鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ジョルジュ・ビゴーと二人の日本人写真師 その2

2010-05-09 06:08:35 | Weblog
 この臼井秀三郎が写した写真群を観ていく中で、私の念頭に浮かんできたもう一人の日本人写真師は、日下部(くさかべ)金兵衛でした。

 この写真師が写した写真群を、私は中村啓信(ひろとし)さんの『明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛』(国書刊行会)で知りました。

 この金兵衛の写真群を観て私はびっくりしました。たとえば表紙カバーに掲げられている「囁(ささや)き」という題の写真。これは室内で写されたもので、当然二人の娘はカメラを意識してポーズを取っているのですが、表情はきわめて自然で、右側の娘が左の娘になにやらささやきかけているその話の内容が聞こえてくるように思われるほど。構図的にもピッタリと決まっており、明治20年代後半に写されたと思えないくらい、現代でも通用する清新さをもっています。

 そういう魅力的な写真は、冒頭のカラー写真(手彩色写真)ページの中の『市民グラフ ヨコハマ』の表紙に掲げられている、鼓を打つ若い娘の写真、同じく「冬の衣装の女」、「後髪姿の女」、さらにその最後を飾っている神奈川県立博物館蔵の若い娘の写真など、さらには風景写真も含めて枚挙に暇がない。

 またP18の「人力車」、P20の「腹切り」、P91の「野菜行商人」、P113の「かさ作り」、P134の「子供たち」、「おけ屋」、P160の「巡礼者」など、当時の庶民の風俗を捉えた写真もある。それらはいずれも彼のアトリエ(写真館)で撮影されたものであるようですが、当時の庶民風俗(「腹切り」は別として)を知る上で貴重な資料になっています。

 とくに私にとって興味深いのは、P160の「巡礼者」という2枚の写真。背後に富士山が描かれていることを考えれば、この二人は「富士講」の道者が富士登山に出掛ける時の姿をしていることになります。長い金剛杖を持ち、頭には菅笠を被っており、首には数珠を掛け、手には鈴を持っています。足には白い脚絆。白足袋に草鞋履き。白装束をしていますが、それらは使い古したもの(何度も富士登山を繰り返したもの)ではなく、まったくの新品のよう。

 いずれにしろ、「富士講」の道者の白装束をしていることは疑いがない。

 これらは日本人向けに売られた写真ではなく外国人向けのもの。しかしながら日本人の庶民の風俗がわかるような写真を金兵衛は撮影していることになります。

 これは、臼井秀三郎の写真と較べてみると、やはり対照的です。

 中村さんによると、日下部金兵衛は、あのフェリーチェ・ベアトの一番弟子でした。

 日下部金兵衛が生まれたのは、天保12年(1841年)の10月。生まれたところは甲府の工(たくみ)町二丁目。商家の松屋甚右衛門の長男として生まれました。臼井秀三郎とほぼ同世代の人だということになる。

 この金兵衛、17歳の頃に江戸に赴き、甲府勤番の武士の家に居候(いそうろう)しながら、その武士の内職である土瓶の絵付けをしていたらしい。

 しかし横浜が開港すると、安政6年(1859年)頃に江戸から横浜に出て、そこで舶来の写真というものに興味関心を持ち、やがて日本にやってきたフェリーチェ・ベアトと出会うことになる。どういう機縁でベアトと付き合うようになったかはわからない。

 中村啓信さんは、ベアトの下関戦争取材に関連して次のような推測をされています。

 「ベアトはどのようにして写真(下関戦争従軍中に写した写真数枚─鮎川)を撮ったのだろうか。暗箱(カメラ)その他の器材の重量は十キロを超えるのみならず、撮影準備および撮影後の処置を考慮すれば、ベアト一人での下関への撮影旅行というものは考え難い。当時の通常での国内撮影の旅ならば大八車に機材を載せての移動ということになろう。写真師に助手が必要な所以だ。」

 とした上で、続けて、

 「下関戦争の現地に、ベアトが助手を伴っていたとすれば、目下のところ金兵衛一人を想定することが可能となる」

 と中村さんは推測されています。

 私も、そのように推測しています。

 ベアトが日本にやってきたのは文久3年(1863年)の春頃のこと。下関戦争に従軍カメラマンとして参加し取材をしているのは、その翌年の元治元年(1864年)の7月から9月(旧暦)にかけて。

 もし下関戦争に金兵衛がベアトの助手として赴いているとするならば、金兵衛はベアトが来日して間もなく(1年ちょっとほどの間に)ベアトと知り合ったことになります。

 慶応3年(1867年)12月にベアトが長崎から上海に赴いた時、ベアトと一緒に金兵衛も上海に赴いているのは確実なようです。

 また明治5年(1872年)11月にベアトが横浜からヨーロッパに向けて旅行に出かけようとした際、ベアトとともに上海まで行って戻って来たのも確かなことのようです。

 つまりベアトと金兵衛は、幕末から明治にかけてかなり親しい関係にあり、金兵衛はベアトの助手というかたちで、ベアトの写真技術や作風といったものを実地に学んでいったと考えることができるのです。

 外国人居留地17番のベアトのスタジオは、明治10年(1877年)にスティルフリード&アンダーソンに売却され、中村さんによると、この頃にはベアトはすでに日本での写真活動から手を引いていたか、日本での営業写真師としての活動を終えていたようです。

 金兵衛は、しばらくはそのスティルフリード&アンダーソンの経営する「日本写真社」に雇われていたようですが、やがて弁天通二丁目三十六番地に写真館を構えます(明治14年〔1881年〕頃のことか)。

 そして明治23年(1890年)6月には弁天通から本町通(本町一丁目七)に店を移しています。

 ジョルジュ・ビゴーが1月26日に横浜に上陸し、またヘンリー・ギルマール一行が7月4日に横浜に上陸した明治15年(1882年)には、金兵衛の写真館は弁天通にあったことになります。

 一方、その時、臼井秀三郎の写真館があったのは太田町一丁目十三番地。

 マーケーザ号のヘンリー・ギルマールへが最初に横浜に上陸した時、横浜でまず接触したのはスティルフリード&アンダーソン(日本写真社)でした(上陸してたずねた時は閉まっていた)が、その時、日本写真社にはジョン・ダグラスとディビッド・ウェルシュという二人の外国人写真師がおり、その外国人写真師からギルマールが紹介された日本人写真師が、二人がよく知っていた臼井秀三郎であったのです。

 
 続く


○参考文献
・『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』小山騰・写真師臼井秀三郎(平凡社)
・『日下部金兵衛』中村啓信(国書刊行会)


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