鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その2

2011-08-10 06:29:45 | Weblog
岩科小一郎さんの『富士講の歴史』によれば、「角行を頂点とする村上派六代の教祖は存在したが、それは富士信仰の行者がいたというだけで、講までには発展していない。身禄の時代でも、富士の行者の身禄への信仰であって、誰でもが富士に登ろうとはしなかった」という。この文中の「角行」(かくぎょう)とは、富士講のルーツともいうべき人物で、長谷川(藤原)角行(1541~1646)のこと。この角行が富士山麓に現れたのは永禄3年(1560年)のことで、富士西麓の人穴に入って修行に努めたという。人穴に入ってから12年後の元亀3年(1572年)に、その人穴から出て6月3日に吉田口より富士山に登山。そして正保3年(1646年)の6月3日、人穴で亡くなったという。なんと行年106歳であったとのこと。「村上派六代」とは、角行の直系で六代目が村上光清(こうせい・1682~1759)。北口本宮冨士浅間神社の境内の建造物群の大修復を享保年間に行って、現在見るような境内の景観を作り出したのは、この村上光清やその同行(どうぎょう)の人々。そして「身禄」とは、「食行身禄(じきぎょうみろく)」こと伊藤伊兵衛(1671~1731)のこと。この伊藤伊兵衛は17歳の時に江戸において富士行者月行(げつぎょう)に弟子入り。享保年間の政治の腐敗を痛憤した身禄は、世直しを祈念して富士山における入定(にゅうじょう・断食による信仰的自殺)を決意し、享保16年(1731年)の6月13日に上吉田の宿坊を出立。8合目の烏帽子岩のところで三尺四面の組み立て式の厨子の中に入り断食を決行し、およそ1か月後の7月の中旬過ぎに入定を遂げました。 . . . 本文を読む