鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・春の山行:明神峠~三国山~大洞山 その2

2010-05-14 06:58:37 | Weblog
幕末にフェリーチェ・ベアトにより写された須走村の写真があります。1枚は、『F.ベアト幕末日本写真集』のP91上の写真。1枚は、『F.ベアト写真集2』のP13下の写真。さらにもう1枚は、『冨嶽写真 写された幕末・明治の富士山』のP22の写真(上は彩色写真で下は無彩色)。そして前の2枚は、この『冨嶽写真』のp21の上下に掲載されています。P22の写真も含めて、これらはベアトが撮影したものと見て間違いはない。ほぼ構図が同じであり、富士山の雪の形も同じであり、写っている人物にも同じ人がいるからです。影の差し方も同様であり、同じ日のほぼ同時刻に撮影されたものと思われる。『冨嶽写真』では、撮影された年は「慶応3年」(1867年)となっていますが、どういう根拠に基づくものであるのかはわからない。「慶応3年」であるとして、では季節はいつか。富士山が雪を被っていること、人々がやや厚着をしていることから、私は秋ではないか(10月頃)と推測しています。須走付近でベアトはもう2枚、富士山の写真を撮影しています。それは『F.ベアト写真集2』のP41上下の写真(上の写真は『冨嶽写真』P25の写真と同じ)。このP41上の写真は、須走口登山道の入口付近(須走浅間神社の杜の東横)からの富士山を写したもので、やはり同時期に撮影されたもの。ベアトは同時期に上吉田から見た富士山(『F.ベアト幕末日本写真集』のP90、P91下)および上暮地の桂川沿いからの富士山(『冨嶽写真P15』)も撮影していますから、「慶応3年」が正しいとすると、ベアトは慶応3年の秋に、おそらく箱根→乙女峠→御殿場→須走→籠坂峠→上吉田→上暮地というルートで写真撮影旅行をしていたことになります。残された写真からみると、ベアトのこの写真撮影旅行のテーマは富士山でした。富士山をさまざまな地点からベアトは撮影しようとしたのです。この旅行は同年夏のポルスブルックの富士登山旅行に同行したそれとは別のもの。「慶応3年」の秋だとすると、ポルスブルックの富士登山旅行に同行して、その後、ふたたびベアトは富士山を撮影するために箱根~須走~上吉田を歩いたことになりますが、それがなぜ可能であったのかはよくわからない。ポルスブルックと同行した時は、ポルスブルックがオランダ公使であっただけに、外交特権もあり遊歩区域外の国内旅行免状は手に入れやすかったのですが…。 . . . 本文を読む