今回の取材旅行で携帯したのは、黒田涼さんの『江戸城を歩く』(祥伝社新書)。この本は、江戸城およびその周辺を巡る全部で12のコースを紹介するものであり、カラー写真、古地図、現在の地図を合わせ載せたもので、江戸城周辺を歩くにはたいへん参考になる本です。東京23区はかなり広く、また歴史も詰まっているので、ガイドブックの携行が欠かせない。しかし何事にも「先達」となる人はいるもので、さまざまな関心・視点からのガイドブックがたくさん出版されているわけですが、この本は江戸城巡りにポイントを置いたもので、何よりも著者が楽しみながらくまなく現地を歩き、詳細に調べているのがありがたい。リュックから時々取り出し、または左手に持って、その紹介されているコースをたどって私も歩いてみました。私の場合、興味・関心の対象は、江戸城(皇居)周辺の幕末から明治半ばにかけての景観の推移。中江兆民は、慶応3年(1867年)に留学先の長崎から江戸に出て、幕末維新期を江戸・東京で過ごしています。明治4年(1871年)11月に岩倉使節とともに海外派遣留学生の一員として横浜を出航していますから、幕末・維新期を江戸・東京で過ごしたのはおよそ4年ばかり(一時期京阪神で過ごしています)。そしてフランス留学から明治7年(1874年)に帰国してからは、麹町の番町に居を構えて自宅を家塾とし、明治15年(1882年)に居宅を青山南町(青山墓地の近く)に移すまで、番町で暮らしています。「仏学塾」は明治10年(1877年)に五番町二番地に移り、明治21年(1888年)に廃校となりましたが、兆民は明治20年(1887年)に「保安条例」で東京を追放されるまで「仏学塾」と関わっていたから、およそ13年間を番町を中心に生活していたことになる。この番町からは少し歩くと皇居の堀端に出ることができ、千鳥ヶ淵や半蔵堀を見渡すことができました。その内堀沿いの道を兆民は歩いているはずですが、兆民が眺めたであろう江戸城(皇居)近辺の景観は、幕末から明治半ばにかけてどのように変化していったのか、を探っていくことが、これからしばらくの取材旅行の大きなポイントになります。以下、その第1回目の取材旅行の報告です。 . . . 本文を読む