鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その9

2011-08-19 06:24:59 | Weblog
富士吉田市歴史民俗博物館の分館に「外川家」という吉田口御師の屋敷があります。この「外川家住宅学術調査報告書」として「富士吉田口御師の住まいと暮らし」(富士吉田市教育委員会)というのがあり、それを見ると、御師外川家の檀那場がどのあたりであったかがわかります。「檀那場」(「檀那所」とも)とは、御師の檀家(「旦家」とも)のある、いわば各御師の勢力範囲であり、各檀那場の富士講徒たちはその御師の宿坊を定宿としました。上吉田は、富士山へ登拝する道者が宿泊する御師の宿坊が建ち並ぶ宿場として成立した村であったのです。「外川家」はその御師の家であり、屋号を「しほや」ないし「塩屋」といいました。この「外川家」の檀那場は、上総国の市原・夷隅・長柄・望陀・周准の各郡、下総国の千葉郡、古河領や関宿領、葛飾郡、下野国の都賀郡、相模国の津久井県などに及びました。上総国の江戸湾地域には、村の月次講行事としての「浅間講」が従来から行われており、そこへ寛政年間頃に江戸富士講の一派である「山包講」が入ってきて、富士講が広まったといったことが記されています。外川家に上総や下総からやってくる講社は、ハマグリや海苔、アサリの佃煮などを土産として持ってきたものだという。また串に刺した貝の干物を送ってくることもあったらしい。現在の千葉県一帯であっても、それぞれの御師がそれぞれの檀那場を持っていてそれは複雑に入り組んでおり、刑部伊予(小猿屋)は安房国、田辺(大国屋)は市原、小佐野(浅間坊)は市原・木更津・君津・長生郡・夷隅郡、小佐野(堀端屋)は長生郡・夷隅郡などといった具合。江戸富士講は、寛政年間頃にまず江戸湾岸の漁師たちに伝わり、受け入れられていったわけですが、その下地として従来からの富士山信仰=浅間講が存在していたらしいことがわかってきました。 . . . 本文を読む