鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その最終回

2011-08-29 06:03:32 | Weblog
 「須走ルート」と案内標示に記されたこの下山ルートは、しかし、昔からの下山ルートではないようだと感じたのは、それがまっすぐでジグザグなのが、まるでブルドーザー道路のように人工的であったからです。

 これはおそらく新しく造られた下山用のルートであり、かつては八合目の「大行合」まで、登山ルートを下山ルートとして利用し、それから「砂走り」へと入っていったものと思われましたが、もう引き返す気力はなく、そのまま下山ルートを下っていきました。

 九合目の山小屋の右下のところで、下から物資を運ぶ大型の黄色いブルドーザーに出遭いました(8:43)。

 「須走口八合目 江戸屋」に着いたのが9:16。

 「見晴館」を通過したのが9:31。

 竹久夢二とたまきが須走口から富士山へ登った時、途中でたまきが具合が悪くなって山小屋で一泊して下山したのは、このあたりではないかと思われました。標高は3200m。

 「須走七合目」の「山小屋 大陽館」へは10:13に到着。

 ここは、去年の夏、須走口から旧登山道を歩いてたどった時、五合目を越えてここまで登ったところ。軽装であったことと、途中ズボンが木に引っかかって破れてしまったため、それ以上は登らずに、ここから「砂走り」を利用して五合目まで下り、そこからバスに乗りました。

 ここでしばらく休憩してから、やや離れたところから始まる「砂走り」へと入りました。

 富士講の人たちも下山ルートとして「砂走り」を利用していたことは、古写真でわかります。

 『絵葉書にみる富士登山』のP11下に、「下山道」という写真が掲載されていますが、これは須走口登山道の砂走りを下山している富士講徒たちを写したものと思われます。

 同じような写真は、同書P65にも掲載されており、これには「(富岳絶景)砂走り下山者の実景」とあり、「須走口」登山道の絵葉書の中に加えられています。

 吉田口登山道から登頂を果たした富士講徒たちは、その多くはこの須走口登山道を利用して下山しましたが、その理由の一つは、この「砂走り」によって、下山が容易であったことを挙げることができます。

 「砂走り」は、もう一つ、御殿場口登山道の下山ルートにもありますが、足柄峠を通って大山道に入るためには遠回りとなります。

 天気がよかったのが、この「砂走り」を下っている頃から雨となり、前後を下る登山者の姿もまわりの景色もあまり見えなくなりました。

 昨年の夏もここを下っているのですが、この「砂走り」が今回は長く感じたこと。登山靴の中の爪先に負担が集中し痛みがあるのを感じつつ下っていきました。

 「砂走り」が終わって樹林帯に入っても、それから五合目までが、前回よりずっと長く感じたのは、やはり疲労がたまってきているからだと思われました。

 やっと五合目の登山口に到着し、それから1時間ほど待って御殿場行きの下山バスに乗り、須走口登山道の入口で下車。近くの「道の駅すばしり」で休憩をして、ふたたび1時間ほど河口湖行のバスを待ち、やってきたバスに乗って富士吉田の、車を停めてある駐車場へと向かいました。

 五合目から須走口登山道入口(東口須走浅間神社の東横)までは、昨年の夏に登りとして歩いているので、今回は歩きませんでしたが、五合目まで下るので精一杯というのが正直なところでした。

 今回、一泊二日の日程で、北口浅間神社から吉田口登山道を登り、登頂してから「お鉢めぐり」をし、須走口登山道を利用して五合目まで下山し、富士講徒の歩いたコースをたどってみたのですが、つくづくと感じたのは、昔の人の健脚ぶりでした。

 私は須走口五合目でバスに乗りましたが、もちろん昔の人たちは歩いて須走まで下山しているのです。おそらくその須走の宿で一泊し、それから足柄峠を越えて大山街道へと入り、大山に立ち寄って帰途についているのです。

 一般的には七泊八日ほどの日程であったらしい。

 高尾山に登り、尾根伝いに小仏峠に出て甲州街道へと下りるのが最初の難関。富士山登山が、目標ではあるけれども最大の難関。そして足柄峠を越えるのも難儀だったでしょう。大山に立ち寄って、気力・体力のある者はその頂上にも登ったかも知れない。これが最後の難関。

 「代参講」としての一行の中に若い男性がどれぐらいの割合でいたのかはわかりませんが、この厳しい「富士山道中」は、ある意味では、若い男性にとっては一人前の大人になるための「通過儀礼」であったかのも知れないと思われました。

 現在は、男女を問わず、多くの青年たちが「山ガール」も含めて富士山登山を行っていますが、登山バスや車を五合目まで利用するとはいえ、それが日本一の標高を持つ山に登るということでかなりの大変さを味わうのは昔と変わらず、他の山と違って青年たちが集中していることを考えると、これも一種の「通過儀礼」ではないかとも思われてきました。


 終わり


○参考文献
・『小山町史 第九巻民俗篇』(小山町)
・『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)


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