鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・春の山行:明神峠~三国山~大洞山 その3

2010-05-16 07:02:23 | Weblog
さて、慶応3年(1867年)の秋に写したものと思われるベアトの須走村の写真ですが、この写真は御師の宿である「大申学」(現在でも旅館を営業しています)の前の、鎌倉街道(足柄道)の路上から撮影されています。通りの突き当たりに見える森は、須走浅間神社の杜であり、街道はその鳥居前で左折し、まもなく右折。須走浅間神社の杜の東横に沿って籠坂峠へと向かっていくのですが、その須走浅間神社の東横から「須走口登山道」が富士山頂に向かって延びており、その入口付近もベアトは撮影しています。須走から富士山を見ると、その左側の稜線の上の方に出っ張りがありますが、それが宝永山。その出っ張りのやや右あたりが、宝永4年(1707年)に大爆発を起こし、膨大な量のテフラを噴き上げ、そのテフラは折からの偏西風に乗って、富士山の東側の広範な地域に降り積もったのです。それを「砂降り」と人々は言いました。今から約300年ほど前のこと。爆発地点から東へもっとも近かった須走村は、テフラの直撃を受け、全民家は焼け潰れました。堆積したテフラは3mに及びました。厚いテフラに埋没してしまったわけで、したがってベアトが写している須走村は、その埋没した村の上に新たに造られたものでした。ベアトが銀板写真機を構えて立っている通りも、その両側の家並みも、その堆積した火山灰の上にあるわけですが、それは現在の須走も同様です。地下3mほど掘れば、そこからはかつての須走村の遺物が出てくるはずです。では、その須走村や足柄道の北側に、東西に延びる山稜、すなわち三国山系の尾根筋はどうであったか。永原慶ニさんの『富士山宝永大爆発』のP23には、「富士宝永テフラの等層厚線図」が掲載されていますが、それを見てみると、三国山の尾根筋や斜面には、64~256cmほどの火山灰が降り積もったようです。多いところでは2m前後、少ないところでも1m前後は堆積したと思われる。私がその明神峠近くから尾根伝いに登った三国山の頂きには、2m以上のテフラが堆積したことでしょう。場合によっては灼熱弾によって樹林が焼けたかも知れない。南側斜面は、火山灰を載せた偏西風がぶつかるところであり、やはり相当な量のテフラが一面にくまなく降り積もったことでしょう。その黒褐色のテフラに一面厚く覆われて、では山に一面繁茂していたはずの樹林はいったいどうなったのか。 . . . 本文を読む