神田川水運について詳しいのは、坂田正次さんの『江戸東京の神田川』(論創社)という本。坂田さんは、神田川は江戸東京の「母なる川」とでもいえる性格を持っていると結論づけています。この本によれば、神田川は、昭和40年以前において、上流域を「旧神田用水」、中流域を「江戸川」、下流域を「神田川」と言い、この「神田川」は、船河原橋・小石川橋のあたりよりこの名があり、「末は柳橋」(すなわち神田川が隅田川に流れ込むところ)までを言ったという。江戸城の外堀としての神田川は、北側の牛込門から浅草橋門の間。神田川が隅田川に流入する柳橋から神楽河岸までが、「一大消費都市江戸の船による輸送路としての役割」を持った部分、つまり「神田川水運」が活発に展開された流域であり、多くの河岸や問屋などが集中するところであったのです。たとえば米問屋ですが、神田川筋の米問屋は地廻り米穀問屋が多数を占め、幕末期において、筋違(すじかい)御門橋より美倉橋にかけては40軒の米問屋、美倉橋より下流には13軒の米問屋があって、その軒数の多いことでは江戸市内で第一であったという。玄米を仕入れて精米し、江戸市民へ供給する舂米(つきこめ)屋もこのあたりには集中していたとも。「江戸湊(みなと)」という言葉がありますが、これは、日本橋川・京橋川・楓(かえで)川・神田川などの堀川に設けられた河岸によって構成されるもの(堀川に設けられた河岸の総体)であることを、私はこの本で初めて知りました。江戸湾=江戸湊ではないということです。この本によれば、神田川の河岸は12ありました。下流から順に挙げていくと、浅草茅町河岸・左衛門河岸・岩井河岸・柳原河岸・鞍地河岸・佐久間河岸・昌平河岸・紅梅河岸・三崎河岸・市兵衛河岸・飯田河岸・神楽河岸。このうち、柳森神社(出世稲荷)のところにあった柳原河岸(稲荷河岸とも)は、葛西・砂村方面の野菜が輸送され、陸揚げされました。神楽河岸はその神田川水運の終点であり、牛込揚場(あげば)があって、船溜まりもあり、そこから北に上がる神楽坂は「山の手の下町」と言われるほど庶民情緒が漂う活気が溢れたところでした。その神楽坂より東側に平行する坂道が「軽子坂」ですが、この坂の界隈には河岸で働く肉体労働者(軽子)が多数住んでいたという。「山の手の下町」神楽坂は、今でも人気を集めるところですが、それには歴史的由来があったのです。 . . . 本文を読む