鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その6

2011-08-16 11:02:50 | Weblog
 古い石造りの常夜燈や富士講の記念碑などを見た後、「中ノ茶屋」の広場を出発。馬頭観音を右手に見てしばらく吉田口登山道を進み、途中でふたたび吉田口遊歩道に入りました。

 シラビソやカツラ、ナツグミ、マユミなどの林を抜けて、吉田口登山道と吉田口遊歩道が合流する「馬返」の広場に出たのが9:45。「歴史の道百選・富士山吉田口登山道 馬返」と記された案内板によると、「この道は富士山の歴史的な登山道として、明治40年以前の姿に復元・整備された」もの。「当時の富士登山では、人と物資の運搬には馬を利用したが、馬はここから引返したのでこの地名がある」とのこと。

 さらに次のようなことが記されていました。

 「また、1929~1964年の間はバスが運行されていたが、富士スバルラインの開通と共に休止され、その道路は現在の遊歩道となっている。」

 つまり、私が歩いてきた「吉田口遊歩道」は、かつてのバス道路であったということになります。かつての「吉田口登山道」は「馬返」まで舗装道路となっていて、車がここまで入れるようになっていますが、かつては私が歩いてきた「吉田口遊歩道」がバスの運行していた道であったのです。

 「明治40年以前の姿に復元・整備された」その内容は、以下の通り。

 「整備内容 鳥居の修復・石階段・石積・石敷等園路整備、石造物の復元、地形の修景、排水設備、説明板の設置、富士山禊(みそぎ)所の礎石表示、等」 

 この案内板には、「馬返史蹟詳細図」も掲げられており、興味を惹きました。

 現在地から登山道へと入ると、右手が「桂屋跡」。右にカーブして登山道を上り、右手に「石灯籠」を見て、右側にあるのが「大文司屋」でその奥が「富士山ホテル跡」、左側が「洞屋跡」。まもなく左手に見えてくるのが「移設復元した石碑」群、石段を登った突き当り、登山道が左折するところにあるのが「禊所跡」。

 この「吉田口登山道」の「馬返」の写真が載っているのが、例の『絵葉書にみる富士登山』のP19上(「馬返し」)。ここに写っている茶屋は、いくつかあった茶屋のうちどれだろう。

 石灯籠が両側にある登山道を上がると正面に茶屋があり、石灯籠の両側にも茶屋がある。そして登山道は左へと折れているようだ。

 これに該当する「馬返」の部分は、「大文司」と「洞屋」、そして「富士山ホテル」の三つが集まっているところしかない。

 つまり写真右側の石灯籠の右手にわずかに見える茶屋が「大文司」であり、左側の石灯籠の左手にある茶屋が「洞屋」であり、二つの石灯籠の間の奥に見える茶屋が「富士山ホテル」ということになる。

 段々になっている坂道を上がっていくと、行く手両側に石灯籠が見えてきました。この段々になっている坂道は、先ほどの写真(「馬返し」)の手前に写っているもの。この石灯籠の右手にかつては「大文司」、左手に「洞屋」、そして正面に「富士山ホテル」があったことになります。

 段々となっている坂道を上がると「富士山吉田口登山道 馬返」と記された案内板があり、「ここから先は道が険しくなって馬を引くことができず、ここで馬を返したことから『馬返』の名がつきました。馬を降りた人々はここの茶屋で休憩し、道中の身支度を整えました。鳥居の下では正座し、富士山頂を拝んでいたようです。富士山は麓から頂上までの間が三区分され、それぞれ草山・木山・焼山と呼ばれていましたが、馬返は草山と木山の境にあたり、富士山の信仰領域の基点となる場所でした」と記述されていました。

 かつて、ここまで多く草原の中を通ってきた登山道が、ここから樹林地帯へと入り、道は勾配のある険しいものとなっていき、馬で通れるような登山道ではなくなったのです。


 続く


○参考文献
・『小山町史 第九巻 民俗篇』「第九章 富士信仰と小山町」(小山町)
・『富士講の歴史』岩科小一郎(名著出版)
・『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)


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