鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・春の山行:明神峠~三国山~大洞山 その1

2010-05-12 06:07:37 | Weblog
徳富蘇峰(猪一郎)が大正2年(1913年)の夏、高根村の青龍寺に滞在した時に地元の有志に案内された北郷村は、三国山~明神峠~世附(よづく)峠の尾根筋南面の山付きの村でした。このあたりは、宝永4年(1707年)の富士山大爆発における「降砂」の被害が、須走(すばしり)に次いでもっとも深刻なところであって、蘇峰が案内された阿多野(あだの)用水や阿多野池も、この降砂のために埋もれてしまうほどでした。降砂の深さは、大御神(おおみか)で1.5~2.0mほど、中日向(なかひなた)や上野などでも1.0~1.5mほどもありました。最も深刻であった須走の場合は、およそ3mも堆積しています。蘇峰は、北郷村を歩いた際に、折からの真夏の強い日差しを受けた火山灰の熱さを、靴の底に感じています。「此辺概して宝永四年大噴火の痕(あと)を止(とど)め、焼砂利堆々として、烈日と反射し、我か靴さへも熱きを覚ゆ。」現在、このあたりの主要道路はアスファルトに覆われ、じかに火山灰の上を歩くことはありませんが、蘇峰の頃は火山灰が露出した道であったのです。現在は神社の参道や社殿のまわりなどに黒褐色の焼砂利状の火山灰を見ることができますが、これが宝永4年の富士山大爆発によって地表に堆積したもの。かつてベアトが須走で富士山を撮影した場所を確定すべく須走を訪れた時、「あさま食堂」の方たちから嶋田實男さんという郷土史家を教えられました。後日、嶋田さんのお宅を訪れた時、嶋田さんから、籠坂峠から三国山を経て駿河小山に至る「三国山ハイキングコース」というのがあることをうかがいました。足柄道や旧北郷村を歩いた時、北側に見える山稜が三国山であり、その尾根伝いにハイキングコースがあることを意識しながら歩いていましたが、宝永4年の火山灰は、平地の村々や田畑や樹林地帯だけでなく、木々の繁る山の斜面や山稜にも降り積もっていたのだというあたりまえのことに気付きました。三国山系にも1.5m前後の火山灰が堆積していったはずです(山の斜面よりも、平らになったところに深く堆積したことでしょう)。そう気付いた時、嶋田さんに教えてもらった「三国山ハイキングコース」を一度歩いてみようと思っていたのです。ということで、4月下旬の休みの日、明神峠から三国山を経て大洞山まで歩いてみました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

ジョルジュ・ビゴーと二人の日本人写真師 その最終回

2010-05-10 07:01:01 | Weblog
日下部金兵衛が写真技術やその作風などを学んだフェリーチェ・ベアトの写真を見てみると、その多くに人物が配されていることがわかります。人物が写っていない写真は割合として多くはない。という点において、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』の臼井秀三郎の、まったく無人と化した日本の風景を写したような写真とは対照的です。ベアトの写真の多くは幕末のものであり、使用した当時の銀板写真機の性能を考えてみても、人物がしっかりと写っているということは驚くべきことです。もちろん人物の配置は意図されたものであり、写っている人物たちはビゴーの指示に従って数十秒間ポーズを取っているのですが、彼の多くの写真からは当時の人々の風俗がよくわかるのです。たとえば例を挙げてみましょう。『F.ベアト幕末日本写真集』P33の「原町田」(現東京都町田市)の写真。街道に立っている男たちの姿から、当時の庶民男性の服装や仕事のようすがわかります(もちろん街道やその両側の家並みのようすも当時のことを知る上で貴重であることは言うまでもない)。P45の「金沢の渡し舟」の写真。これは瀬戸神社前から平潟湾に突き出した突堤(琵琶湖弁天がその突端にある)の渡し場の風景を写したものですが、撮影するために集められた人々の姿から、当時の風俗がわかります。船頭・僧侶・商人・職人・子どもなど、日本人の庶民たちがそこには写っています。P70の「小田原」の写真。これは「ういろう」の店の前あたりの東海道の真ん中から西(箱根方面)に向けて小田原宿を撮影したものですが、配置された男たちの姿から当時の街道筋で働く人々の風俗を知ることができます。また街道両側には撮影風景を見る多くの人々が期せずして写っており、中には全くカメラを意識しないで写ってしまっている女性などもいる。ここには幕末の「うじゃうじゃ」とした群集が写っているのです。庶民ばかりではない。P73には富士登山旅行に赴くポルスブルック一行を警護する幕府の武士たちが写っており、当時の武士のさまざまな服装がわかります。さらに同書P144~168にかけては士農工商あらゆる層の人々の風俗を写した写真が収められており、これらのベアトの写真を見ていると、幕末のあらゆる層の日本人の風俗やまたその日本人の住む日本の風景を、しっかりと記録せずにはおくものかという、ベアトの執念みたいなものを私は感じるのです。 . . . 本文を読む

ジョルジュ・ビゴーと二人の日本人写真師 その2

2010-05-09 06:08:35 | Weblog
『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』(平凡社)の小山騰さんの「ギルマールが収集した日本の写真」によれば、横浜の写真師臼井秀三郎が生まれたのは天保10年(1839年)前後。生まれたところは下田の池之町。香取屋臼井伝八の三男でした。長姉に美津がおり、この美津は早期の写真師として有名な下岡蓮杖の妻(連杖の先妻)となっており、その縁故によってか連杖の弟子となって写真術を学び、遅くとも明治8年(1875年)には横浜で写真館を開業しているという。そして明治14年(1881年)に出版された『横浜商人録』によれば、臼井の写真館は横浜の太田町一丁目十三番地にあり、その広告によるとすでに、その頃、東京・西京(京都)・大阪・神戸・日光・箱根などの日本各地の写真を「合本」すなわちアルバムとして販売していたとのこと。つまり明治14年までにそれらの土地に出掛けて写真を撮っていたことになる。そのことは、同書に収められている47枚の、ギルマール一行の日本旅行以前に撮影された写真が証明しているところです。ギルマール一行の日本旅行の同行カメラマンとして雇われたのは、臼井が40前後のころであり、最も写真師として油の乗り切った時期であったかも知れない。そして明治27年(1894年)頃までは横浜で写真業を行っていたようですが、没年も生年とともに明らかではありません。臼井を同行カメラマンとして雇ったギルマールが旅行後にまとめた基本的な日本人および日本に対する見方は次のような一節に端的に現れています。「本当のことを言えば、住民である日本人は好きであるし、日本は世界中で最も興味がある骨董屋であると思うが、日本そのものは、人が多すぎ、悪臭に覆われ、寄生虫が多く、外出するのにはあまりに汚く、あまりにも不快であるので、日本に対して好意的にはなれなかった。私はどんなものでもうじゃうじゃと群れをなすものは、たとえそれが神の神聖な仕事の結果であっても嫌いである。」このようなギルマールが日本で興味を示したのは、日本の美術品や骨董品や美しい風景であって、そこに「うじゃうじゃ」と生きる日本人ではありませんでした。したがって彼に雇われ、彼の意図に沿うような形で写真を撮影した臼井の写真に日本人がほとんど写っていないのは、当時の写真機の機能ゆえではなくて、ギルマールの意図(指示)に忠実に従っていたからだと言うことができるでしょう。 . . . 本文を読む

ジョルジュ・ビゴーと二人の日本人写真師 その1

2010-05-06 06:59:50 | Weblog
ヒゴーの素描画とワーグマンのそれとを比較していくうちに、一方で念頭に浮かんできた古写真集がある。それは『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』というもの。この古写真集はすでにこのブログで何度か紹介したことがあります。私が黒駒から富士吉田まで「御坂みち」を歩いた時は、この写真集の9枚の古写真が撮影された場所を確定するのも付随した目的の一つでした。その9枚の写真とは、同書P15上からP19上までの写真。そのうち4枚にはかつての「御坂みち」がちゃんと写っています。写された時期は、P15上の写真を除いて、明治15年(1882年)7月14日から15日にかけて。そのうち数枚は「旅行日記」と影の差しかたから撮影時刻を推測することもでき、撮影年月日および大体の撮影時刻までわかるというきわめて貴重なもの。とくにP18上の藤野木(とうのき)宿のようすを写した写真などは、早朝の日差しのもと、赤ん坊を背負う女の子や石垣にもたれる男の子など、村の子どもたち(犬や、また奥には外国人のような男性、さらに左手前には女性も)が写ったもので、私にはもっとも興味深い一枚でした。この写真集に収められている古写真は、多くが撮影年月日を知ることができるもので、明治15年およびそれ以前の各地のようすがわかるとても貴重なもの。その撮影地点はどこなのか、現在そこはどういう景観になっているのか、実際に出かけていって確かめたいものが多々あります。ここに写されているある土地や建物を歴史小説に描く場合に、しかもそれは明治15年頃のものということがはっきりしているだけに、とても参考になるからです。一枚の古写真(さらに絵画資料など)がさまざまな情報を含んでおり、それが歴史研究の資料として大変価値あるものとなる場合があるということはよく知られていることですが、この古写真集も限りない魅力をもって私に迫ってきます。しかし全写真を見ていくと気が付くことは、そこに登場してくる人物がきわめて少ないということです。人物が写っている写真は数枚しかなく、まるで無人と化した町や通りや観光地などを撮影したかのよう。これらの写真を撮影したのは臼井秀三郎という当時横浜在住の写真師。人がほとんど写っていないのはもちろんそれなりの理由があるわけですが、しかしそれらの無人の写真群は、ビゴーの素描集と比較してみると、きわめて対照的です。 . . . 本文を読む

ジョルジュ・ビゴーという人 その最終回

2010-05-03 06:08:52 | Weblog
幕末から明治中期にかけて活躍したイギリス人画家にチャールズ・ワーグマンという人がいる。このチャールズ・ワーグマンとジョルジュ・ビゴーを対比させながら論じてみたい。まずこの二人に共通する点はというと、近代日本に生きる人々の日常的な生活を「限りない興味と愛着」をもって描いたこと。また諷刺漫画雑誌を発行したこと。日本人女性を妻としたこと。異なる点はというと、ワーグマンは幕末から明治中期にかけて活躍したのに対し、ビゴーはまるでそのワーグマンを受け継ぐように、明治15年から明治32年まで日本に滞在して明治中期に活躍した画家であること。ワーグマンはイギリスの首都ロンドンで生まれたのに対して、ビゴーはフランスの首都パリで生まれていること。ワーグマンは『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の特派美術通信員として来日(仕事上の都合で)来日したのに対して、ビゴーは、パリで「ジャポニズム」の洗礼を受け、日本の浮世絵の画法に興味・関心を抱いて来日した人物。さらにワーグマンはその出身から横浜外国人居留区のイギリス人たちと主に関わりながら生活をしていったのに対し、ビゴーは横浜や東京に住むフランス人たちを頼りながらも、東京に長らく住まいを持ち、フランス語や絵を教えながら日本人社会と密着した生活を送っていったこと。ワーグマンは日本人女性を妻にし、日本で亡くなり、横浜の外国人墓地に葬られますが、ビゴーは日本人女性と結婚したものの、諷刺漫画の発表は「日本の官憲当局の監視の目を強め」、「自由な執筆活動ができなくな」ったために、ビゴーは日本人妻と別れて本国へ戻る道を選び、故国フランスで死を迎えます。以上が大まかなワーグマンとビゴーの共通点と相違点。しかしこの二人の画家は、どうもお互いにそれぞれを強く意識しあっていたように思われます。 . . . 本文を読む

ジョルジュ・ビゴーという人 その3

2010-05-02 07:49:44 | Weblog
ビゴーは日本のたとえばどういうところを訪れたのか。「年譜」からそれを探ってみると、横浜・東京・新吉原・東京七公園(星ヶ岡・芝円山・忍ヶ岡・飛鳥山・富ヶ岡・浅草・愛宕山)・日光・長崎・箱根・修善寺・熱海・磐梯山・向島洲崎・濃尾大地震被害地・京都・神戸・広島・稲毛海岸などを挙げることができます。移動手段としては、徒歩はもちろんのこととして人力車や馬車、また長距離の場合は鉄道であったでしょう。東海道線が全通したのは明治22年(1889年)7月1日のこと。ビゴーが濃尾地方や京阪神、さらに広島などへ赴いた時には、もっぱらこの東海道線を利用したものと思われます。たえずスケッチブックを携帯していたビゴーは、この全通して間もない頃の東海道線の車内風景や駅の光景を丹念にスケッチしており、その頃の鉄道風俗を知る上での貴重な絵画資料となっています。 . . . 本文を読む

ジョルジュ・ビゴーという人 その2

2010-05-01 06:34:53 | Weblog
『ビゴー日本素描集』の「ビゴー小伝」によれば、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、1860年にパリで生まれています。官吏であった父は8歳の時に亡くなり、名門出身で画家である母の手で育てられました。バリ・コミューンの時、10歳であったビゴーは、コミューンに参加した人たちをスケッチしたことがあり、それを見た母デジレーがその巧みさに驚き、息子を美術学校に入れる決心をしたという。当時流行の「ジャポニズム」の洗礼を受けたビゴーが、日本行きを決意したのは1881年、21歳の時。ビゴーが日本で学ぼうとしたことは、浮世絵のような多色刷木版画技術や日本画の表現方法であったようだ。ビゴーの横浜上陸は1882年(明治15年)の1月26日。しかし来日したものの、最も関心のあった浮世絵の技法については、絵師・彫師(ほりし)・摺師(すりし)の三者の高度な共同作業によるものであることを知って、それを学ぶことを断念。生活の糧を得るために、陸軍士官学校の画学教師や中江兆民の仏学塾のフランス語教師をやったりしていく中で、日本人や日本という国の行く末に興味を深めていくようになりました。明治15年(1882年)といえば自由民権運動が全国的に盛り上がっていた年であって、兆民の仏学塾も入塾生がどんどん増加。塾の建物(旧旗本屋敷)を新築せざるを得ないほどでした。しかし自由民権運動は明治16年あたりをピークにして間もなく衰退。仏学塾にビゴーが雇われたのは、、明治18年3月1日から6ヶ月、明治19年10月1日から6ヶ月でしたが、それは自由民権運動が政府側の圧力のもとで衰退し、仏学塾の塾生もどんどん少なくなっていった時期でした。フランス語を学ぶことは、多くの若者にとって将来を約束するものではなくなってきたのです。そのようなことを頭に入れて、明治18年10月8日にビゴーが描いた番町の仏学塾(五番町二番地)の水彩画を見てみると、2階にはもう秋だというのに簾(すだれ)が下がり、1階の障子戸は開いているものの人の姿は見えない。全体に静かで閑散とした雰囲気が漂っています。この室内に、その時はたして兆民はいたのでしょうか。そして明治20年2月になると、ビゴーは兆民やその高弟たちの協力を得て、諷刺漫画雑誌『トバエ』を発刊しますが、12月には「保安条例」が出されて兆民は東京を追放され、仏学塾も翌年には廃校となってしまうのです。 . . . 本文を読む