鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.5月取材旅行「両国~お茶の水~四谷」 その2

2010-05-20 07:06:13 | Weblog
隅田川は、昭和の初めに荒川放水路ができる前までは、秩父山系を源流とする荒川の本流でした。また隅田川はかつて武蔵国と下総国(しもうさのくに)を分ける境界線でもあって、その両国に架かる橋ということで「両国橋」と呼ばれました。天正18年(1590年)、関東に入府した家康は、生産力向上と水運、および洪水対策のために、武蔵国東部を流れている大河(利根川・渡良瀬川・荒川)の流路を整理する大工事を推進。この事業は文禄3年(1594年)に始まり、承応3年(1654年)に一先ず終了しました。その結果、江戸湾に注いでいた利根川は武蔵国東部の湿地帯の東を流れ、荒川は利根川から分離されて湿地帯の西側を流れるようになりました。利根川の途中は鬼怒川と結ばれ、東北地方からの船が房総半島を回らずに江戸に入ることが可能となりました。この荒川河口部に両国橋が架橋されたきっかけは、明暦3年(1657年)の江戸の大火(「明暦の大火」・「振袖火事」)。それまで隅田川には、江戸城防備のため、日光街道が隅田川を渡るところに千住大橋が架けられているだけでした。しかし「明暦の大火」の際に、橋がなかったために逃げ場所を失って死んだ人々が多数に及んだため、橋を架けることが決められ、出来上がったのが「両国橋」。といっても当初は「大橋」という名前であったらしい。この両国橋の江戸城側のたもとには、火除地として大きな広場が設けられ、それは「両国広小路」といわれ、芝居小屋や小店舗などが作られて江戸を代表する盛り場となりました。(以上『江戸城を歩く』の記述に拠る)。この隅田川およびそれに架かる両国橋を、柳橋を手前に、明治10年代に写した古写真がある。それが載っているのは、『写真で見る江戸東京』芳賀徹 岡部昌幸(新潮社)で、そのP78~79にその写真が掲載されています。撮影したのは日下部金兵衛。明治20年(1887年)に鉄橋化される柳橋がまだ木橋であることから、この写真はそれ以前に撮影されたもの。また柳橋は現在とほぼ同位置にあるけれども、両国橋は川上に50メートルほど移っている、とも記されています。写真に写る両国橋は、川上に移る以前の木製の橋ということになります。柳橋が架かっている川は神田川。その神田川が隅田川に注ぎ込むところには、多くの屋形舟が繋留されています。「百本杭」のところは、画面左端よりさらに左手の地点となるでしょう。 . . . 本文を読む