鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.5月取材旅行「両国~お茶の水~四谷」 その8

2010-05-26 07:12:37 | Weblog
黒田涼さんの『江戸城を歩く』(祥伝社新書)には、神田川開削工事について次のように記されています。「聖橋やお茶の水橋を挟んだ神田川両岸の標高はほぼ同じで、もともとは地続きの台地でした。江戸城構築以前はこの台地の西側を平川という川が流れており、小石川・行楽園方面から日本橋方面に流れていました。…大雨が降ると平川は氾濫し、江戸城の本丸前は洪水に悩まされていました。そこで平川の流れを変え、隅田川に注ぐようにしたのがこの大工事です。…工事の目的は洪水対策だけではありません。江戸城の防備を固めるのも大きな目的でした。…また神田川を利用した水運利用も考えられました。江戸湾(東京湾)や利根川から隅田川に通ってきた船が、神田川をさかのぼって、今の水道橋、飯田橋までやってきていました。荷の陸揚げ場所は、市兵衛河岸(水道橋付近)、神楽河岸(飯田橋)などと呼ばれ、大いに賑わいました。」同書P48は、お茶の水橋から見た聖橋と丸ノ内線の鉄橋。聖橋から神田川の川面との落差を考えると、本郷台地の末端であるお茶の水の台地が、いかに深く掘削されたたがよくわかります。写真右手の聖橋の向こう、昌平橋南詰に下っていく坂が淡路坂。明治15年(1882年)以前に、臼井秀三郎によって撮影された「お茶の水」の写真(『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』のP167上掲載)では、中央やや左側向こうから中央やや右側の台地上へと上がって来るところにこの淡路坂はあったことになるから、この古写真の左端の台地上から真ん中の台地上にかけて、現在は聖橋やお茶の水橋が架かっていることになります。神田川の蛇行も考えると、この写真の撮影地点は、現在の順天堂大学のある辺り、神田川沿いの崖をやや下ったところではないかと思われます。そのように考えると、『写真で見る江戸東京』のP93、神田水道懸樋を写した「お茶の水」の写真の撮影地点からやや右側の崖を上ったところから、神田川下流を眺めた光景が、P167の「お茶の水」の写真の光景にほぼ近いということが言えそうです。両方の写真とも、神田川の北側の岸辺には荷船や屋根船が繋留されていて、このあたりに小さな河岸があったことを示しています。P167の左端の崖の上やその向こう側には、東京女子師範学校や東京師範学校、そして湯島聖堂があることになります。 . . . 本文を読む