小山町立図書館は「道の駅おやま」の近くにあります。この図書館の前の道を小山駿河駅の方へ下っていけば、阿多野池を見ることができます。その図書館で、宝永の富士山大爆発の「砂降り」による三国山系の被害の状況を知ることができる資料を探してみたところ、『小山町史第九巻民俗編』に、「三国山系の森林」という記述がありました。それによると、三国山系の「県境の尾根」は、「土壌は未熟で火山礫(れき)が堆積したままの状態になっている」とあります。もちん「火山礫」とは、宝永の富士山大爆発によるものです。さらに「土壌(砂礫)の硬度はきわめて大きく、全体で固く締まった状態になっており、根は地中深く伸張することはできない」ともある。生えている木々は、ミズキ・ダケカンバ・カラマツ・ブナなどの落葉広葉樹。このあたりにブナの侵入した年代は、1820~1908年以前。ダケカンバやカラマツは1800年頃という。三国山系の南面麓一帯で、宝永噴火を生き延びた木として、中日向に樹齢400年のケヤキがあるといい、また小山町の巨木のいくつかは宝永噴火をくぐり抜けて生き延びていますが、それらは稀(まれ)であって、宝永噴火による火山灰堆積は、三国山系の森林や麓一帯の森林に大きな被害を与えたようです。宝永噴火以前の樹林は、厚い火山灰の堆積により、やがてほとんどが立ち枯れてしまい、その堆積した火山灰の上に新たにブナやダケカンバやカラマツ、またミズキなどが徐々に繁茂するようになったというのが実情であるらしい。三国山系の樹相も、宝永の大噴火以前と以後では大きく変化したことでしょう。永原慶ニさんの『富士山宝永大爆発』には次のような記述があります。「降砂は耕地・道路・水路・山野といわず至るところを埋めてしまったから、農村の生産・生活基盤を完全かつ長期的に破壊しつくしたことになる。…山野の植生が失われたため、その恢復がないうちは薪炭用の雑木、肥料・秣(まぐさ)用の草の採取も不可能となった。」三国山系の雑木林は、薪や炭を村人たちに供給するものであったのですが、その薪や炭を手に入れることが困難になったということです。また秣(まぐさ)としての草の採取も不可能になったため、運搬や農耕用、荷稼ぎ用として飼われていた馬に与える餌がなくなり、それらの馬を売り払うか、または餓死に至らせないためにやむなく殺害するということもあったかと思われます。 . . . 本文を読む