鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.5月取材旅行「両国~お茶の水~四谷」 その3

2010-05-21 07:18:19 | Weblog
広重の描く『名所江戸百景』「両ごく回向院元柳橋」の風景を、私は最初「冬」だとしましたが、それは間違いで、実は4月頃の風景であることを知ったのは、原信田(はらしだ)実さんの『謎解き広重「江戸百」』(集英社新書ヴィジュアル版)という本。この本を改めて手にとってみると、その考証の詳しさに一驚します。この本のP99~P101の記述によれば、この絵では、梵天が櫓太鼓から突き出ていますが、これは安政4年(1857年)4月にあった回向院境内での出開帳を示すもの。この出開帳の時には、勧進相撲や生人形の見世物も出ています。この出開帳のメインは、上総国芝山の観音寺の十一面観音。出迎えには、吉原十人講や相撲取、山伏の大勢の行列など異色の集団が加わっており、彼ら一行は、千住宿→下谷→御成街道→筋違(すじかい)御門→須田町通り→駿河町→魚河岸→大伝馬町→横山町の通り→両国橋→回向院というコースをたどったという。この画面に描かれる隅田川の手前、右手へ進んだところに両国橋の東詰めがありましたが、このあたりは、大山参りに先立って行われる水垢離の場所(垢離場)でもありました。大山は6月27日が「山開き」で、山へ詣でる人々は、その前に垢離場へ行って禊(みそぎ)をしましたが、その場所の一つがこの両国橋東詰め。気のはやい江戸っ子は、「山開き」の27日に大山に到着するように、24、5日頃から江戸を出立したということですが、ということは、この両国橋東詰めの垢離場は、24日前後から川に入って身体のケガレを清める人たちの姿が見られたということになる。多くは、大工・鳶(とび)・左官などの職人衆であったようです。「もゝんじや」の宣伝チラシにも、また北斎の描く両国橋の絵にも、「大山石尊大権現」の文字がありましたが、このあたりは江戸っ子と大山信仰が深く結びついた地域でもあったのです。 . . . 本文を読む