鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山の銚子への旅 その3

2012-01-29 06:46:37 | Weblog

 銚子と言えば、今でもそうであるけれども、太平洋で獲れた鮮魚が水揚げされる漁港としての性格を、かつても持っていました。

 飯沼観音から東の利根川沿いには飯貝根(いがいね)という漁業集落が存在し、そこには享保5年(1720年)には「八手網(はちだあみ)」が42張も存在し、明治19年(1886年)にも八手網税・棒受網税・雑魚税・鰹釣魚税を負担しており、各々、その数字は外川(とかわ)港のある高神村に次ぐものであったという。

 今宮村・荒野村・新生(あらおい)村の人々も、もともとは専ら漁業を営み、利根川べりには「納屋場」があって漁民が居住していたものが、商工業が発展していくと、商工業に転業していくものが多くなり、漁業はもっぱら飯沼村と高神村に限られていくようになりました。

 銚子の主要4ヶ村でも、商工業中心の荒野村・今宮村・新生村と、利根川河口部(飯沼観音より東)の飯沼村(特に飯貝根)とは、その性格を大きく異にしていたと言えます。

 崋山はおそらく飯沼観音にも立ち寄り、そこから利根川河口部を見下ろしていると思われるから、漁業集落としての飯貝根を知っていただろうし、また和田不動堂の上からやはり眼下に広がる飯沼村の家並み(川岸には飯貝根の漁業集落がある)を眺めているから、その飯沼村と他村との性格の違いがよくわかっていたはずです。

 彼は、「常陸波崎ヨリ銚子ヲ見ル図」において、利根川河口部の飯貝根に密集する漁船を描き、また『刀祢河游記』(とねがわゆうき)においては、田場や飯貝根の漁師たちの「漁(すなど)る声」を利根川に浮かべた舟の上で聞いたことを書き留めています。

 銚子の飯沼村では、鰯漁(八手網による)が行われるとともに、干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)の生産も行われていただろうし、また鮪・鰹・鯛(金目鯛)・鱸(すずき)・ヒラメなどの鮮魚も水揚げされていただろう。

 干鰯や〆粕などは利根川高瀬船で江戸へと運ばれ、そして鮪や鯛などの鮮魚は、夏ならば関宿回り(すなわち利根川・江戸川経由)の「活舟」(生簀〔いけす〕仕立てのある船)で直接送られました。

 そして冬ならば「生船(なまぶね)」(猪牙舟)に積み込まれて、木下(きおろし)や布佐(ふさ)まで運ばれ、そこからそれぞれ行徳や松戸まで馬の背で陸送された鮮魚は、またそこで舟に載せられ江戸日本橋へと運ばれたのです。

 銚子を夕方に送られた鮮魚は、日本橋の魚市場で、三日目の朝売りに間に合うようにするのがしきたりであったという。

 鰯の「八手網漁」は、江戸時代初期に関西地方の出稼ぎ漁師たちによって房総半島へと伝わり、その漁法は関西からの出稼ぎ漁師ばかりでなく、地元の漁師たちにも定着しました。

 「八手網」は、江戸時代初期から、鰯漁においては地引網と並んで主要な漁法であったのです。

 崋山がこの「八手網」という鰯漁の漁法について深く関心を持ったのは、この「四州真景」の旅の途上、木下(きおろし)街道白井(しろい)宿の「藤屋八右衛門」という旅籠で、「椎名内(しいなうち)村名主」の「弥右衛門」という者と語り合ったことにありました。

 崋山は、「弥右衛門」から聞いた「八手網」漁の要点を、わざわざ日記に書き留めています。

 この「八手網」漁は、実は、崋山が滞在していた銚子の、飯沼村(飯貝根)や高神村においても行われていたのであり、崋山にはその実際を目にする機会もあったのではないか、と思われてきます。

 「ああ、弥右衛門が言っていた八手網とはこういうものであったのか」

 と、興味・関心を抱いていただけに、それを実見した時の感動もあったのではないか。

 では、銚子および銚子近辺で漁獲された大量の鰯をもとに生産された干鰯は、「利根川高瀬船」によって、江戸のどこに運ばれたのか。

 『房総漁村史の研究』(千葉県郷土史研究連絡協議会)によると、元禄13年(1700年)、銚子および銚子近辺の干鰯は、深川小名木川町の「銚子場」に運ばれています。

 一方、九十九里浜方面の干鰯は、「江川場」(深川江川町)に運ばれています。

 深川の西永代町は「干鰯場」と称せられ、永代橋付近に「干鰯」を積み込んできた「利根川高瀬船」が密集して碇泊しており、「江戸干鰯問屋仲間」は、「銚子場」「江川場」そして「永代場」「元場」の4ヶ所に荷物揚場を所有していたのです。

 深川は、房総半島で生産された大量の「干鰯」を扱う、肥料の町でもあったのであり、その江戸と房総半島(特に銚子)との深いつながりについても、崋山の知るところであったに違いない。

 『渡辺崋山集 第1巻』の解説によると、行方屋(大里庄次郎)は、銚子に本店を置くとともに江戸にも出店を置いていたという。

 江戸のどこに出店(支店)を置いていたかはわからないが、通り隔てた真向いの広屋(浜口)儀兵衛が江戸日本橋小網町に出店を設けていたことを考えると、もしかしたら日本橋小網町であったかも知れない。

 その日本橋小網町の三丁目には「行徳河岸」があり、そこからは、明治12年(1879年)にそれが廃止されるまで、「行徳船」が下総行徳河岸へ向けて出ていたのです(もちろん下総行徳河岸からの着船も)。

 そして「四州真景」の旅に出る時、崋山が江戸を「行徳船」で出立した際、その場所は日本橋の「小網町三丁目」であり(加田屋長左衛門から船を借り切る)、そして旅を終わって「行徳船」から下りたのもこの「小網町三丁目」であったのです。

 日本橋小網町三丁目の行徳河岸は、房総半島北部の利根川水系への、江戸における窓口でした。

 銚子と、江戸の日本橋(日本橋川)や深川(小名木川・隅田川)とは、物流において密接なつながり(米・醤油・海産物・干鰯・赤穂塩・小麦等における)があったのであり、そのことについて、おそらく情報収集力旺盛で観察力豊かな崋山は、この「四州真景」の旅において認識を深めていったものと私は推測しています。


 続く(次回が最終回)


○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・「港町銚子の機能とその変容」舩杉力修・渡辺康代理『歴史地理学調査報告第8号』所収
・「幕末期江戸近郊農村における醤油の醸造」鈴木ゆり子(『幕末の農民群像─東海道と江戸湾をめぐって』横浜近世史研究会編(横浜開港資料館発行)所収
・『利根川と木下河岸』山本忠良(崙書房)
・『年表 江戸・明治・大正の銚子』岡田勝太郎編
・『旭市史 第一巻』(旭市)
・『房総漁村史の研究』千葉県郷土史研究連絡協議会編



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