鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ジョルジュ・ビゴーという人 その2

2010-05-01 06:34:53 | Weblog
 ビゴーの人となりを伝えるものとしては、たとえば明治18年(1885年)12月9日の『改進新聞』に次のような記述がある(『ビゴー日本素描集』の「ビゴー年譜」に所載)。

 「同氏は元来画を好くするのみならず、その銅版彫刻に至りてもすこぶる巧妙の聞えあり…ビゴー氏は…仏国巴里に生る。故に氏は自ら仏国の江戸っ子なりと自称せり。

性得画事を好み、寸時も筆紙を離すことなく…氏は我邦に来りて未だ満二年なれども、言語よく通じ、就中(なかんずく)三絃月琴にも詳しく、実に仏国の粋人ともいうべき好男子なり。

寓居は上三番町十三番地にありて画学の傍ら仏語学を教授しその勉励至らざるなし。」

 ここに「寓居は上三番町十三番地」にある、とありますが、それは私がその跡地を確認した「土手三番町十六番地」や、確認はしなかったもののもう一つの「下二番町十三番地」とは違うようです。

 しかし同年3月の『郵便報知新聞』の広告には、「麹町区土手三番町十六番地 美術師 仏人 美郷」とあるから、その後の転居先かも知れない。

 明治19年(1886年)10月1日、仏学塾仏語学教師に6ヶ月間契約、月給20円で雇われた時のビゴーの住所は、「麹町区二番町十三番地山本真彦方」になっています。

 同じく清水勲さんの『ビゴーが見た日本人』には、「第一図 自画像」として次のような記述があります。さきほどの『改進新聞』の紹介記事にビゴーの自画像が載っているのですが、その解説です。

 「太い鼻柱と口元の格好からいって、きわめて意思の強そうな人物である。輪郭の大きい二重まぶたは好奇心の旺盛さを示している。どんな対象もその一瞥で特徴を瞬時につかんでしまうカメラのシャッターのような眼をしている。

髪の毛はあまり豊かではない。西欧人に多い頭部薄毛体質で、三十代も後半には若はげになるタイプである。

…体型は小柄(身長一六0センチ)でやせ型の人物であったようである。…眼つきが鋭く、日本人から見ると“こわい”顔ではあるが、本人はきわめて社交的で愛想が良く、スケッブックをかかえて町を歩くとき、若い女性にはウィンクの一つも投げかけて流暢な日本語で話しかけ、あるいはくそ丁寧におじぎをしてスケッチのモデルを頼み込み、あわよくばデートを申し込んで一日を陽気に遊びまわるような男であったようだ。

どんなに異なった環境にもうまくとけ込んでいける順応性。それがこの男の身上だったのである。」

 同じく清水勲さんの『明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界』には、明治15年(1882年)4月7日、横浜で写した写真と、明治18年(1885年)9月16日に写した写真、それに明治31年(1898年)に写した写真などが掲載されています。

 明治15年のそれは、「侍姿のビゴー」というもので、紋付袴の帯刀姿。頭はどうもカツラを被っているようだ。当時、ビゴーは22歳。横浜に上陸して2ヶ月余が経っています。侍衣装がカツラを含めて用意されており、外国人向けに侍姿の写真を撮る写真館が横浜にあったことになります。

 明治18年のそれは、同年9月16日に撮影されたもので、五番町二番地の仏学塾にフランス語教師として雇われる直前の写真。もしかしたら仏学塾に雇われる時の提出書類のうちの肖像写真(証明用の写真)として撮影されたのかもしれない。仏学塾で塾生たちにフランス語を教えていた時のビゴーの風采はこのようなものであったのです。まだ25歳ですが、頭髪は中央部をのぞいてその両側に後退しています。

 明治31年のそれは、37歳の時のビゴーで、アトリエらしきところでキャンバスに向かっています。13年の間で、ビゴーはやや小太りになっています。当時ビゴーはすでに日本人女性の佐野マスと結婚しており、寓居は「牛込区市ヶ谷仲ノ町46番地」にあったようで、この写真を写したアトリエは「市ヶ谷仲ノ町」の寓居の中にあったものかも知れない。

 ビゴーは来日して陸軍士官学校の画学教師となって多くの給料をもらうようになると、新吉原や花街などに遊んで、花街で働く女たちやそこで遊ぶ人々の姿などを細かくスケッチしています。おそらくビゴーは、新吉原に入った時もスケッチブックを肌身離さず持ち歩き、そこで暮らす人々のようすや生活を、「風俗ドキュメント」のようにスケッチブックに描いたのです。

 明治16年に刊行された銅版画集『おはよ』に「花魁(おいらん)図」を載せているということは、ビゴーは新吉原のある遊廓の「花魁」にも会って、スケッチブックに絵筆を走らせたということになります。

 『ビゴー日本素描集』には、「幕末以降、多くの来日外国人が吉原を訪れるようになる。性を売る女たちがいる街は、外国人にとっても最も興味深い地域の一つだったからである。」

 とありますが、ビゴーもそういう外国人の一人でした。彼は来日前から日本の浮世絵に深い関心を持っていましたが、浮世絵には多くの遊女たちが登場する。彼が新吉原へひんぱんに足を向けたのは、それも理由の一つかも知れない。花街の女たちとのざっくばらんな会話を重ねていく中で、彼は日本語による日常的な会話を覚えていったのかも知れません。


 続く


○参考文献
・『ビゴー日本素描集』清水勲編(岩波文庫)
・『番町麹町「幻の文人町」を歩く』新井巌(彩流社)
・『明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界』清水勲編著(山川出版社)


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