年)に全国公開された『鰯雲(いわしぐも)』という映画(原作:和田傳 監督:成瀬巳喜男 脚本:橋本忍)を、厚木市内の小学校の校庭で上映された時、私は夕方出掛けて行って、敷かれた茣蓙の最前列に座って鑑賞したことがあります。はじめは関係者しかいなかったのが、やがて三々五々近辺の人たちが集まってきて、振り返ってみて驚いたことには、かなり年配のおじいちゃんやおばあちゃんが多かったことでした。そのおじいちゃんやおばあちゃんが、息子や娘、小学生ぐらいの孫を連れたりして、映画を観に来ていたのです。

 この映画は、戦後の農地改革後の厚木周辺の農村を舞台にしているため、映画のロケ先は厚木や厚木周辺であり、昭和30年代初めの厚木およびその周辺の情景が登場してきます。

 最前列の茣蓙の上に座って鑑賞していた私にとって印象深かったことは、映画の中に厚木の町やその周辺の農村風景、田園地帯を大山(おおやま)を背景に走ってくる小田急線の電車や厚木の駅舎などの姿が出てくるたびに、背後で歓声に似たどよめきが起こったことでした。

 それらの風景は、その年輩の人たちが若い時を送った時によく見知っている風景であり、しかもそれらの多くはすでに失われてしまった風景であったからです。今現在住んでいるところを写した過去の映像ではあるけれども、すでに記憶の中にのみ残っている風景。その記憶の中に残っている風景が、眼前のスクリーンの上に登場してきて、「ああ、むかしはああだった」という感動から起こる、歓声であり、どよめきであったのです。

 そのスクリーンに登場する厚木およびその周辺の風景は、私は、その現在の風景は知っているけれども、過去の風景については生まれ育ったところではないので実際に目にしたことはありませんが、青々とした田んぼの一面の緑(白黒だから色はわかりませんが)の中を、小田急線の電車が、背後に遠く見える大山や丹沢の山々をバックに疾走する風景は、小田急線の線路と電車をとってしまえば、おそらく江戸時代より延々と続いてきた厚木周辺の農村風景であるように思われました。

 その風景が、この映画が映された昭和30年代初め以後半世紀ほどで、いかに変貌してしまったことか。

 「景観」はもちろん歴史とともに変遷していくものであり、過去の「景観」をいたずらに惜しんでみても致し方のないことであることは十分に認めつつも、「景観」が、その地に住んできて人々が、長い歴史をかけて、そして日々の生活の営みの繰り返しによって、営々と築いてきたものであることを思う時、それがわずかの期間で大きく変貌し、過去の「景観」が急速に失われていく時、それはそこに長く住んできた人々に、どういう影響を与えるのだろうか、といったことを考えさせられました。

 そのことを、特に強く意識させられたのが、3月に発生した東日本大震災でした。10mを超える大津波によって、人々が慣れ親しんできた「景観」が、一挙に失われてしまったのが、今回の大震災であったのですが、多くの身近な人々が津波で亡くなったり行方不明になってしまった喪失感とともに、生き残った人々にとって、亡くなった人々も含めてのさまざまな記憶が詰まっている、自分たちが生活していた「まち」や「むら」の景観が一挙に失われてしまった喪失感はいかほどのものであるのか。あるいは高濃度の放射能汚染のゆえに、そこから否応なしに別のところへ退避しなければならない時の喪失感はいかほどのものであるのか。

 人々が生きることにおいて、あたりまえの生活の場であったが、しかしあたりまえではなかった生活の場=「景観」というものの持つ意味合い、重要性というものを、今回の大震災は私に強く再認識を迫るものでした。


 終わり

※掲載写真は『F.ベアト幕末日本写真集』より、幕末頃の「厚木」


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