鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ジョルジュ・ビゴーという人 その3

2010-05-02 07:49:44 | Weblog
 その頃の東海道線の鉄道風俗を知ることのできる絵は、『ビゴー日本素描集』の「東京・神戸間の鉄道」に載っています。

 「二等車の乗客たち」「切符を買う三等車の乗客たち」からは、富裕層の人々と大多数の下層階級の人々の風俗の違いがわかります。頭にかぶっているもの・着ているもの・足に履いているもの・手に持っているもの…。歴然とした差異があるのがわかります。

 「……どうぞよい旅を……皆さんごきげんよう、さよなら……」は、駅のホームでの別れの風景。「ホームでの長いお辞儀の行列とそれを受ける側のかしこまった表情。列車が動き出して視界から見えなくなるまで続く屈伸運動。この真似は外国人にはとてもできないだろう」と解説にありますが、このような駅での風景は、もうこの日本からはすでに消えてしまったものかも知れない。ビゴーにとっても奇妙な光景の一つであり、また日本人に対して親愛感を覚えた光景の一つであったかも知れない。

 当時の写真では、まず写し撮られていない光景であったといっていい。これが絵画資料の貴重な所。

 「二等車……履物の陳列……下駄……」は、二等車の中で見た日本人の風習。当時の列車の座席は桝席にはなっておらず、中央通路に沿っての対面対座式。座席に腰掛けるより人よりも、座席に正座している人の方が多いこと。富裕層であっても、椅子に腰を掛けるという習慣がほとんどなく、長時間移動ということになれば座った方がずっと楽という人が多かったということ。したがって通路には、彼らが履いていた履き物がずらりと並ぶことになる。これも外国人にとっては珍妙な風景でした。

 さらに左端の若い女性が、着物の胸元を開いて赤ん坊に授乳している光景。乳房が丸見えですが、本人もまわりも少しも意に介していない様子。これも外国人にとってはびっくりするような光景であったでしょうが、私が幼い頃には、近所の若いおかあさんが乳房を丸出しにして赤ん坊に授乳する光景は、さして珍しいものではありませんでした。昭和30年代の後半の頃です。現在は、座席に正座している乗客も、乳房を出して授乳している母親の姿も、まず見かけることはありません。

 「一等車の乗客たち」となると、さすがに二等車や三等車と違って、椅子にちゃんと腰を掛けている。しかし「一等車」といっても、桝席ではなく、中央通路に沿って両側(窓側)に椅子が延びているもの。「二等車」や「三等車」とほとんど変わらない。シルクハットを被った紳士と、その奥方と子ども、それに女中がかしこまった姿で(煙草を吹かす紳士はともかく)椅子に座っています。

 「列車を待つ田舎者たち」は、東海道線のどこか田舎の駅のプラットホームの光景。汽車を待つ人々の当時の風俗がよくわかる。ちょんまげの者もいれば、菅笠を被った者もいる。靴を履いた者もいれば、雪駄や草鞋(わらじ)を履いた者もいる。蓑(みの)を羽織ったり、背に背負い込んでいる者もいます。足には脚絆を巻いている。多くの人々は、江戸時代以来からの「旅行き」の格好をしているのです。

 「妻をいたわる夫は……」は、東海道線夜行急行の一等車の様子を描いたもの。外国人らしい夫が、慣れぬ夜行列車の旅で寝付かれない日本人妻をいたわっている風景。椅子に横になって寝るというのは、空いている一等車や二等車だからこそ出来たこと。

 「……構内ビュッフェ……ビール、お茶など」は、やはり東海道線のある駅のプラットホームでの駅弁やお茶・ビール売りの風景。注目されるのは、ホームに置かれている急須で、おそらくこれは使用後のもの。急須を手に持って伸ばしている乗客もいる。また急須といえば、「二等車……夫をいたわる妻は……」という絵にも、通路に置かれているのに気付きます。

 これらの急須は、駅弁とともに売られたもので、「千代田区立四番町歴史民俗資料館」に展示してあった「汽車土瓶」というもの。その土瓶の表面には、それが売られている駅名が記されています。使い捨てされて列車内に残っていたものを、回収して捨てたもので、それが出土したところは「丸の内一丁目遺跡」でした。このお茶入りの土瓶(急須)は、駅弁が売られるようになってから各駅で駅弁とともに発売されるようになり、そしてやがて全国的に普及していったものであるでしょう。

 「十分停車 洗面所は」は、夜行急行列車が朝方、どこかの駅に到着し、そこで乗客が小便をし洗面をしている風景を描いたもの。駅のトイレがどういうものであったのか、洗面所の設備はどういうものであったのかがよくわかる。

 『続ビゴー日本素描集』には、東海道線の「踏切番」という絵が収められています(P105)。画面左端のレールの向こうを、手前に向けて走ってくるのが東海道線の蒸気機関車。中央やや左手に四角い旗を左手に持って踏切番をしている若い女性が描かれています。その女性は赤ん坊を背負っていることから母親であることがわかる。その女性の後ろには、子ども2人を含む村人たちが描かれています。当時の列車の一日の運行数は少なく、踏切の通過時間を見計らって近所の女性が踏切番として踏切に駆けつけたのでしょう。通過時間を見計らう手段は、当時は高価であったと思われる時計であったのでしょうか、それとも列車の遠くからの汽笛の合図であったのでしょうか。

 女性の仕事として、こういうふうに鉄道と関わる仕事もあったという貴重な記録を、ビゴーは私たちに残してくれました。

 これらは、外国人画家であるビゴーならではの作品といっていい。

 これら一連の東海道線に関わる絵に見られたビゴーのユニークな視点は、これらの作品にとどまらずあらゆる分野に見られるところで、なかなか名所や観光地、あるいは肖像写真などを中心にした当時の写真では見られないものだといってよく、写真ではなかなかうかがい知れぬ部分を埋めていくものだといっていいかも知れない。写真はたしかにリアルなものでさまざな情報を含んでいるものではあるけれども、当時の人々のなまなましい現実生活の「息吹き」といったものまでを伝えてくれるものではない(少ない)。

 ビゴーの作品を見ていると、当時の人々の笑い声やため息やささやき、また生活の物音までもが聞こえてくるようです。


 続く


○参考文献
・『ビゴー日本素描集』清水勲編(岩波文庫)
・『続ビゴー日本素描集』清水勲編(岩波文庫)


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