鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その3

2011-08-11 05:55:02 | Weblog
岩科小一郎さんの『富士講の歴史』によれば、身禄の時代においても、富士の行者である身禄への信仰はあっても、誰でも富士山に登ることはなかったといい、また身禄以前には「何々講」という名称はなかったとみてよい、とも記されています。では、「富士講」という名称が公文書に初めて現れるのはいつかというと、寛政7年(1795年)の町触れであるとのこと。ということは、それ以前に「富士講」の「講」としての動きが目立ち始めているということになります。同書によると、富士講史最初の大事件である直訴事件が起きたのは寛政元年(1789年)の8月のこと。幕府御庭番の永井徳左衛門という富士講信徒(行名照行開山)が、身禄の教えを将軍の上聞に達しようと、江戸城桔梗門外において、妻に老中松平定信への訴(かごそ)を決行させたというもの。一般庶民ばかりか、武士の間にも、身禄の教えが浸透していることがわかります。身禄が富士山で入定したのは享保16年(1731年)のことだから、50年以上が経過しています。高田藤四郎という植木屋の棟梁が、「身禄同行」という講を興し、身禄の33回忌に富士塚の築造を発願。その富士塚すなわち「高田富士」を完成させたのが安永8年(1779年)のこと。これが江戸における身禄富士塚の第一号であるという。ということは、身禄の33回忌頃までには、富士塚を完成させていくほどの組織力や経済力を持った身禄の教えを奉ずる集団が、江戸に登場してきているということになります。「富士講の最高の聖典」といわれるのは『三十一日之御伝』というもので、これは身禄が富士山8合目烏帽子岩の厨子に入ってから入定するまでに語った言葉を、田辺十郎右衛門が書き留めたもの。この田辺十郎右衛門という人は、富士山8合目の大行合(吉田口登山道と須走口登山道が合流するところ)で水を売る商いをしており、身禄の思想に共鳴して入定まで身禄のそばにいた人物でした。その身禄の教えが江戸の人々に伝えられ、それが急速に人々の間に広まっていき、各地域において同じ身禄の教えを信ずる集団が生まれ、それが「何々講」という各地に富士塚を造りだすほどの組織力を持つ「講仲間」(宗教団体ではない)を生み出していったものと思われます。 . . . 本文を読む