鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.5月取材旅行「両国~お茶の水~四谷」 その7

2010-05-25 07:15:18 | Weblog
河岸を描いた絵はどうかというと、『百年前の東京絵図』で探してみると、「神田柳原河岸通り」は「河岸通り」というものの河岸そのものは描かれていない。京橋の「竹河岸」も描かれていますが(P154~155)、やはり河岸そのものは描かれていません。一番「河岸」のようすがわかるのは、P84~85の「三つ橋の現況」という絵。この「三つ橋」というのは、「本材木町」(現・京橋)と本八丁堀(現・八丁堀)を結んだ橋。したがって神田川に架かっていた橋ではありませんが、河岸のようすがよくわかる絵です。このあたりを『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)で見てみると、左手下の木橋が白魚橋、左手奥の鉄橋が弾正(だんじょう)橋、右手の木橋が真福寺橋であるから、「白魚屋敷」の上空から本八丁堀一丁目方面を俯瞰したものということになります。左下から右上に流れるのは八丁堀、弾正橋が架かっているのは楓川、右端中央にわずかに見える真福寺橋は三十間堀に架かっています。『情報地図』を見ると、中央の、弾正橋を渡った右手に見える広場は「河岸」と記されており、その対岸の善福寺橋の右手(そこは描かれていない)も「河岸」と書かれており、八丁堀の三つ橋の東側(下流)の両岸は河岸であったことがわかります。道が十字に交差するように、川(堀川)が十字に交差するところもあったというのは面白い。この中央やや上の河岸のようすを見てみると、荷船が接岸したところであり、その荷船から束にした薪のようなものが陸揚げされています。また河岸の広場にはさまざまな物資が山積みされており、その右側(東側)に白壁の蔵が建ち並んでいます。八丁堀には、屋形船や荷船が活発に往き来し、筏(いかだ)までもが通行しています。陸上においても、人力車や大八車、馬が引く荷車などが往来しており、この三つ橋あたりの活況を見事に描き出しています。河岸は、本八丁堀一丁目の通りからゆるやかに八丁堀に向かって傾斜しており、荷揚げや荷積みがしやすいようになっています。また河岸の近くには蔵や問屋などもびっしりと建ち並んでいたりします。これが河岸の一般的なようすだと思われる。この『百年前の東京絵図』から、明治東京の水運がいかに活発なものであったのかを明らかに示す一枚を紹介しましょう。それはP120~121の「中洲付近の景」というもの。今は「中央区日本橋中洲」というところ。いや、驚きの光景です。 . . . 本文を読む