鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.5月取材旅行「両国~お茶の水~四谷」 その5

2010-05-23 07:03:18 | Weblog
明治30年代の「神田柳原河岸通り」を描いた石版画がある。作者は山本松谷(茂三郎・1870~1965)。掲載されているのは『百年前の東京絵図』山本駿次郎(小学館文庫/小学館)のP102~103。山本松谷の『新撰東京名所図会』の絵は、明治東京の通りの賑わいや雑踏、そこを往き来する様々な職業や身分の人々や老若男女の姿を、愛情を込めて生き生きと描いている点でたいへん興味深いものですが、この「神田柳原河岸通り」の絵もその例に洩れない。解説には、「柳原河岸というのは、万世橋から浅草橋までの神田川南岸の総称で、今の神田佐久間河岸がその上流に当る」とあり、また、「江戸時代から、日本橋富沢町、芝日蔭町などと並んで、神田柳原土手は、古着屋が立ち並ぶ場所として有名であった。これらの古着屋は、店といっても仮小屋である」とあります。この絵が松谷によって描かれたのは明治33年(1900年)ですが、その頃にも古着屋が通り沿いに小屋掛けしていたことがわかります。しかしずらっと立ち並ぶというほどではない。いろいろな姿の人々が通りを行き交い、人力車も4台通りを走っているものの、この通りを行く人々はほとんどが和装で、洋服姿の人は一人もいない。人力車や電柱と電線がなければ、幕末の頃の風景を描いたといっても通るほど。しかしこの通りの風景は、人力車や電柱以外に、江戸時代とは決定的な違いがあります。それはこの通りが土手ではなくなっていること。江戸時代においては、この古着屋や古道具屋などのよしず掛けの小屋が並ぶ通りは、神田川沿いの柳の並木のある土手であり、その土手下(南側)に町屋があったのですが、その柳原土手は、明治6年(1873年)に浅草御門の撤去とともに崩されてしまったのです。したがってここに描かれた柳原通りは、現在の柳原通りのかつての姿ということになる。さて、この絵では柳原通りの南側に2階建て黒瓦の商店が軒を並べ、北側(画面右側)には、石塀で囲まれた柳森神社が描かれています(「柳原神社」とあるのは間違い)。右端上に石鳥居の上部がのぞいているから、描かれているのは柳森神社の西半分ということになる。古道具屋の小屋掛けが並んでいるのは柳森神社の石鳥居の西側ということになる。柳森神社は「柳森稲荷」「出世稲荷」として知られ、神社の杜の裏手(神田川沿い)の河岸は、したがって「稲荷河岸」とも言われていました。 . . . 本文を読む