鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ジョルジュ・ビゴーという人 その2

2010-05-01 06:34:53 | Weblog
『ビゴー日本素描集』の「ビゴー小伝」によれば、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、1860年にパリで生まれています。官吏であった父は8歳の時に亡くなり、名門出身で画家である母の手で育てられました。バリ・コミューンの時、10歳であったビゴーは、コミューンに参加した人たちをスケッチしたことがあり、それを見た母デジレーがその巧みさに驚き、息子を美術学校に入れる決心をしたという。当時流行の「ジャポニズム」の洗礼を受けたビゴーが、日本行きを決意したのは1881年、21歳の時。ビゴーが日本で学ぼうとしたことは、浮世絵のような多色刷木版画技術や日本画の表現方法であったようだ。ビゴーの横浜上陸は1882年(明治15年)の1月26日。しかし来日したものの、最も関心のあった浮世絵の技法については、絵師・彫師(ほりし)・摺師(すりし)の三者の高度な共同作業によるものであることを知って、それを学ぶことを断念。生活の糧を得るために、陸軍士官学校の画学教師や中江兆民の仏学塾のフランス語教師をやったりしていく中で、日本人や日本という国の行く末に興味を深めていくようになりました。明治15年(1882年)といえば自由民権運動が全国的に盛り上がっていた年であって、兆民の仏学塾も入塾生がどんどん増加。塾の建物(旧旗本屋敷)を新築せざるを得ないほどでした。しかし自由民権運動は明治16年あたりをピークにして間もなく衰退。仏学塾にビゴーが雇われたのは、、明治18年3月1日から6ヶ月、明治19年10月1日から6ヶ月でしたが、それは自由民権運動が政府側の圧力のもとで衰退し、仏学塾の塾生もどんどん少なくなっていった時期でした。フランス語を学ぶことは、多くの若者にとって将来を約束するものではなくなってきたのです。そのようなことを頭に入れて、明治18年10月8日にビゴーが描いた番町の仏学塾(五番町二番地)の水彩画を見てみると、2階にはもう秋だというのに簾(すだれ)が下がり、1階の障子戸は開いているものの人の姿は見えない。全体に静かで閑散とした雰囲気が漂っています。この室内に、その時はたして兆民はいたのでしょうか。そして明治20年2月になると、ビゴーは兆民やその高弟たちの協力を得て、諷刺漫画雑誌『トバエ』を発刊しますが、12月には「保安条例」が出されて兆民は東京を追放され、仏学塾も翌年には廃校となってしまうのです。 . . . 本文を読む