鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ジョルジュ・ビゴーと二人の日本人写真師 その2

2010-05-09 06:08:35 | Weblog
『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』(平凡社)の小山騰さんの「ギルマールが収集した日本の写真」によれば、横浜の写真師臼井秀三郎が生まれたのは天保10年(1839年)前後。生まれたところは下田の池之町。香取屋臼井伝八の三男でした。長姉に美津がおり、この美津は早期の写真師として有名な下岡蓮杖の妻(連杖の先妻)となっており、その縁故によってか連杖の弟子となって写真術を学び、遅くとも明治8年(1875年)には横浜で写真館を開業しているという。そして明治14年(1881年)に出版された『横浜商人録』によれば、臼井の写真館は横浜の太田町一丁目十三番地にあり、その広告によるとすでに、その頃、東京・西京(京都)・大阪・神戸・日光・箱根などの日本各地の写真を「合本」すなわちアルバムとして販売していたとのこと。つまり明治14年までにそれらの土地に出掛けて写真を撮っていたことになる。そのことは、同書に収められている47枚の、ギルマール一行の日本旅行以前に撮影された写真が証明しているところです。ギルマール一行の日本旅行の同行カメラマンとして雇われたのは、臼井が40前後のころであり、最も写真師として油の乗り切った時期であったかも知れない。そして明治27年(1894年)頃までは横浜で写真業を行っていたようですが、没年も生年とともに明らかではありません。臼井を同行カメラマンとして雇ったギルマールが旅行後にまとめた基本的な日本人および日本に対する見方は次のような一節に端的に現れています。「本当のことを言えば、住民である日本人は好きであるし、日本は世界中で最も興味がある骨董屋であると思うが、日本そのものは、人が多すぎ、悪臭に覆われ、寄生虫が多く、外出するのにはあまりに汚く、あまりにも不快であるので、日本に対して好意的にはなれなかった。私はどんなものでもうじゃうじゃと群れをなすものは、たとえそれが神の神聖な仕事の結果であっても嫌いである。」このようなギルマールが日本で興味を示したのは、日本の美術品や骨董品や美しい風景であって、そこに「うじゃうじゃ」と生きる日本人ではありませんでした。したがって彼に雇われ、彼の意図に沿うような形で写真を撮影した臼井の写真に日本人がほとんど写っていないのは、当時の写真機の機能ゆえではなくて、ギルマールの意図(指示)に忠実に従っていたからだと言うことができるでしょう。 . . . 本文を読む